010 インビジブル・バレット(3)

 ――しばらくして俺は、肩のあたりでゆっくりと揺れている自分の右手に気づいた。その手を降ろしながら、今度は自分の顔がごく自然に微笑んでいることを知り、即座にそれをこわばらせた。


 ……何というか、さっきのは実にいい雰囲気だった。それこそ絵に描いたような、『これから何か始まりそうな二人』の会話だった。


 あまり好ましいこととは言えない。というか、積極的に良くない。


 相手はペーターなのだ。ああした展開にならないようにこちらで気をつけねばならないのだ。これまでのように――高校の頃からずっとそうしてきたように。


 だが、けれども……。


「先輩と一緒なら、か」


 どうも最近になって、俺の中で彼女に対する感情は変化してきている。相変わらずうざったい気持ちは心のどこかにあるが、一緒にいて楽しいと感じることが多くなってきたように思う。


 そもそも客観的に考えれば、年下の可愛い女の子に好意を向けられて悪い気になる男などいない。


 古い記憶が蘇り、俺は小さく一つ溜息をついた。気晴らしに木洩れ日でも眺めようとベンチに座ったまま背を仰け反らせ――そこで頭のうしろに何か柔らかいものが触れた。視界の上の端、瞼に隠れるか隠れないかのあたりに、冷たい目で俺を見おろすアイネの顔があった。


「……!?」


 慌てて姿勢を戻し振り返った。そんな俺を一瞥したあと、アイネは漠然とペーターが消えていった方を眺めた。


「ずいぶん仲良くなったじゃない。ひところに比べると」


 俺がうまく反応できないでいると、アイネはまたこちらに視線を戻し、そっけない調子で「先輩と一緒なら、か」と呟いた。


「……盗み聞きとは趣味がいいな」


「生憎そんな趣味は持ち合わせておりません。ただあんまりいい雰囲気だったから声かけられなかっただけ」


「……ったく、どのあたりから聞いてたんだよ」


「人に聞かれたら恥ずかしいことでも話してたの?」


「別にそんなこと話してない」


「そう? わたしは聞いててかなり恥ずかしかったけど」


「何しに来たんだ。おちょくりに来たのか?」


「まさか。わたしも先輩に用があって来たんです。時間があるようなら、ちょっとそこまでつきあってくれない?」


◇ ◇ ◇


 大学の構外へ出てから二人の間には一言もなかった。俺はただアイネのあとに従った。何をしにどこへ向かっているのかわからないままだったが、敢えてこちらからは尋ねなかった。アイネがこうして黙っているときはよほど怒っているか――それとも何か話しづらいことを抱えているか、二つに一つだ。いずれにしても気安く話しかけるのは得策ではない。


 太陽はそろそろ真上に達しようとしていた。額から流れ落ちた汗が目に入り、滲みた。前を行くアイネの背中に濡れたシャツが張りついているのが見えた。雲一つない青空の下を俺たちは黙々と歩きつづけた。


 それでも人通りの少ない小路を抜け、薄汚れた商店街の看板が見えてきたとき、ついに俺の方で長らくの沈黙を破った。


「そろそろ話してくれてもいいんじゃないか?」


 アイネの答えはなかった。まるで俺などいないかのように、彼女は押し黙ったまま小道に靴音を響かせた。


 場末の商店街に人影はまばらだった。平日のこの時分、ここ界隈がいつもこんな感じであることを、俺は知っている。昨日ペーターと訪れた模型屋の前を通り過ぎた。閉ざされたシャッターの裏側で、あの爺さんはどんな休日を過ごしているのだろう。


「なあ、いい加減に――」


「蝉の声」


「え?」


「蝉の声が聞こえる」


 歩みを遅めながら独り言のようにアイネは呟いた。けれども俺の耳に、蝉の声などどこからも聞こえなかった。


「聞こえないな」


「ずっと遠くの方で鳴いてる。よく耳を澄まして」


 そう言われて俺は耳の裏に手をあてた。……するとたしかに聞こえた。方向さえわからない遙か彼方で、一匹の蝉が腹を震わせるかすかな音が、鼓膜に届いた。


「……本当だ」


「今年最初の蝉じゃない?」


「違うだろ。まあ俺は初めてだけどな。今年になって蝉の声聞いたの」


「わたしも。それって悲しいと思わない?」


「何の話だ?」


「蝉の話。最初の蝉って悲しい生き物だと思って」


 閑散とした町並に規則正しい靴音が響いていた。その音に混じって、蝉の声がゆっくりと少しずつ大きくなっていくのがわかった。


「蝉が何のために鳴くか知ってる?」


「知ってるよ。交尾の相手を呼ぶためだ」


「そう、そのため。だからわたしはあの蝉を悲しい生き物だと思う。あんなに必死で鳴いて。気づいてくれる相手はどこにもいないのに」


「他の連中もすぐ土から這いだしてくるだろ。こんな天気が続けば」


「予報聞いてないの? 明日の午後から雨だって。そのあとしばらく春に逆戻り」


「ああ、そう」


「……待ちきれなかったんだね、あの蝉。期待して出てきたら誰もいなくて、もう土の中に戻ることもできなくて、それでも恋の歌を歌わずにはいられないなんて、そんなの悲しすぎると思わない?」


「まあ、たしかにな。悲しい蝉だと思う。そう言われてみれば」


 つき従う俺の目には後ろ姿しか見えなかった。けれどもアイネがどんな表情で喋っているのか、それが何となくわかる気がした。こんな話を聞かせるために、彼女がわざわざ俺を連れ出したはずはない。本当に話したい内容は、何か別のことに違いないのだ。


「で、その悲しい話から、いったい俺は何を読みとればいいんだ?」


「……変わらないね、そういうとこ。ハイジの悪い癖」


「どういうことだ?」


「意味がない会話なんてないって信じてる。人は何か伝えたいことがあってしか言葉を喋らないんだって。……そんなわけないのに」


 そこでアイネは立ち止まり、おもむろにこちらを振り返った。


「わたしはあの蝉を悲しい生き物だと思った。だからその気持ちをたまたま隣にいた人間に聞かせただけ」


「……」


「それなのにハイジは、そこにきっと何か重要な意味が含まれているんだって、そんな風に思いたがる」


「……言いたいことがあるならはっきり言え」


 アイネはまだ何か言いかけたが、その俺の一言で口を閉ざした。しばらくの沈黙があった。蝉の声が少しだけその大きさを増した気がした。


「リカがいないの」


「え……?」


「会議のMD渡さないといけないから、一限はリカと一緒の授業に出てずっと待ってた。でも結局、最後まで来なかった。専門の必修だし、今日は小テストがあるって先生が言ってて、前の授業でリカもそれ聞いてたから来ないはずないのに」


「……そうなのか」


「昨日、夜に電話くれたでしょ? あのあと何回かリカに電話かけてみたけど繋がらなかった」


「いや、でも昨日あいつらに会ったっていうのは――」


「ハイジが言ってたことを疑ってるわけじゃない。話してくれたことは本当だって信じてる。でも……」


 アイネはそこでいったん言葉を切り、視線を逸らした。そして改めて、強い光を宿した瞳を俺に向けた。


「でも昨日のあの電話は、すごく不自然だった」


 心の奥底までも見透かすように、その瞳はじっと俺を見つめた。彼女が何を言いたいのか、それでだいたい理解できた。


「……わかった。昨日あいつらを見失った場所に案内する」


 溜息とともにその一言を吐いて俺は歩き始めた。今度はアイネがあとからついてくる。それを確かめたあと、俺は道の先に視線を戻し、もう忘れようと思っていた感情の迷路に再び足を踏み入れる決心をした。


「……もっとも、うまく案内できるかわからないけどな」


◇ ◇ ◇


 道すがら、俺は昨日の出来事をできるだけ詳しくアイネに語った。


 ペーターと買い物をした帰り道にリカたちを見たこと。二人が手を繋ぎ、幸せそうに歩いていたこと。会議のことで一言かけようと追いかけたこと。悠然と歩く二人に、いくら走っても追いつけなかったこと。――ついに二人を見失ったとき、周りに見覚えのない風景が広がっていたこと。


「たしか、この辺りだ」


 一時間ほども歩き続けただろうか。俺たちは入り組んだ裏路地の奥、垣根に囲まれた細い道の真ん中に立っていた。炎天にあぶられた舗装路には逃げ水と、昨日と同じようにかすかな陽炎が見えた。


「この辺りでその、がらっと別の風景になったの?」


「いや、違う。景色それ自体が変わったわけじゃない。その場所もここと同じような、何の変哲もない普通の道だった。ただ――」


 言いよどむ俺にアイネが言葉を継いだ。


「ただ、そこはハイジの知らない場所だった」


「……そう、俺の知らない場所だった」


 俺たちはしばらくその周囲を調べまわった。垣根のわずかな切れ目や、猫さえも通れないような家と家の隙間にまでも丹念に観察した。だがおかしな部分はどこにもなかった。そこはたしかに勝手知ったる俺の庭で、草木の一本に至るまで、俺の知らないものなどあるはずがなかった。――汗にまみれての探索の果てに、やがて俺たちは『その場所』を探すのを諦めた。


 店街で遠くに聞いた蝉の声は、今この場所でずっと大きく聞こえていた。どこかその辺りの木にいるのかも知れない。俺たちの足は自然と、その鳴き声のする方へと向かっていた。


 しばらく歩いて俺たちは小さな公園にたどりついた。そこは俺にとって祖父に手を引かれて訪れた最初の遊戯場であり、一人で遠出をした最初の目的地であり、幼い日の友人たちとの大切な社交場だった。公園には誰もいなかった。ここは昔から平日には誰もない公園だった。


 公園の北の隅、ブランコと滑り台の間に立つ楡の木から蝉の声は響いていた。俺たちはその木の陰に入り、どちらからともなくブランコに腰かけた。


「実家には電話したのか?」


「もちろんした。心配かけないように高校の頃の友だちですけど、って」


「まあ嘘はついてないな」


「友だちには全員に電話したし、思い当たるところも全部まわってみた。もうあとは――」


「……警察しかないか」


 悔しそうに唇を噛むアイネを横目に見た。その苦悩が手に取るようにわかった。


 こうなった以上、一刻も早く警察に届けるべきなのかも知れない。だがそれをすれば――日曜日の舞台は滅茶苦茶になってしまう。最悪、取りやめということにもなりかねない。少なくとも俺たちが思い描いていた舞台は実現できないだろう。警察が動くというのはそういうことなのだ。


 それにリカがいなくなったのはまだ昨日のことで、その午後に彼女が恋人とのんびり散歩していたのを数名が確認している。それを思えば、取り越し苦労ということも充分に考えられる。警察に持ちこんだところで冷たくあしらわれる可能性がないとはいえない……。


「隊長には相談したのか?」


「まだ。……これからしようと考えてたとこ」


「夕方には交流会館にいるって言ってたから、それまで探して見つからなかったら隊長に相談しよう。警察はそのあとにした方がいい。俺も一緒に探す」


「うん。ありがとう。……でももう探すあてないし、どうしようかな」


 そう言うとアイネはわずかに俯いた。人に弱気なところを見せるのを嫌う彼女がこんな仕草をするのは、よほど精神的に疲れている証拠だった。それもそのはずだ。アイネにとって唯一といっていい親友が理由も告げずに消えたのだから。


 ――本当はすぐにでも警察に駆けこみたいのかも知れない。きっと俺が賛成したらそうするつもりだったのだろう。隊長に相談したところで結論は決まっている。それならば今からでも前言を撤回して、二人で警察に行くべきだと考える自分がいる。なぜ俺はそうしないのか。ブランコに揺られながらその理由を考え、すぐにそれに突き当たった。


 その理由とは、今回の事件で警察が動いたところでどうにもならないだろうという、漠然とした予感だった。


『……グゥ』


 その大きな音は隣から聞こえた。……腹の音だった。折り悪く、まるでその音に驚いたかのように蝉が鳴くのを止めた。


 そっと目を遣ると、顔を真っ赤に染めたアイネが怒ったような目で地面を見つめていた。彼女は実にこの手のことを気にする。今さら恥ずかしがるような間柄ではないと言って激しい反撃にあった記憶がある。いっそのこと俺の腹も鳴れば事態は丸く収まるのだが、なかなかそう漫画のように都合良くはいかない。


「……どうして黙ってるの?」


「え? いや、何も聞かなかったことにしようかと」


「思いっきり聞いてるじゃない」


「ああ、うん。……聞いたけど」


「そういう気の遣い方やめてよ。こっちでどんなリアクションしたらいいかわから――」『……グゥ』


 そこでまた大きな音がした。いつもの澄ましたアイネには不相応な、獰猛な叫びにも似た空腹の証だった。


「――ないじゃない」


 どうにか最後まで言い切ると、アイネはいよいよ赤くなって俯いた。


「……別に恥ずかしがることなんてない。女が思ってるほど、男は腹の音なんて気にしない。我慢できないものだってわかってるからな」


 そう言って俺はブランコから降りた。時計を見れば昼の時間はもうとっくに過ぎていた。彼女の意に反して腹が悲鳴をあげるのも無理はない。


「小屋に帰って昼食にしよう。ちょうど一昨日に茹でたペンネが腐りかけてる。始末に協力してほしい」


「……腐りかけたようなもの客に出すつもり?」


「腐りかけが一番美味いってよくいうだろ。肉とかバナナとか」


「あたったらちゃんと責任とってもらうから」


「どんな責任をとればいい?」


 アイネはそこでブランコを飛び降りると、大きくひとつ伸びをした。そして俺に向きなおり、真剣な表情で「一生の責任」と言い放ち、公園の出口に向け歩き始めた。

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