015 集団催眠(2)

 扉の外には絨毯張りの長い廊下が続いていた。ペーターの言う通り、電話はすぐに見つかった。磨きあげられた大理石の台の上に、家にあるのとまったく同じダイヤル式の黒電話が鎮座していた。未だにこんなものを使っているのは俺だけかと思っていたのだが……金持ちの考えることはよくわからない。


 ジーンズのポケットから財布を取り出し、カード挿しに挟んであったメモを抜いた。アイネとキリコさんの携帯の番号を見比べ、しばらく迷ったあとキリコさんにかけることを決めダイヤルに指をかけた。


 情報技術の発達する時流に背を向けアナクロを貫くヒステリカにおいて携帯を所有しているのはその二名のみだが、一人の方は『不携帯電話』と呼んでほとんど持ち歩かない。連絡は朝練ですれば事足りるし、そうでなくても一緒にいる時間が多い我々に電話は必要ないのだ。それでも何かあったときのため、ということで控えておいた番号が役に立った。朝からキリコさんのお小言を聞くのは辛いが、この大事なときに朝練を無断欠席するのはどうしても避けなければならない。


『……もしもし』


「もしもし、キリコさんですか?」


『ああそうだよ。そういうあんたはこの大事なときにどこぞをほっつき歩いているハイジだね?』


「う……。そうです」


『十回近く家にかけても出ないからこれから行こうと思ってたとこだよ。手遅れなら仕方ないが、ひょっとしてまだ息があったらいけないと思ってねえ』


「いや……その。生きてます。心配かけて済みませんでした」


 案の定、キリコさんの言葉は厳しかった。今日まで皆勤に近かった俺が、舞台を四日後に控えて連絡も入れず朝練を休んだのだから無理はない。だが覚悟していたような叱責ではなく、こちらの身を案じてくれるキリコさんの声を聞き、俺は逆に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。


『今どこにいるんだい?』


「え……?」


『非通知でかけてくるってことは、言えないような場所なのかい?』


「いや、別にそういうわけじゃなくて……」


 そういうわけも何も――よく考えれば「言えないような場所」に違いなかった。そんな当たり前のことに俺は今更気づいた。


 そしてもうひとつ重大なことを思い出した。朝練を無断欠席したのは俺だけではないのだ。電話の鳴る音は聞こえなかったから、キリコさんはどうやら「ここ」にはかけていないようだが、同じく姿の見えないもう一人と俺とを結びつけて考えるのは、ごく自然なことだ。


 ここで誤解させてはならない。俺は必死に頭の中で言い訳を考えた。だが受話器から漏れたのは、思いも寄らないキリコさんの一言だった。


『二人ともそっちにいるのかい?』


「――え?」


『アイネちゃんとペーターだよ』


『あ……はい』


 反射的に俺はそう返事した。安心したようなキリコさんの溜息が耳に届いた。


『まあ何があったかは聞かないけど、二人のどっちかを悲しませるようなことはしてないんだろうね?』


「してません……そんなことは」


『ならいいよ。午後の練習にはちゃんと気持ち切り替えてきておくれよ。いいね?』


「わかりました……」


『それじゃ、また』


「はい……また午後に」


 受話器を戻してもしばらく動けなかった。立ち尽くしたまま俺はキリコさんとの最後の遣り取りを思い返し、その意味について考えた。


 まず、誤解は回避できた。俺とペーターが一緒にいることは看破されたが、それに関してあれこれ問われることはなく、二人揃って朝練に出られないという連絡だけを伝えることができた。俺がペーターの部屋で一夜を明かしたという事実も隠しおおせた。


 だが、たいした追及もせずキリコさんが電話を切ったのには理由がある。『二人ともそっちにいるのかい?』と彼女は言っていた。……これはつまり、俺たちだけでなくということだ。二人で無断欠席ということなら想像はひとつの方向に膨らむが、三人揃ってということになると話は変わってくる。何かあったのはたしかだが、可能性は無限に考えられる。『何があったかは聞かない』というキリコさんの言葉は、三人で解決した問題を蒸し返すまいとする思い遣りで、同じ状況なら多分俺もそう言うだろうからこれはわかる。


 しかし――果たしてそんなことがあるのだろうか。朝練で皆勤に近いのはアイネも同じだ。いや、彼女はたしか皆勤している。俺の知る限りで、アイネは今日まで朝練を休んだことがない。そんな彼女が今この時期に連絡もなしに休むはずがない。ましてやある種の事故で俺たちがこうなった日に、アイネも同じように休むなどという偶然は絶対にありえない。


 いくら考えても謎は深まるばかりだった。ふと、アイネの携帯に電話してみようかとも思ったが、やはり止めておいた。もし繋がるならキリコさんの口からあんな台詞は出なかっただろう。釈然としない思いを抱えたまま、俺はペーターの部屋へ廊下を引き返した。


「おはようございます」


 ――いきなりの挨拶に反応できなかった。部屋を間違えたと思い扉を閉めかけ、けれどもいつの間にか設えられたテーブルにつくペーターを認めて留まった。テーブルの脇にはホテルで見るような銀のワゴンと、俺に声をかけてきた女性の姿があった。


「……おはようございます」


 深々と頭を垂れる女性に、俺も同じようにお辞儀した。やがて彼女は優雅な物腰で顔をあげた。綺麗な人だった。歳は俺よりもだいぶ上だろうか。艶やかに潤んだ瞳と扇情的につきだされた唇に、ほんのしばらく見入ってしまった。


「先輩、どうぞ座ってください」


「え? ああ、わかった」


 ペーターの言葉で我に返り、彼女の向かいの椅子を引き席についた。テーブルには既に朝食の用意が調っていた。焼きたてのトーストとスクランブルエッグ。カットグラスに盛られたサラダにはクレソンにサニーレタス、それから目に馴染みのない野菜が整然と盛りつけられている。穴の空いたチーズの厚切りまで並んでいかにもという感じだった。手元のカップが空いているのを見て、ワゴンの傍らに控える女性の次の一言が予想できた。


「コーヒーと紅茶、どちらになさいますか?」


「……コーヒーをお願いします」


「はい。かしこまりました」


 恭しくコーヒーを注いでくれる女性を場違いな気分で眺めた。これではまるでホテル――というか、何か別のもののようだ。……どういうことなのだろうか。この家にはペーター以外いないのではなかったのか。


「エツミさん、こっちはもういいです」


 コーヒーポットをワゴンに戻した女性にペーターが声をかけた。


「はい。ですが――」


「何かあったら呼びますから」


「かしこまりました。それではどうぞ、ごゆっくり召しあがってください」


 女性はそう言って一礼すると、ほとんど音を立てずに扉をあけ、そこで再び一礼して部屋を出ていった。


「家政婦です」


「え?」


「家政婦のエツミさんです。料理や家事なんかをしてもらってます。私がまだ小さな頃から」


「そうなのか」


 さすがにカルチャーギャップを覚えたが、主婦のいない金持ちの家庭で家政婦を雇うというのはある意味、自然なのかも知れない。仕事にかまけて外泊を続ける父親も、一人娘に不自由させない程度の良識はあるということだ。


「……いきなりいるし、それにテーブルとか用意されてるからびっくりした」


「いつもは食堂でとるんですけど、せっかく先輩が来てるから今日はここで、と思って」


「? 何で俺が来てると食堂じゃなくてここなんだ?」


「それは……気分ですよ。そういう気分だったんです」


「そうか。まあいいけど」


 それから俺たちはしばし黙って食事をとった。品数としては多くないがやけに豪華な感じのする朝食だった。朝の光に満たされた広い部屋と車つきのワゴン、そして何よりさっきまでかしづいていた女性の印象がそう思わせるのかも知れない。


 そんな風景の中でペーターは普段よりずっと落ち着いて見えた。食事ばかりでなく、彼女は何事においても丁寧過ぎるほど丁寧で、それがときとして周りにちぐはぐな――悪く言えば滑稽な気持ちを抱かせるのだが、裏を返せばそれは彼女が、こうした調和の中で育ってきたという何よりの証拠なのだろう。


「誰に連絡入れたんですか?」


「キリコさんの携帯」


「何て言ってました? キリコさん」


「……それがだな」


 俺は電話の内容をかいつまんで話した。アイネも休んでいたことを告げたときペーターは少しだけ表情を変えたがそれだけだった。むしろキリコさんとの電話がこじれずに終わったことの方に彼女は驚いたようだった。


「何のお叱りもなし、ってことですか?」


「そういうことだ」


「どうしてでしょうね。もっと色々言われると思ってたのに」


「アイネが休んだからだろ、それは。まったく……何がどうなってるんだか」


「最近多いですよね、そういうこと」


「最近多いな、たしかに」


「ヒステリカっていつもこうなんですか?」


「何がだ?」


「舞台を前にして常識では説明のできない不思議なことが続く、ってことです」


「そんなわけあるか。今回が特別なだけだ」


「そうなんですか、私はてっきり。でも何かいいですよね、こういうのも」


「……何がどういいんだ?」


「舞台に向かう気持ちが高校の演劇部とは全然違いますよ。霧の中を掻きわけて進んでいくみたいな感じがして。この分ならきっといい演技ができます。そんな気がするんです」


「……まあ、そうだといいけどな」


 適当な相槌を打って会話を切りあげた。だがペーターが口にしたような気持ちは、たしかに俺の中にもあると思った。彼女はコーヒーのお代わりを勧めたが、俺はそれを断った。


 壁の時計はもう十時をまわろうとしていた。

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