232 すべてが終わったあとに(6)
「はあ、はあ、はあ……」
弱々しいナトリウムランプの
「はあ、はあ、はあ……」
キリコさんと別れてからもうどれくらい走り続けただろうか。
――どこでどうボタンを掛け違ったのかわからない。けれども俺の声がキリコさんに届かなくなってしまった今、とりあえず時間を置くことが必要。核実験を阻止するという最終的な目的を考えれば、分散して事に当たるという提案は理にかなっている。……自分に言い聞かせるようにそんなことを思いながら、俺は薄暗い通路を駆け続けた。
「はあ、はあ、はあ……」
その一方で、あそこでキリコさんと別れたことが本当に正しかったのかと、さっき下したばかりの決断を醒めた目で眺める自分がいた。
キリコさんの研究室で落ち合う――返事も待たず一方的に言い残してきたその提案を、彼女が受け容れてくれるとは限らない。それにいつその核実験とやらが実行されるかわからない現状にあっては、お互いそこに辿り着く前に身動きが取れなくなることも考えられる。
……やはりあそこでキリコさんと別れたのは失敗だったのではないか。今からでも引き返して、拒絶されようが撃ち殺されようが最後まで彼女の
「はあ、はあ、はあ……」
そんな思いの中、俺はついに立ち止まった。けれども引き返すためにそうしたわけではなく、ただ単に息が続かなくなったのだ。しばらく息を整え、少し迷ったが結局俺はまたキリコさんから遠ざかる方向へと足を向けていた。
誰もいない通路をとぼとぼと歩きながら、俺はこれからのことについて考えた。
分散して探すなどと大口を叩いてみても、俺の方にはもとより心当たりなどない。全体像すらまだ掴めていない、どこに何があるかもわからないこの地下迷宮から核実験が行われている現場を見つけ出す。考えてみれば――いや、考えるまでもなくそれは雲をつかむような話だ。キリコさんと別れて俺一人でできることなど
「……何やってんだろうな、俺」
そういえばここへ来る前、向こうでも似たようなことをやっていた気がする。いなくなった仲間たちを捜して町中うろうろと彷徨い歩いたあの舞台前の数日間――思い返してみれば徒労の他に何も残らなかったあの不毛な
「……何やってんだろ。本当に」
力なくそう呟いたあと、どっと疲れがきて俺はその場に立ち止まった。
……本当に俺は何をやっているんだろうと思った。あの日曜日のホールから地続きにあると信じていたこの舞台で、幕切れ前にひと暴れしてやろうと喜び勇んで乗り込んだのも束の間、ジープを奪われ出口は塞がれ絶体絶命の危機に陥ったのがついさっきだ。挙げ句の果てにボタンの掛け違いでパートナーから
自分の演技を見失っている……今の俺はまさにそれだと思った。時折揺らぐことはあってもやはり心の拠り所にしていた、ここが劇の中であるという認識――自分の行動を演技たらしめていた大前提となるその枠組みを否定され、それでも俺は役から落ちなかった。……それ自体、問題はない。むしろキリコさんを恐れさせるほど役者馬鹿に徹することができた自分を誉めたいとさえ思う。
だが……だとすれば俺がいま演じているこの役はいったい何だろう?
ここは劇の中ではなかった、隊長から与えられた《博士》に仕える《兵隊》という役は根底から崩れ落ちた。ならば、俺が演じているこの役は何だ? 幕が降りても演技をやめない気狂いの所業か? それとも自己満足のための一人芝居なのか? ……いずれにしろ役者である俺にとって酷い筋立ての劇であることに間違いない。まともに演じることも役を降りることもできず、こうしてただ一人舞台に立っているだけなのだから。
「……つか、人間じゃなかったんだな、俺」
何気なく呟いて、思わず乾いた笑いがこぼれた。キリコさんの前ではすんなり受け容れるようなことを口にしたが、一人冷静になって考えてみると、あまりにも突き抜けた展開に感動さえ覚える。俺は人間ではなかった。……斬新と言うべきか、これまで様々な筋の即興劇を演じてきた俺だが、さすがにこの流れはなかった。
ただ、人間でないのだとしたら、俺はいったい何なのだろう。
キリコさんは俺を『トリニティ』という名で呼んだ。彼女の話を総合すれば、『トリニティ』とは生物工学により何らかの処置を施され、後天的に特殊な能力を備えるに至った人間ということになる。……確かにそれは普通の人間とは言い難い。だが生物学的にはやはり人間なのだろうし、人間でないなら何か、という俺の問いにキリコさんはどういった答えを返してくれるのだろうか。
……その一方で、人間ではないという強い言葉をもってキリコさんが俺を拒絶せずにはいられなかった理由もわかる。
これは劇ではない。殺されれば普通に死ぬ。そしてその死はもうすぐそこまで迫っている――それを事実として認め、虚勢を張るべき相手がいなくなったこの状況においても、俺はそのことに一切の恐怖を感じていない。
……客観的にみればこれは異常と言わざるを得ないだろう。死を恐怖しない人間などいない。その論理によればこの状況にあって死を恐怖しない俺は人間ではないということになる。実際、キリコさんが俺にその言葉を投げかけたのもそうした意味合いにおいてだったということが、人間であるか否かの判定基準を彼女がどこに置いているかを物語っているように思う。
ただそのあたりについては、ついさっきまでここが劇の中であると信じ込んでいたことが尾を引いているという見方もできる。要するに、俺は役に入り込んだまま未だに出てこられないでいるということだ。トリニティだの何だのと、そういった難しいことは置いておくとして、元々それほど勇敢な方でもなかった俺が死を前にして平然と構えていられる理由としては、やはりそちらの方が大きいのではないかと思う。
「あ――」
そこで不意にひとつの考えが天啓のように俺の意識にのぼった。
演劇の世界に没入すること。役に入り込んだまま抜け出せなくなること。それは――それこそは俺がかねてより夢に
『ハイジが夢見てきたことは、明日の舞台で叶うよ』
そうして俺は、屋上でのキリコさんの言葉を思い出した。
俺が夢見てきたことはこの舞台で叶う――あのとき彼女がやさしい笑顔で俺に告げたその予言は、この絶妙のタイミングで現実のものとなったようだ。……おそらく、それは素晴らしいことに違いない。長年の悲願ともいうべき夢が叶った瞬間なのだから、俺はそのことをもっと喜んでもいいはずだ。
「……なんか、思ってたのと違うな」
けれどもそんな輝かしい事実を前に、ただぼんやりと立ち尽くすしかない自分がいた。……確かに俺の夢は叶ったのかも知れない。だが思わず口にした通り、いざ叶ってみればそれは自分が思い描いていたものとはだいぶ趣が違っていた。喜びもなければ感慨もない。せいぜい「ああ、そうか」と思っただけだ。
ただ、それもそのはずだった。観客もいない、他の役者もいない、こんな誰もいない場所で独りよがりに役の世界に入り込むことができたところで、いったい何の意味があるというのだろう。この状況をキリコさんが予見していたのならば、あの夜の屋上でキリコさんは何を思い、あの言葉を俺に告げたのだろう――
『役者も裏方もいないし、観客も来ない。でもハイジの夢はきっと叶う。望んだかたちとは少し違うかも知れないけど――』
「……全部、お見通しってことか」
彼女の言葉の続きを思い出し、敗北感にも似た気持ちを溜息にのせて吐き出した。
――あのときのキリコさんがどこまでを知っていたのか、どんな思いでそれを俺に告げたのか、やはりわからない。だがこうして思い返してみれば、あのときのキリコさんの言葉は今のこの状況を見通してのものだったとしか思えない。
『
それに……そうだ。前後にあった出来事の印象が強すぎてあまり意識してこなかったが、あのときのキリコさんは何かを悟った様子で、まるで最後の贈り物のように俺にその言葉をくれたのだ。隊長との約束があるから詳しいことは教えられない――そう言って微笑み、もう会えなくなることをほのめかす彼女らしい別れの言葉を添えて。
――さっきのキリコさんの話を思い出す。
俺が元いたあの場所は現実の世界などではない。死のうが死ぬまいが俺はもう二度とそこへは戻れない。それにプラスしてもうひとつの要素――これはキリコさんから聞いたものではなく、様々な事情を総合して俺が導き出した推論に過ぎないが――あちらのキリコさんとこちらの彼女とがそれぞれ独立の人格を持つ別人であるという事情を考慮すれば、俺はもう二度とあのキリコさんに会えないという結論になる。
『ハイジと一緒にやれて、
――あるいは、キリコさんは俺がもう二度と戻らないとわかっていたのかも知れない。……それがわかっていたから、彼女は最後にあんなやさしい別れの言葉を俺にくれたのかも知れない。
『明日の舞台が終わっても、あの契約は有効だから』
だとしたら、キリコさんが最後に口にしたあの契約は彼女自身のためのものではなかったということになる。では誰のための契約か? ……考えるまでもない。それはきっと、俺がさっきまで行動を共にしていたもう一人の彼女のための契約だ。
そして、その契約は有効に機能した。こちらの世界に目覚めた俺はその契約を思い出し、もう一人の彼女と新しい契約を結ぶに至った――
「……ったく、何がなんだか」
頭を振って小さく呟き、俺はまた歩き出した。
向こうのキリコさんが何を思って俺にあの言葉をかけ、この世界に送り出したのかわからない。こっちのキリコさんがこれまでどんな思いで俺と向き合い、ここからどうしようと考えているのかわからない。いつ核実験とやらが始まるのか、ここがこの先どうなってしまうのかわからない。いま俺にできることは何か、何をすべきなのか、それさえもわからない。
ただひとつわかっているのは、どうやら俺は幕が降りきるまでこの演技を続けるしかないということ――それだけだった。
そのことを確認しどこか吹っ切れた思いで、相変わらず誰もいない通路を闇雲に歩き続けた。
「……ん?」
代わり映えのしない単調な通路の先にその光を見出したとき、一瞬、俺は自分の目を疑った。なぜならようやく自分の手が見えるほど薄暗い通路にあって、その光はあまりにも眩しく圧倒的で、まるで太陽の光が射しているように見えたからだ。
おそるおそる近づいてみる。……それは博士たちの研究室の入口とは違ってドアノブのついた扉も何もない、壁にぽっかりと空いた四角いただの穴だった。燦々と光が漏れ出すその穴をぼんやりと眺めて――なぜだろう、俺はそれがこれまで俺たちの目に触れないように巧妙に隠されていた隠し扉であると直感した。
その隠し扉が今、なぜか開いたままになっている。そこに危険のにおいを感じるなと言う方がおかしいだろう。
けれども俺は真っ直ぐに通路を進み、その光の中へ迷わず踏み入った。
――そこで俺が目にしたのは、想像の斜め上をゆく光景だった。
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