231 すべてが終わったあとに(5)

 ――長い長い独白を終えたとき、キリコさんは身体を震わせながらほとんど肩で息をしていた。ぎらぎらと目を血走らせ、別人のような形相で俺をめつけるその顔には見覚えがあった。


 それは、あの夜の彼女だった。公演前日のあの嵐の夜、隠していた過去と俺にまつわる隊長との賭けについて打ち明けたキリコさんは、ちょうどこんな鬼気迫る様子で、危うい感じさえする激情を俺にぶつけてきた。


 たった今キリコさんの口から告げられた話は極めて衝撃的なものだった。……と言うより、俺が今日まで育んできた世界観を根底から覆す内容だったと言うべきだろう。舞台だと思い込んでいたここが現実で、現実だと思っていたあの町がだった――冗談にしては笑えない。だが、笑えないその話が実際のところ冗談でもなんでもないことは、目の前に立つ人の態度が何より雄弁に物語っている。


 ……それだけならまだしも、どうやら俺は人間ではないらしい。


 もっとも、劇の中での設定は最初からそうだった。そもそもの出だしからしてああだったのだから、キリコさんの《兵隊》としてされてからここまで、俺は自分が普通の人間ではないことを素直に受け容れていた。だがそれはあくまでとして受け容れていたに過ぎないわけで、その枠組みが取り払われた今、俺は自分という存在についてある種の形而上学的な認識の修正を強いられていることになる。


 ……ただ、キリコさんから告げられた話の内容そのものについて俺が深刻な衝撃を受けたかといえば、実のところそういったわけでもない。


 もちろん、まったく驚きがなかったと言えば嘘になる。いきなりそんな突拍子もない事実を突きつけられて驚くには驚いたのだが、その事実は俺の胸に何ら特別な感情を呼び起こすことはなかった。あまりにぶっ飛んだ話に思考が追いついていないだけなのかも知れない。――だがきっとそれ以上に、キリコさんが話してくれたその事実は、そういうこともあるんじゃないかと俺自身うすうす感づいていたことだったのだ。


『あんたにはもう帰る場所なんてないんだ! ここが舞台!? 笑わせるんじゃないよ! ここが現実なんだよ! 舞台でもなんでもない、ここが現実なんだ!』


 ――思い返してみればそのあたりのキーワードはとっくの昔にキリコさんの口から出ていた。……いや、そもそも劇の中にいるという思い込みさえなければ、彼女に言われずとも俺は自分の頭でそれに気づいていたかも知れない。死ねば元の世界に戻れる――いったい何の根拠があって俺はそんな出鱈目を信じ込んでいたのだろう? ついさっきまで俺の意識の中心を占めていたはもう跡形もなく、代わりにもたらされた新たな世界のフレームは俺をしっかりと取り囲んで逃がさない。


「……なに黙ってんだい。何か言いたいことあるだろ、あたしに!」


 全身を大きく震わせながら、戦慄わななく声で苦しそうにキリコさんは吐き捨てた。半分顔を背けながら、それでも俺を睨むのをやめようとしない血走った目に、俺は彼女の葛藤を見た。その葛藤がどこからくるものなのか、それも何となくわかる気がした。


 その一方で、俺にはキリコさんに対して言いたいことなどなかった。少なくとも彼女が口にした内容に対する怒りや恨みのようなものは、俺の中に一切なかった。


 ……むしろ、それを聞いたことですっきりしたとさえ言える。キリコさんの説明は、俺の中にわだかまっていたこの世界に関する疑問の大部分を解消してくれるものだった。今さらと言えば今さらだが、彼女は俺の欲しがっていた情報ものをくれたのだ。そのことを思えばキリコさんにはありがとうの一言でも返したいくらいなのだが、今ここでそんな言葉を返そうものなら、彼女からどんな反応が返ってくるかはさすがに俺でもわかる。


「ほらどうしたんだい! 何とか言ったらどうなんだい! あんたたちの命を玩具おもちゃにしてさんざんに弄んだこのあたしに何か言いたいことがあるんじゃないのかい!?」


 ……それよりも問題はこの人だった。もはや焦点の合っていない目をこちらに向け、歯をがちがちと鳴らしながら激しい言葉を吐き散らすキリコさんは、明らかにいつもの彼女ではなかった。端整な顔を激情に歪ませ、狂気さえ感じさせるキリコさんの姿が、再びあの夜の彼女と重なった。


 今のキリコさんがあの夜と同じだとすれば――そこまで考えて、俺はその先を考えるのをやめた。


 あの夜、今と同じように自分をなくしたキリコさんを前に俺は、一瞬、理性の手綱を放した。俺は彼女に襲いかかり、そのあと我に返って泣きじゃくり、彼女の身体を求め……気がついたときには分かり合えていた。なぜそうなったのかわからない。いまにして思えばあの夜のことはほとんど奇跡のようなものだったし、もう一度同じことを繰り返せと言われてもできるわけがない。


「なんで何も言わないんだい! なんで怒らないんだい! なんであんたは……なんであたしを……!」


 ……いや、繰り返せばいいのかも知れない。俺の襟首を掴み、激しく揺さぶりながらきれぎれの言葉を絞り出すキリコさんを見つめながら、俺はそう思った。


 キリコさんは責められたがっている。告白した罪の重さに圧し潰されそうになりながら、少しでもそれを軽くするために罰を受けたがっている――それがわかった。


 そしてそれは、あの夜の彼女もまた同じだったのだということに、俺は初めて気づいた。


 ヒステリカを混乱に陥れ、滅亡寸前にまで追い詰めたのが彼女自身であること。俺を賭けの俎上そじょうにのせ、あたかもその過去をなぞるように女として俺を篭絡ろうらくしようとしたこと――あの夜、叩きつけるような言葉でそれを俺に告白した彼女は、その咎を贖うため俺に罰を受けたがっていた。だからあの夜、俺があのままキリコさんを犯していたとしても、きっと彼女はそれを許しただろう。――たとえそのあと、二人が屋上であの満月になりきれない月を眺められなかったとしても。


「ほら……言いなよ! 言ってごらんよ! ほら……どうして何も言わないのさ! どうして怒らないのさ! どうしてあたしを殴らないのさ! どうして……どうしてあたしを……!」


 ――いっそこの人の望む通りにしてやろうか。目の前で取り乱すキリコさんを眺めながら、俺はそう思った。


 確かにあなたたちは我々の命を弄んだ。よくそこまで人の道に外れたことができたものだ。あなたは俺を人間ではないと言ったが、人間でないのはどちらだ。この研究に関わったあなたたちは未来永劫にわたって呪われる。俺は何回生まれ変わっても絶対にあなたたちを許さない――とでも言ってやればこの人は満足するのだろうか。


 そう思い、それがあの夜をなぞることになると何となく感じながら、俺は口を開いた。


 だが俺の口から出てきたのは、まったく別の言葉だった。


「……わかってましたから」


「あ!? なんだって!?」


「わかってましたから、って言ったんです」


「なにがわかってたって言うんだい!」


「さっき、キリコさんが話してくれたことです」


「……は?」


「うすうすわかってました。俺が人間じゃないってことも、キリコさんたちに作られた人造人間ホムンクルスだってことも」


「……」


「ここが劇の中じゃないってことも、死んでもあの町には戻れないってことも、いま俺たちが破滅に向かっていて、どうやらそれは避けられそうもないってことも、全部」


 言ってしまってから、案外これが正しい回答だったのではないかと思った。事実、俺がそのへんについて何となく感づいていたというのはさっき確認した通りだ。何よりあの日曜日のホールで拳銃ピースメイカーのトリガーを引くことにより始まった舞台。その舞台の流れからすれば、俺が口にしたその台詞はあくまで正しい――


「……」


 ――と、そこで俺は自分の考えが自己撞着に陥ったことに気づいた。


 ここが劇の中ではないと認めたその口が舌の根も乾かぬうちに何を言い出すのだろう? ……これではキリコさんでなくとも問い詰めたくなる。こみ上げてくる自嘲の笑いを飲み込んで、俺はまたキリコさんに向き直った。


 信じられないものを見る目で俺を見ていたキリコさんの目が、はっと我に返ったように背けられた。それからさっきまでとは違う、弱々しく震える声で、誰に告げるともなく独り言のように「どうして」と呟いた。


「え?」


「……わかってたなら、どうして」


「……」


「……どうしてあんな、命知らずなことできるのさ。……DJあいつ捕まえに出たあの夜だって……それに、こうしている今も」


「それは――」


に帰れると思ってたんだろ!?」


「……」


「ここが劇の中だと思ってたから! だからあんな出鱈目なことできたんだろ!? そうじゃなかったのかい!?」


 絶叫だった。立っているのもやっとなほど震えている身体。その震えが移ったように視線の定まらない目は、もう俺を見ない。


 そんなキリコさんを眺めながら、俺は心配を通り越して遣る瀬なさを覚え始めていた。……いい加減この状態から立ち直ってほしい。だが一向に回復の兆しが見えないばかりか、彼女は更に深みに嵌っていっている気がする。


 ……昨日の彼女を思い出した。霧雨に濡れるあの廃墟で、事切れたマリオ博士を前に大見得を切って見せた彼女はどこへいったのだろう? 犬死に覚悟の無謀な賭け――暴挙としか言いようのないこの決死行を高らかに宣言したあのキリコさんと、こうして冷静さを失って今にも崩れ落ちそうなキリコさん、いったいどちらが本当の彼女なのだろう? そんな疑問が頭に浮かんで――けれども同時に、あの屋上でのキリコさんの言葉が脳裏に蘇った。


『ハイジが見てきたのは、どれもぜんぶ本当ほんとのあたしだよ。何人ものあたしがいて、どいつもこいつも好き勝手に演じてるんだ』


 ――それで、疑問は立ち消えになった。強いキリコさんも弱いキリコさんも、どちらも本当の彼女なのだ。


 思えば昨日マリオ博士に会う直前、行く宛もないままあの廃ビルの一室を出たキリコさんは、その時点でかなりいた。それがマリオ博士の死を看取る前後で見事に豹変したのを見て、俺は心底感心したのだった。


 ……今回のこれはその逆だ。ここへ来るまでの道のりでのハイテンションから一転、絶望に取り乱すネガティブな方向への変化。だがその演技の切り替えは昨日のそれに劣らず鮮やかなもので、さすがはキリコさんと言うべきなのかも知れない。


「……」


 だがそこまで考えて、ここが劇の中ではないというキリコさんの言葉を俺はもう一度思い出すことになる。……そう、ここは劇の中ではない。俺もキリコさんもここで何かの役を演じているわけではない。だから彼女の豹変も演技を切り替えた結果ではなく、絶望的な状況を前に虚勢を張ることができなくなり、ここまで抑圧していたものが一気に噴き出したというだけの話だ。


 ここは劇の中ではない――心の中にもう一度繰り返して、俺は大きく息をいた。そんなことはわかっていたなどと大口を叩きながら、どうやら俺はその事実をまだ受け容れることができないようだ。


 そんな自分を再び自嘲的に眺めて、だがそれも仕方のないことだろうと心の中で言い訳をした。……いくら即興劇とはいえこれはない。簡単に受け容れられるわけがない。だってそうだろう。半分緞帳が降りかけたこのタイミングでこれは演劇ではなかったなどと、今さらそんなことを言われたところで……。


「……つか、そんな簡単にやめられるわけないし」


「は!? なにを!?」


ですよ。俺がやってるこの


「……」


「俺そんなたいした役者じゃないんで、切り替えが下手なんです。ここが劇の中じゃないってわかっても、一度はじめた演技そう簡単にやめられないんですよ」


 そう言って俺は自嘲のあまり小さく鼻を鳴らした。思わず口を衝いて出たそれは、紛れもなく俺の本音だった。即興劇団ヒステリカの信条である仮面をつけないコメディア・デラルテ――けれども被ってしまった配役ペルソナの仮面は、そう簡単には外せない。


 ここが劇の中ではないということならそれはそれで構わない。ただ、だからといって俺がこの演技をやめなければならないということにはならないはずだ。


 ……そうだ、ここがどこかなど関係ない。演劇の中であろうとなかろうと、そんなことはどうでもいい。俺が演技をやめなければいけない理由などどこにもない。俺が――俺たちがずっと心血を注いできた即興劇の本質に照らせば、俺は胸の底に残されたちっぽけな矜持プライドに縋ってみっともなくこの演技を続けていいのだ。


「今さらじたばたしたって始まらないでしょう。どうせ死ぬんだったら、俺はと同じように最後までこの役を演じ通しますよ」


 何の気なしにこぼれ出た一言だった。だがその言葉を口にしたことで、俺はようやく自分がに追いついたのだとわかった。あの黎明の廃墟に己の信じる役を演じきり、威風堂々と去っていったもう一人の俺。あのとき感嘆とともに俺の胸に去来したひとつの問い――彼と同じことが果たして自分にできるかという自問に今、明確な解答が与えられた。


 あいつと同じように、俺は最後までこの役を演じきれる。


 悪くないな。うん、まったくもって悪くない。そう思い、こみ上げてくる笑いを殺しきれずにくくっと喉を鳴らした。そこでふとキリコさんに顔を向けた。


 ――震える手に銃を構え、その銃口をこちらに向けるキリコさんの姿があった。


「……なんだよ、あんた。……いったい、なんなんだよ」


 歯の根も合わないという言葉そのままにかちかちと歯を打ち鳴らしながら、独り言のようにキリコさんは呟いた。表情から何から乱暴される寸前の少女のように怯えきったその姿に、いつもの彼女の面影はなかった。


 一瞬、彼女が何に怯えているのかわからなかった。けれどもその怯えの対象が俺であること――キリコさんがことに気づいて、驚きのあまり俺はしばらく言葉を失った。


「……人間だと、思ってた。……けど、やっぱり……人間じゃないじゃないか」


 両手でしっかりと握られたリボルバーはその銃口をこちらに向けつつも盛んにおじぎを繰り返しており、狙いが定まっているとはとても言いがたい。いま撃ったところで明後日の方向へ飛んでゆくか、銃を取り落すのがだろう。


 ……と、今にも崩れ落ちようとするキリコさんを前にそんなつまらないことしか考えられない自分を浅ましいものに感じながら、事態を収拾するための言葉をほとんど必死になって頭の中に探した。けれどもそれが見つかるより早く、悲鳴にも似たキリコさんの声が周囲に響き渡った。


「あんたは……あんたはあいつらと同じだ! あいつらと同じ心のない人形じゃないか!」


「キリコさん、俺は――」


「近づかないでおくれ! それ以上近づいたら本当ほんとに撃つよ!」


「聞いて下さい! 俺はただキリコさんに言われた通りの演技を――」


「だからここは劇の中なんかじゃないって言ってんだろ!」


「わかってます。それはわかりました。でも、俺は――」


「わかってないよ! ここが現実だってことあんたはわかってない! やっぱりあんたは人形だ! 演劇するために! それだけのためにつくられた心のない人形マリオネットだ!」


 演劇のためにつくられた心のない人形マリオネット――なおも言い返そうとした俺の胸に、その言葉が深々と突き刺さった。文脈から考えれば明らかに否定的なニュアンスを含んで放たれたその言葉は、けれども俺の心に単なる否定の言葉としては響かなかった。


 演劇のためにつくられた心のない人形マリオネット。役者としての俺が目指していたのは、あるいはそういうものではなかっただろうか。だがもしそうであったならば、今その言葉を彼女から――自分の演技を一番認めて欲しかったキリコさんから告げられた俺の心にもたらされたこの『痛み』は何だろう?


 答えが見つからないまま口を閉ざす俺の目の前で、キリコさんは恐慌に陥った人のようにがくがくと身体を震わせ、涙さえ流しながらこちらに銃口を向けるのをやめない。


「……消えておくれ! 早く……早く、どこかへいなくなっておくれ! あたしの前に、その気持ち悪い顔もう二度と見せないでおくれ! お願いだよ! お願いだから! 早く!」


 演劇のためにつくられた心のない人形マリオネット――三度みたびそれを心の中に繰り返して、けれども心がないとしたら、俺が感じているこの『痛み』はどこからくるものなのだろうと思った。


「……だったら、ここからはいったん別行動ってことで」


 ほとんど喪心の中に、俺はどうにかそれだけ言葉にした。……今この状況でキリコさんを一人にするのはリスクが大きい。だが、このままここでこの不毛な掛け合いを続けていても何の解決にもならない――そんな判断に基づく、俺なりに精一杯の提案だった。


「核実験でしたっけ? 誰がどこで何やってるかわからないし、手分けして探した方が効率的だろうから。落ち合うのは……そうですね。キリコさんの研究室、ってことで」


 そう言って、俺はまたキリコさんを見た。大きく目を見開き、信じられないものを見る表情で俺を見つめながら、キリコさんは動かなかった。


 それだけ確認して、俺は彼女に背を向けた。そのまま歩き出そうとして――けれども俺は立ち止まった。


「さっきの、言い間違えました。ここが劇の中じゃないってことは認めます。けど、俺が人間じゃないってのは認めない……認めたくない」


「……」


「俺、これでも人間のつもりです。演劇のための人形マリオネットなんて言われたら、たぶん以前の俺なら舞い上がるくらい嬉しかったと思う」


「……」


「けど、ここでそんなこと言われたくなかった。俺、貴女あなたには……キリコさんにだけは、演劇のための人形マリオネットだなんて、そんな風に言われたくなかった」


 それだけ言い残して、キリコさんの反応を待たずに俺は駆け出した。

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