233 すべてが終わったあとに(7)

「……何だよ、ここ」


 その部屋に足を踏み入れてすぐ、俺は呆然としたままそんな呟きをもらしていた。……ただ正直なところ、そこは『部屋』と呼んでいいかさえ疑わしい。壁にぽっかりといた穴をくぐり、光の中に身を躍らせた俺の目に映ったのは、だった。


 一見した印象は少し大きめの公園――と言うより砂漠に忽然と姿を現したオアシスのようだ。丈こそ高くないが幹は十分に太く、幅広の葉がよく生い茂った何本もの樹木と、その根本にカーペットのように広がる下草。よく見れば所々に花さえ咲いている。どこか遠くの方から小鳥のさえずりが聞こえてくる気さえする。


「……何だよここ。何なんだよ」


 何より信じられないのはこの光だ。眩いばかりの光は上から降ってきている。だがそこには青い空が広がっているわけではない。体育館のように高い位置にではあるが、ここには明らかに天井が存在しており、その天井全体が漠とした光を放っているのだ。蛍光灯やLED照明とは違う、それよりもっと本物の太陽光に近い光。……けれどもそれはやはり本物の陽の光ではない。異世界に足を踏み入れたような覚束ない気持ちで天井を眺めていると、ふと奇妙なものが俺の目に留まった。


「……?」


 天井全体が光を放っている……そう思っていた。だがよく目を凝らして見ると、天井そこには監視カメラのような半球状の物体が整然と並んでいた。光っているのはその半球だった。一面に配列された複数の半球が光を放つことで、天井全体が光っているように見えていたのだ。


「……そうか」


 そこで俺は、この空間に光を溢れさせている仕組みに気づいた。光ファイバーだ。まだ大学に入学して間もない頃、共通教育の授業でその手の技術についての講義を受けたことがある。この研究所は地下に設けられているが地上は砂漠であり、太陽光はうなるほど降り注いでいる。その太陽光を光ファイバーで引き込んであの半球から放出させてやれば、この地下室にも陽の光溢れる空間を創り出すことができるのだ。


「……」


 改めて観察してみれば、そこは極めて人工的な空間だった。


 草むらを踏み分けて林の奥へ進むと、そこには細い小川が流れていた。小川は実際のものがそうであるように木々の間を縫って流れていたが、用水路と見まがうほどの細い流れにも関わらず幾つにも枝分かれし、林の隅々まで水を行き渡らせていた。


 屈みこみ、水の中を覗き込んでみる。……やはりそうだ。小川の内側にはパイプの口のようなものが見え、そこから側方に向けてパイプが延びているようだ。そのパイプから地中に水が滲み出す構造になっているのだろう。つまりこの小川は景観を目的とするものではなく――あるいはそれもあるのかも知れないが――この空間に生い茂る植物のための灌漑設備であると考えていい。


「……土じゃないのか」


 地面を掘り返し、指の先で擦り合わせてみる。意外に硬い感触のそれはぽろぽろと崩れて指の間からこぼれ落ち、けれどもそれを擦り合わせる指の先には汚れが残らない。おそらくだが園芸の土壌改良に用いられる熱処理された鉱物の粒子、あるいはセラミックスのたぐいだ。いずれにしても土ではない。


 燦々と降り注ぐ太陽の光、小川のせせらぎ、生い茂る緑を育む大地に至るまで、ここには人の手によらないものは何ひとつ存在しない――


「人工の楽園か」


 自然とそんな言葉が口を衝いて出た。地下研究所に形成された人工楽園――まさにここがそれであると思った。キリコさんを含む博士たちが何らかの目的をもって構築した設備であることは疑いない。それが何のために設けられたものであるかわからないまま、俺は散歩でもするようにその空間をあちこちと見てまわった。


「……広いな」


 それにしても広大な空間だった。体育館数個分――いや、野球場くらいの広さはあるかも知れない。そこにくまなく植物を植え、小高い丘のようなものまで造成しているのだから感心してしまう。本当に、いったいここは何のために造られた施設なのだろう――


 その謎が解けたのは丘を踏み越えた先、少しひらけた場所に並ぶ複数の操縦席コクピットを目にしたときだった。


「……」


 操縦席コクピット――そう呼ぶより他に何とも言いようがない装置だった。緑の楽園にあって明らかに場違いなその近未来的な装置は、幾つもの計器や操作盤コンソールが並ぶ純白の本体の内側にを収容し、ひときわ目立つ位置に取り付けられた赤色のランプが明滅する他は動きも音もなく、木漏れ日の中ただ静かに佇んでいた。


「……俺たちトリニティの成れの果てか」


 その操縦席コクピットにはそれぞれ裸の男女が、揃って静かな表情で胸の中央から血を流し、息絶えていた。……そんな彼らが、いつかキリコさんが口にしていた『未起動の個体』にあたるものだと俺は直感した。おそらくは我々のジープを奪って逃げた一連の黒幕――未だ顔すら見えないその最後の敵が、証拠隠滅の一環として律義に始末をつけていったのだ。


「……」


 操縦席コクピットに並ぶ彼らの死に顔をひとつ、またひとつと見てまわった。すべての席に死体が納まっているのではなく、三つに二つはからだった。起動された個体――つまりはが、かつてそこに納まっていたのだろう。そんなことを思いながら、俺はふと立ち止まった。


「……」


 立ち止まって周囲を見回した。


 風が吹いた。……実際には風など吹いていないのかも知れない。だが、吹いた気がした。


 同時に俺は激しいに襲われた。


 俺はかつてここに立ち、この景色を目にしたことがある。……いや、この景色こそが俺のはじまりの記憶――原風景に他ならない。


「……」


 あの廃墟に降りしきる雨の中すべてを押し流していった濁流にも似た、それは圧倒的な既視感だった。


 そんな既視感の中、何となく地に足がつかない気持ちで俺はまた操縦席コクピットの死に顔を見てまわった。


 俺と同じ背格好の死体が多かったが、少し若いローティーンと思しき亡骸も幾つかあった。心が凍りついているのか、あるいはキリコさんが言うように人の心がないからなのか、自分と同じ立場にあっただろう彼らの死に、俺は何も感じなかった。


 操縦席コクピットはすべて同じサイズではなかった。成人用の席の並びとは別に、ひとまわり小さな装置の群が、少し離れた場所に固まって設置されていた。


 何となく嫌な気分で覗き込んでみると、そこにはやはり年端もいかない子供の死体があった。死に顔だからだろうか、あどけないながらもどこか達観したような青白い顔を眺めるうち、俺はなぜか妙に落ち着かない気分になってきた。


 死に顔から目を逸らし、助けを求めるように周囲を見回した。


 ふと、木立の中に置かれたガラスケースのようなものが目に留まった。保育器だった。その中に、かろうじて人の形をした赤黒い塊が、微笑むような表情を浮かべ動かなくなっているのを目にして――直後、俺は倒れこむようにして地面に膝をつき、四つん這いになって嘔吐していた。


「うえっ……うえっ……ええ……」


 吐きながら俺は死んでいった者たちのことを考えた。


 目を開けることなく命を絶たれた仲間たちトリニティのことを考えた。為すすべもなく殺されていった博士たちのことを考えた。あの雨の廃墟に物言わぬ死体となった彼らのことを考えた。俺がこの手で殺した――殺さざるを得なかったアイネのことを考えた。


 胃の中のものをあらかた吐き出してしまうと、わずかだが気持ちは落ち着いていた。


 そうして俺は、この極限状態の中、自覚のないままに悲鳴をあげていた自分の心に気づいた。悲しみとも罪悪感とも違う、心臓を握りつぶされるような苦痛の残滓ざんしはまだ胸の奥にあって、逆にそれが自分の心を落ち着かせているのだと思った。


「……何だよ。俺、やっぱ人間じゃん」


 手の甲で口のまわりを拭いながら呟いて、俺は立ち上がった。


 周囲を見回した。人の手で造りあげられたイミテーションの楽園。緑と陽の光にいだかれたこの装置群は仲間たちトリニティの揺り籠で、同時に墓場でもあるのだと思った。


「……」


 再び周囲を見渡した。……どうやらここに我々が追うべき連中はいないようだ。だとすればいつまでもここに留まっているのは時間の無駄ということになる。そう思い、もう一度仲間たちトリニティの墓標に目をやった後、俺は通路に戻るため、元来た道を引き返そうとした――


 唐突に視界が閉ざされたのはそのときだった。


「――」


 ……正確には、視界が閉ざされたわけではなかった。突然、暗くなったことで一時的に視覚がブラックアウトしていたに過ぎないことは、次第に明らかになってゆく周囲の様子から認識できた。


 陽の光はもうなかった。木々の緑も、小川のせせらぎも、もうそこにはなかった。


 ただ闇の中、蛍火ほたるびのようにゆっくりと明滅する操縦席コクピットのランプと、非常灯ということなのだろうか、そこかしこにぼんやりと浮かぶ赤い小さな照明――それだけがこの空間に光を与えるもののすべてで、ついさっきまで目にしていた眩いばかりの光景とのギャップに、俺は声もなく立ち尽くすしかなかった。


「……」


 ――だがそれでも、ほどなくして俺はに何が起こったかわかった。


 電源が落とされたのだ。もっと言えば、例の連中が最後の仕上げにここの電源を落としていったのだ。どのみち核実験とやらでここも滅茶苦茶になるのだろうが、万が一電源が生き残ってここの植物が枯れずに残るのは都合が悪い――おおかたそんなところだろう。


 今ここの電源を落としたということは、やつらはまだ近くにいるのかも知れない――そう思い駆け出そうとして、だが数歩も行かないうちに俺は立ち止まった。


 ……回線がつながっていさえすれば電源などどこからでも落とせる。それに上へのトンネルを塞いでいった彼らが未だにこの中にいるとは考え難い。むしろ何らかの方法により外から電源を落としたと考えるのが普通だろう。それは取りも直さず、彼らの作業がその最終段階に入ったということを示唆している。


 つまり彼らはもうすべての準備を終え、時限装置つきの核爆弾は既に爆発までの秒読みを開始しているということだ。その推測が正しいとすれば、状況はいよいよ危機的なものになってきたと言わざるを得ない。


 けれども俺の意識にのぼるのは、やはり迫りくる死への恐怖などではなかった。


「……そういやここの入り口、なんでいてたんだ?」


 なぜだろう、今さらのように湧きあがってきたその疑問に、俺は足を止めた。


 ……そうだ。あのキリコさんを出し抜くほど用意周到にことを進め、今まさに作業を完遂しようとしている彼らが、果たしてここの入り口を閉め忘れるなどといった失敗を犯すだろうか?


 もちろん誰か別の者があそこを開けたまま出て行ったと考えることもできる。けれどもあの博士たちがここからだいぶ離れた場所で死体になっていたことを考慮に入れれば、犯人は博士たちではない。当然、キリコさんでもない。そうなるとここで三位一体トリニティを始末していった彼らが、故意にあそこを開けたまま出ていったと考えるのが自然だ。


 仮にそうだとすれば彼らの目的は何か? なぜ彼らはここの入り口を開けたまま出て行ったのか?


 ――ひとつ考えられるのは、をここに招き入れるためだ。


 通路に漏れ出す光を目にしたそのが、あたかも誘蛾灯に引き寄せられる虫のようにこの空間に足を踏み入れる。……それを見越して彼らがあの入り口を開けたまま出て行ったのだとしたら、少なくとも一匹はまんまとその罠にかかったということになる。


 今しがたここの電源が落とされたのも、そのがここに侵入したことを、彼らが何らかの手段により確認したからなのかも知れない。


 では、そのとは誰か?


 おそらくだが、それは俺ではない。もしそれが俺であるとしたら、ここに踏み入ってから電源が落ちるまでのタイムラグが大き過ぎる。逆に、もしそれが俺でないとしたら――


「――」


 そこで俺は、明滅する赤いランプの中に、ぼんやりした眼差しをこちらに向ける少女の姿を認めた。

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