234 すべてが終わったあとに(8)

 少女は動かなかった。両手をだらりと下げ、虚ろな表情で呆然と立ち尽くしていた。


 顔から衣服から、少女の全身が血にまみれていることは弱々しい光の中にもはっきりと見てとれた。返り血だろうか。あるいは、彼女自身が流した血も少しは混じっているのかも知れない。俺たちがいない間にこの地下で少女が何を、何を為してきたのか――緊急を告げる赤いランプよりもなおあかく染まったその姿が、包み隠さずに物語っている気がした。


「……」


 それでも、少女と向かい合う俺の胸に恐怖はなかった。彼女と対峙するときいつもついてまわったあの居心地の悪い感覚、それも今の俺にはなかった。ぼんやりとした目で少女がどこを見ているのか、その視界に俺は入っているのか……それさえもわからないまま、俺はただ少女を見守り続けた。


「……」


 ――いつかのパーティーの情景が脳裏に蘇った。華やかな祝宴の中で一人佇み、寂しく壁の花となっていたあのときの少女。そこで少女が見せていた不貞腐れたような顔と、そんな彼女に俺がいだいた同情シンパシーとを、昨日のことのようにはっきりと思い出した。


 今はあのときとは違う。血染めのドレスを身に纏った少女は紛れもなく恐怖すべき狩人で、俺はその前にのこのこと姿を現した獲物に違いない。事実、時が来れば俺たちはいつものように殺し合いを始めるだろう。――あの『歯車の館で』これまでずっとそうしてきたように。ただひとつ、これがいつもの訓練ではなく、最初で最後の実戦だという違いはあっても。


「……」


 ――そう、これは訓練ではない。いつものように喉笛を引き裂かれたあと、俺がベッドの上に目を覚ますことは、もうない。


 あるのは『死』だ。平凡で何の変哲もない、どこにでも転がっているただの『死』。その過程を経た俺がどうなるのかわからない。――ここではないどこかへ行くのか、あるいはどこへも行かず無に還るだけなのか……それは誰にもわからない。わかるのはそれがすべての人間に等しくもたらされるごく普通の死であること、そしてこの肉体と結びついた俺という個性はその死により消滅し、二度と蘇りはしないこと――それだけだ。


 それがわかっても、やはり俺の中に恐怖は生まれなかった。


 その代わり俺の心にもたらされたのは、あのときと同じように同情シンパシーだった。もちろん、中身は違う。賑わいに満ちたあのパーティー会場からかけ離れた、我々の他に誰もいないこのがらんどうの空間――だがその空虚な舞台に少女と対峙する俺の心に湧き上がってくるのは、やはり彼女に対する同類としての同情シンパシーだった。


 パーティーの後、照明の落とされた会場に取り残された二人――それが俺たちだと思った。


 宴は終わった、後片付けも終わった。お互いのパートナーはとっくにけた。わけがわからないまま連れてこられ、わけがわからないまま置き去りにされた二人の部外者が、誰もいなくなったホールに何をすればいいかわからずに向かい合っている――


 それが、俺と少女だった。


「ふ……」


 思わず笑いの息が漏れた。……そういえばあのときもこんな風に笑った気がする。そんなことを思いながら、もう一度少女を見た。


 そこで、初めて少女と目が合った。


「……」


 ここではないどこかを眺めるような、生気のない虚ろな眼差しだった。けれども俺には、その目が俺を見ているのがわかった。俺の中にある、を見ていることがわかった。


 ――そう、俺の中には少女がいた。少女と同じことを考えている自分が、俺の中に確かにいた。



(――俺たちわたしたちはどこから来たのだろう)



 少女の中には俺がいた。俺と同じことを考えている少女が、目の前に確かにいた。


 いつか明け方に見た夢で一度だけ少女と心が重なり合ったとき……あのときのように鮮明で生々しい感覚ではない。けれども俺が少女と同じことを思い、少女が俺と同じことを思っている――それだけはわかった。



(――俺たちわたしたちはいったい何なのだろう)



 そこでふと、俺はそれが当然の帰結だということに気づいた。


 俺と少女が同じことを考えている――それは不思議なことでも何でもなく、ごく自然で当たり前のことだ。


 なぜなら俺たちはだからだ。宴果えんはてたパーティー会場に取り残され、誰もいないその広間に照明さえ落とされ、この先どうすればいいかわからないでいる。


 わけもわからないままこの世界に目覚め、わけもわからないまま争いに駆り立てられ、わけもわからないまま今、死に向かおうとしている。



(――俺たちわたしたちはどこへ行くのだろう)



 ――少女がここに来た理由がわかった。幕切れも間近になってなぜここへ来たのか……来ずにはいられなかったのか、その理由がはっきりとわかった。


 それはここが我々トリニティの故郷であり、同時に我々トリニティの墓場だからだ。


 最後は故郷ふるさとで迎えたいなどという老人めいた考えがあったのだとは思わない。けれども少女が――いや、彼女ばかりではない、何ものかに導かれるようにこの場所に辿り着いたのだとしたら、それはおそらく必然だった。


 すべてのはじまりである最初の一人と、すべてを知らされた最後の一人。その二人が邂逅するのに、これ以上相応しい場所があるだろうか?


 そう思って、俺は懐から銃を抜いた。


 何かを感じてそうしたわけではない、無意識にそうしていた。事実、危険を告げるあの感覚はまだ俺の中にはなかった。


 少女は動かなかった。ただ呆然と俺の前に立ち尽くしていた。


 ――このままいつまでも見つめ合っていられたなら。あるいは手を振ってお互い別の場所に向かい歩き出すことができたなら。


 そんな淡い期待が胸の奥に生まれ、けれどもすぐに小さくなって消え失せた。


『最後に一度くらい勝ってみなってんだよ!』


 キリコさんの叱咤が耳の奥に蘇った。


 ……そう、ここで俺たちが出会ったことが必然ならば、これから俺たちが戦うこともまた必然だ。


 ずっと一緒に演じてきた共演者にその存在を否定された舞台。それでも遂に降りることができなかった舞台。


 その舞台で俺が必死に演じてきた即興劇のプロットが、ここまでの演技のひとつひとつが、今思えば真っすぐにこの場面を――予定調和とも言うべきこの少女との最終決戦ラストシーンを目指していた――


「――」


 目の前から少女が消え、俺は走り出した。


 時を同じくしてあの感覚が背筋を突き抜けた。水平に構えた銃を無作為に撃ちかけながら、木のないひらけた場所を目指し、駆けた。


 ……あの『歯車の館』で俺は一度、少女に殺されている。ここで木々の間に留まることは、その焼き直しを待ち望むようなものだ。


「……」


 果たして林を抜けると、背骨にまとわりついていたあの嫌な感覚は消えた。それを確認して俺はと同じように目を閉じ、銃を持つ手をだらりと下げて再びその感覚が訪れるのを待った。


 銃声。


 その感覚が来るのと同時に俺はトリガーを引き、虚空に向け数発の弾丸を放った。


 そのまま駆け出した。木の近くを避け、足元に目を凝らして小川にはまりこまないようにだけ気をつけながら。逃げ惑うという言葉からは程遠い軽い足取りで草むらを踏み分け、人気ひとけのないがらんどうの広間に一人分の靴音を響かせた。


「へえ……」


 立ち止まり周囲を見回して、思わず呟いた。


 林から少し離れた場所には、背丈よりも低い灌木がまばらに生える草原くさはらがあって、その只中に俺は立っていた。虚ろな空間を満たす闇の中、そこかしこにぼんやりと浮かぶ赤い非常灯が、俺の目にひどく儚げで幻想的なものに映った。そんな情景を眺めるうち、自分の胸にすっとひとつの感情がさしこんでくるのを覚えた。


「……」


 ――それは、寂しさだった。


 何のための寂しさかはわからない。けれども俺はこの誰もいない空間で少女と二人、こうして真似事のような戦いを戦っていることに寂しさを覚えた。最初小さかったその寂しさはみるみる膨れ上がり、やがて俺の意識を隅々まで埋め尽くしていった。


「――」


 またあの感覚が来た。追い立てられるように俺は走り出した。


 けれども寂しさは消えなかった。一度湧き起こったその感情は、背筋を這い回るおぞましい感覚によっても塗り潰されることなく、むしろ時を追うごとに大きくなっていった。


 続けざまにトリガーを引き、また何発かの銃声が暗闇に飲み込まれていった。火薬を打ち鳴らすだけの玩具の鉄砲にも似たその安っぽい音が、俺の中に巣食った寂しさをなおもかき立てた。


「……」


 ――俺たちは何のために戦っているのだろう。何度目かの感覚に地面を蹴り、ほとんど惰性でトリガーを引きつつ走りながら、俺はふとそんな疑問に捕らわれた。


 幕切れ間近のクライマックス。薄氷を踏む思いで演じてきた乱脈な演技の集大成。何かに導かれるようにしてここに辿り着いた二人の、文字通り命をかけた運命の戦い――


「はは……」


 そんなことを考えるそばから、思わず乾いた笑いがこぼれ落ちた。


 。弾の入っていない銃を手にした男と手ぶらの少女が草原くさはらに追いかけ合っているだけのこれが? そもそもこれは本当に戦いなのか? まるで気の抜けた戦いの――いや、の間違いではないのか?


「……何やってんだろうな」


 木の茂みに銃を撃ちかけその背後に回り込みながら、溜息まじりに俺は呟いた。


 この舞台もようやく格好がついたと思っていたところが、最後にきてこれではどうにも締まらない。第一、舞台などどこにもないということではなかったのか? それがどうして演技がどうこうという話になるのか? だったらこれは何のための戦いなのか? 俺は――俺たちはいったい何のために戦っているのか――


「ああ、くそ!」


 呟いて、俺は踵を返した。そしてあの操縦席のむれに辿り着く前にのぼった小高い丘に駆け上がった。その頂に立ち、周囲を見渡した。赤い灯が浮かぶ茫漠とした闇が圧倒的な虚無感をもって四方から押し寄せてきた。


「……」 


 そうして俺は、ここからもう動かずに少女を迎え撃つ決意を固めた。


 それが余りにも危険な賭けであることはわかっていた。危険と言うよりほとんど無謀な賭けと言っていい。ここに踏みとどまって少女を迎え撃つということは、あの感覚が来ても逃げないということだ。それはつまり俺があの訓練の中身に着けた、彼女と渡り合うための唯一のアドバンテージを自ら放棄することを意味する。


 次にあの感覚が来た直後、俺はいつものように地面に仰向けになって少女の顔を見上げ、彼女の指が首筋を引き裂くのを否応なく受け容れることになる。それはまったく確かなことで、同時にそれは舞台でも何でもないこの世界において、俺という個体が生物学的な死――誰の身にも等しく訪れるごく当たり前の死を迎えることに他ならない。


「……どうでもいいって」


 投げやりな悪態は周囲の闇に溶けた。俺が死のうが死ぬまいが、そんなのは心底どうでもいい。虚勢でも強がりでもなく、混じり気のない本心で俺はそう思い、改めて周囲を見回した。


 少女はいなかった。


 生命維持装置の電源が落とされた人口楽園――赤く小さな非常灯がまばらに浮かぶそこに、動くものの姿は何ひとつ見当たらなかった。


「……」


 身体ごと回りつつ周囲を隈なく見渡しているうち、幾分冷静になった俺の頭に、ここに陣取って迎え撃つのは案外悪い戦い方ではないのかも知れないという考えが浮かんできた。本で齧った程度の知識に過ぎないが、野戦で山に配陣するのは戦術の基本であるという。だがこうして山の上から四方を見渡していると、なるほどそれは確かに理にかなっているのではないかと思えてくる。


 ここまでの訓練をみる限り、少女に飛び道具はない。その推測が正しいのであれば、俺を殺すために少女はこの丘を駆け上がってこなければならないのであり、いくら少女の動きが素早くとも狙い撃つことはできる。もちろんあたるかはわからない。ただ少女がどこにいるかもわからないまま闇雲に撃ちかけるしかなかったここまでよりは遥かにな戦いになるのは間違いない。


 俺が求めているのは正にそのだった。結果、俺は殺されるかも知れない。だが俺は役者として、ここまでこの舞台にひとつの役を演じ続けてきた者として、こんなのような戦闘シーンをラストに降りてくる緞帳を眺めるわけにはいかない。


「……」


 少女は現れなかった。


 あるいはここでこうして構えている限り少女は現れないのではないか――ふとそんなことを思って、俺は一層注意深く周囲を見回した。……少女にしてみればあえてリスクをとる必要などない。ここが攻めるにかたい場所であるなら、俺が痺れをきらして移動するまでどこかで待ち構えていればいいだけの話だ。


 そうなるとこれは心理的な持久戦ということになる。待ちきれなくなって先に動いた方が負けだ。もっとも少女は俺がここにいることをほぼ確実に把握している一方、俺は依然として彼女がどこにいるかまったく掴めていない。だから戦況がこれまで通り少女の圧倒的優位であるという構図に変わりはない。それでもハンティングの獲物のようにただ追い立てられるだけだったさっきまでに比べれば、幾分なりとも俺の勝算が増したと言っていいのかも知れない。


 少女は現れなかった。


 彼女が現れなくとも警戒を怠ることはできない。持久戦どうこうは俺の憶測に過ぎず、いつ襲撃を受けてもおかしくない状況に変わりはないからだ。ともすれば少女が暗がりから狙っているのはそれかも知れない。緊張の糸が切れたときが俺の最期――最もつまらない形での幕切れとして、その可能性は十分に考えられる。


 ……そうなるとこの持久戦は明らかに俺の側に不利だ。少女は休憩を入れつつ獲物を観察していればいいが、俺は一瞬でも気を抜けば即座に殺されるからだ。五分十分ならつだろうが、一時間やそれ以上この緊張を維持しなければならないとなると苦しくなる。タイムアップはない。これは試合ではなく命の取り合いなのだ。


 少女は現れなかった。


 けれどもそんな追い詰められた状況にあって、俺の心は奇妙なまでに落ち着いていた。実際、今もって恐怖はない。そればかりかまるで凪いだ海のように、俺の中にはかすかな不安さえない。


 ――そこでふと、以前にもこんな心境で少女が現れるのを待ち続けていたことがあったのを思い出した。……そう、『歯車の館』でなぜか一度きり歯車が動きを止めていたあのときだ。あのときも俺はこうして少女を待っていた。動きを止めた歯車の狭間に立ち、自分でも訝しく思うほど冷静そのものの心理状態で……。


 少女は現れなかった。


 少女を待ち続けるうち、この丘に駆けのぼる前に感じていた感情――どこから来たものともわからない寂しさが、再び俺の胸に舞い戻ってくるのを感じた。


「――」


 そうして俺は、いつしかあのときのように少女が現れるのを待っている自分に気づいた。


 ……気がつけば、俺は少女を待っていた。少女が現れることを期待していた。動かない歯車の間に少女を待ち続けたあのときのように、いつまでも現れない少女を待ちわび、姿を見せてほしいと願うようになっていた。


 だがそれは、あのときと同じ気持ちではなかった。恋人を待つように少女が現れるのを待っていたあのときの気持ちは、今の俺にはなかった。


 ――丘の上に立ち、周囲の闇に目を凝らす俺の意識を支配するのは、寂しさだった。その寂しさを振り払うように、俺は暗闇に向け銃を撃った。何発も、何発も。まるで少女に自分の居場所を知らせるように、俺は虚空に向け見えない弾丸を撃ち続けた。


 少女は現れなかった。


 ――もう一度、あのときのことを思い出した。動きを止めた歯車の狭間に少女を待ち続けていたあのとき、何の前触れもなく唐突に歯車が回り始め、同時に彼女が俺の前に姿を見せたのだった。


 ここに歯車はない。あのとき俺を取り巻いていた無数の歯車は、今ここにはない。代わりにあるのは広大な空間を満たす闇と、その中に弱々しく光るあかい灯だけだ。歯車はない。だからあのときのようにけたたましい音を立て、歯車それが回り始めることもない。


「――」


 そこでふと、ひとつの考えが俺の頭に浮かんだ。


 あのときは歯車が回り出すことで少女が現れた。ならばひょっとして、少女が現れるのではないか。


 そう、あのとき俺を取り巻いていた歯車の代わりに今、俺の周囲にあるのはこの闇だ。この闇を払うことができれば少女が現れる――それはあながち飛躍した考えでもないような気がする。電源が落とされ、光が落ちて俺たちは戦いを始めた。それならば光が戻り、この闇が消えてなくなれば俺たちが争うこともなくなるのではないか。


「……」


 けれども、闇は動かなかった。虚空にたゆたう闇はその濃さを損なうことなく、いつまでもそこにあった。


 少女は現れなかった。


 丘にのぼってどれくらい経っただろう。


 折からの寂しさが少女を待つ気持ちと結びついたのはまったくの偶然だった。だがそのふたつが結びついたとき――俺が感じている寂しさが、こんな場所にたった二人取り残されたその相手とさえわかり合えないことによる寂しさだと理解したとき――俺は気づいた。


 この楽園にもう光は戻らない。そのことに気づいた。


 同時に、銃を構える腕をおろした。トリガーから指を外し、まったくの無防備のままゆっくりと丘を下った。


 三位一体トリニティたちが眠る白い揺り籠の傍ら、丈の短い草が生い茂る草むらに、俯せに倒れ伏したまま動かない少女の身体があった。

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