322 巡礼者のキャラバン(3)
なぜそんな衝動が浮かんだのか……少し考えて、その理由はすぐにわかった。
それは、復讐だった。こっちに来てこの方、まるで初対面のようにさんざん邪険にしてくれた、付き合い始めたばかりの恋人への復讐……。
あの一週間のなかで擦れ違い、ぶつかり合い、最後にわかり合えた人を想う恋心――それを抱えたままこのわけのわからない世界に放り出され、そこで邂逅した想い人には全部なかったことにされて赤の他人のようにあしらわれる。そうした構図の中で俺は俺なりに傷つき、苦悩していたのだということに今、初めて気づいた。
……そう、俺はこのアイネという女に傷つけられていた。あの夜、お互いの気持ちを確かめ合い、想いを伝え合って付き合いはじめた――その立場は同じはずなのに俺だけが苦しい想いを抱え、遣る瀬ない気持ちをどうすることもできないでいた。
その苦しみを欠片でもこの目の前の女に味わわせてやりたい……そんな残酷な気持ちが俺の中にまったくなかったと言えば、きっと嘘になる。
そして、少し冷静になって考えてみれば、それは決して無理難題といったような話でもないことに気づく。なぜならあちらのアイネは、はっきりと俺に惚れていたからだ。
もちろん、俺と共に過ごした期間の長さに違いはある。あちらのアイネがいつ、どんな過程を経て男としての俺に惹かれるようになったのか、そのあたりもよくわからない。
だが、性格にしても容姿にしてもこの俺とまったく変わらないあちらの俺に、あちらのアイネが一時は自分を見失うほど深刻な恋に落ちていたのは紛れもない事実で、その事実を思えばこの俺にこのアイネが惚れる可能性は決して低くない――ということになるだろう。
それからもうひとつ。あの夜を経た今、俺がアイネの心のありようを深く理解し、ある程度まで思考を推し量れるようになっているというのも大きな要素に違いない。
もともとその傾向はあったが、今の俺はアイネの態度や表情からかなりの情報を読み取ることができる。あの何とも言えない微妙な顔からアイネの好意を察することができたというのがその端的な例だ。これは彼女本人の口から特別に教えてもらった機密に基づく分析であるわけだから、精度は高い。……と言うか、ゲームにたとえるなら
このアイネという女が、男嫌いと見なされるほど潔癖で真面目くさった顔の裏に、信じられないほど純粋で感じやすい少女のような心を隠していることを、俺は知っている。
恋愛という概念のないここで、今はじめてアイネの胸に宿ったものとみえる感情――その感情に彼女が戸惑いを覚えているだろうことは、想像に難くない。その戸惑いを利用してやることで、案外簡単にこの女を落とせるのではないか。たとえば彼女が俺に捧げようとしていた忠誠を、うまく恋心にすり替えてやることができれば……。
「……」
そんな薄暗い考えを
思った通り、俺に告白された戸惑いがまだ抜けないのだろう。アイネはあの微妙な表情を変えることなく、俺の方を見てはまた視線を外すということをおそらく自分でも気づかないままに何度も繰り返している。……まるで初めて告白されてどうしたらいいかわからない女子中学生のようだ。そんな彼女の様子に苦笑いしそうになるのを
「……」
――この女が欲しい、と思った。
こちらに来てから……いや、五年前に出会った日から初めて覚えた、女としてのアイネに対する激しい欲情だった。
あの夜に邪魔が入らなかったなら――不意に、俺はそのことを思った。
あの嵐の夜に邪魔が入らなかったなら、俺とアイネはおそらく一線を越え、二人でたどり着ける最後の場所まで関係を進めてしまっていたことだろう。もちろん、そこにあったのは欲情ではなかった。そんな低俗な感情とはまったく異なる、ただ目の前の人とひとつになりたいというやさしくて温かな気持ちだった。
ただあのとき、俺たちは二人して落ちてゆこうとしていた。その温かな想いに衝き動かされ、どろどろに溶けてしまおうとしていた。
……そう、アイネはあのとき、俺を受け容れようとしていた。あのとき俺が求めていれば、彼女は決して拒まなかっただろう。今の俺には、はっきりとそれがわかる。言うまでもなく、俺も彼女を求めていた。アイネとひとつになりたいという激しい衝動――結局、宙ぶらりんのままになったその行為を求める衝動は形を変えて今、この俺の中にある。
俺は聖人君子ではない。枯れてしまった老人でもなければ、惚れた女を前にただ指をくわえて眺めていられるような人畜無害の男でもない。
――思えば、俺の初めての殺人はそれが理由だった。
この世界に降り立って早々、あの路地裏でアイネを犯そうとしていた男を、俺は有無を言わさず撃ち殺した。人ひとり殺してでも俺はアイネを奪われたくなかったのだ。どれほどきれいごとを並べ立てたところで、それが俺の本質なのだと思った。アイネを自分のものにするためならば、人さえも平気で殺す。だが少なくとも今この瞬間、そんな自分を忌まわしく思う気持ちは俺の中にはない。
他の誰にもアイネを奪われたくない。それは取りも直さず、俺がアイネを奪いたいということとイコールだ。それが俺であり、それが男なのだ。いい女は放っておけばどこかの男がかっさらってゆく――いつか
あちらのアイネではない、手を伸ばせば届く場所にいるこのアイネを落として俺のものにする――さっき頭の中で組み立ててみた通り、それは決して不可能なことではないように思われる。アイネの中に小さいながらも火が灯った今、やり方さえ間違えなければきっとものにできる。すぐには無理でも俺の中にある情報を駆使し、慎重にことを運べばそれほど遠くないうちに――
「……ふう」
そこまで考えて、俺は大きくひとつ息を吐いた。
その息と共に、俺の内側で膨れ上がっていた暗い情念は身体の外へと吐き出される。……他ならぬアイネを、そんな手練手管を用いて落としていいわけがない。まして衝動的に湧き起こった劣情を満たすために……そんなものは彼らがあの牢獄に繋がれた捕虜の女たちを相手にやっていることと何も変わらない。
もしそんな流れでアイネを抱いてしまったならば、俺は自分で自分を一生許すことができないだろう。そう考えながら……けれども一度は胸に抱いてしまった下劣な目論見を思って俺は自己嫌悪に陥り、頭を掻きむしろうと左腕を上げかけた。
「……っ!」
身体の芯に電撃が走るような激痛が、中途半端な高さまでもたげられた腕の動きを止めた。そのままゆっくりと腕を下ろす。……忘れかけていた肩の痛みが蘇り、同時にそれで俺の中に燻っていた欲情は完全に消し飛んだ。
……そういえば起きてから傷の具合を確認していなかった。そう思い、俺は痛みに耐えながら上衣をはだけ、左肩の銃創を露出させた。
「……」
――見た限り、寝る前と様子は変わらなかった。ぽっかりとあいた小指の先ほどの穴はそのままで、内側に赤黒い肉が覗いているところも変わりはない。……今のところ膿みは持っていないようだ。それがせめてもの救いだが、正直、この先はどうなるかわからない。
この手の傷は化膿すると厄介だというし、心配なところではある。お世辞にも衛生環境が良いとは言い難いここで、いったいどうするのが適切な処置なのだろう。俺の浅薄な医学的知識では、細菌の繁殖を抑えるくらいしか思い浮かばない。そうなるとやはり、もう一度くらい消毒しておくべきということになるのだろうか。
「――舐める?」
「え?」
「肩。またわたしが舐めた方がいいなら、舐めるけど」
一瞬、何を言われているのかわからず、返答できないままアイネを見守った。だがすぐに彼女が、弾丸を摘出したときと同じようにすることを申し出ているのだとわかった。
ウイスキーを口に含み、傷口に舌を差し入れてそれを流し込む……俺の曖昧な指示のせいで行われることになった半ば事故のような荒療治――ほとんど性的な行為に近いあれを、アイネは正しい治療法だと取り違えてしまったのだ。
言下に断ろうと口を開きかけ――けれども、俺はそうすることができなかった。
窓外にはこの世の終わりを告げるような砂嵐が吹き荒れている。その砂嵐に陽光を遮られたほの暗いコンクリートの部屋に、真摯な眼差しが真っすぐに俺を見据えている。少しつりぎみで黒目がちな、野生の獣を思わせる凛とした瞳――
「――ああ、頼む」
その強い瞳と視線を合わせるうち、俺の口は独りでにそう返していた。
その言葉を受けてアイネは立ち上がり、こちらへ近づいてくる。何も考えられないままぼんやりと眺める俺の前に立ち、能面をはりつけたような無表情で、「あれ、ちょうだい」とアイネは言った。
「え?」
「あの苦いの。舐める前に口に含む」
「ああ……すぐに出す」
帆布袋からウイスキーの瓶を取り出し、アイネに差し出した。
屈みこんで瓶を受け取ると、アイネは早速その蓋を開けようとする。だが、開かない。まだ呆然としている俺の前で……なぜだろう、アイネはウイスキーの瓶の蓋を開けるのに手こずっていた。
ふと、その手に目を遣った。瓶の蓋をひねろうとする右手――その細い指先が震えていることに気づいて、アイネが緊張しているのを察した。そのことに、俺は訝しさを覚えた。アイネが緊張に指を震わせているところなど、あちらでも数えるほどしか見たことがなかったからだ。
覚えているのは二人揃ってヒステリカでの初舞台の直前。儀式で額を弾き合おうとしたとき、アイネの指は確かに震えていた。だが、この部屋には彼女に緊張を強いるようなものはない。そもそもここには俺とアイネしかいないというのに、いったい彼女は何をそんなに緊張しているのか――
「……」
そこで俺は、アイネが緊張を覚えているものの正体に思い当たった。
同時に胸の奥に温かなものが広がってゆくのがわかった。それはさっきまで俺の心を苛んでいた欲情ではない。あの嵐の夜、初めてのキスを交わしたあと俺の胸を満たしていたアイネを愛おしく思う気持ちが、心臓のあたりにふつふつと湧きおこっては血流に溶け、全身の隅々にまで運ばれてゆくのを感じた。
「貸して」
いつまでも瓶の蓋を開けることができないでいるアイネに、俺は右手を差し出してそう言った。
一瞬、責めるようなきつい目で俺を見たあと、アイネは無言でそれをこちらに突き返した。俺は瓶を受け取り、蓋を開けてそれをまた彼女に返した。
アイネは俺の手から瓶を受け取ると遅疑なくそれをあおり、小さく噎せた。大丈夫かと俺が声をかける前にもう一度ウイスキーを口に含み、それからほとんど倒れかかるようにして俺の肩に唇を押しあててきた。
「……っ!」
傷口にウイスキーが流し込まれ、次いでアイネの舌が小さくて獰猛な生き物のようにその穴へ潜り込んでくる。
彼女らしいひたむきさでその舌が無闇に傷口に突きこまれる激痛と、肩に押しつけられた唇の内側が肌をなぞるその艶めかしい感触に、俺は堪らずアイネの身体を抱きしめようとした。
「……」
――けれども背中にまわした腕に力をこめたそのとき、びくりと怯えたように大きくひとつ身体を震わせたアイネに、俺は反射的に腕の力を抜いていた。
そっと触れるばかりに左腕をその背中にまわしたまま、俺は右手をもたげてアイネの髪に触れた。傷口に舌を出し入れされる激しい苦痛に歯噛みして耐えながら、俺はやさしく愛おしむようにアイネの髪を掻き撫ではじめた。
「……どうして」
俺の両腕に抱えられたまま、肩からわずかに唇を離してアイネは言った。
その質問に、俺は応えなかった。しばらくの時間があって、アイネはまた傷口をねぶりまわす作業に戻った。
アイネの唾液が俺の胸を伝い、服の下をくぐって腹のあたりまで垂れてきているのがわかった。その唾液によって最初のウイスキーなどとっくに流れ出てしまっていることだろう。もう舐める意味などない。口の中にも細菌がいることを思えば、このままアイネに舐め続けさせるのは害悪にすらなりうる。
けれども、俺は動けなかった。傷口を消毒するという本来の目的からかけ離れたその行為――ただ傷に舌を這わせるだけの行為に没頭するアイネを止めるための言葉を、俺は遂に口にすることができなかった。
代わりに、俺はアイネの髪を掻き撫でた。癖のない肩までの黒髪を、壊れものに触れるような指づかいでやさしくゆっくりと撫で続けた。
首筋からはアイネのにおいが立ちのぼっていた。汗を煮詰めたような濃い体臭に彼女特有のかすかに甘い香りがまじる、女としてのアイネを強く感じさせるにおい……だがそのにおいに、俺はもう性的な衝動を覚えなかった。
傷口からもたらされる激痛に耐えながら、同時に俺はその激痛に甘やかなものを感じはじめていた。
アイネが俺のためにそれをしてくれている――そのことを思うだけで、腕の中に息づいている人への想いが湧き出してくるのがわかり、その温かな想いがまるで
やがてアイネが傷口を舐めるのをやめたあとも、俺は彼女の背中にまわした腕の緩やかないましめを解かなかった。電源が落とされても惰性で動くのをやめない機械のように、ただ言葉もなくアイネの髪を撫で続けた。
「……そろそろ水、飲んだ方がいいよ」
――どれほどそうしていたのだろう。その言葉通り、喉の渇きを感じさせるかすれた声でそう言うと、そこではじめてアイネは俺の腕を振りほどいた。
身体を離したあと、アイネは壁際に置かれていたペットボトルを取り上げて、中身を口に含んだ。それから蓋を外したままのそれを、無言で俺に差し出した。
「……」
俺を責める言葉はなかった。ただこれまでよりよそよそしく、こちらに顔を向けずにペットボトルを手渡してくるぎこちない態度が、いつもの彼女とは違っていた。
……実生活での演技は自分でも笑っちゃうほど下手。いつか彼女自身の口から告げられたそんな言葉を思い出して、アイネが図らずも俺の望んだレールに乗ってきてしまったのだということを知った。
胸の中に生まれた熱源が、今もなお心地よい粒子のようなものを身体中に送り続けているのを感じた。だがそれとともに、俺はかすかな胸騒ぎを覚えた。
何かが頭に引っかかっていた。俺は何かを忘れている……。
「……そうだ」
こんなことをしている場合ではない。アイネとの行為の中に頭から追いやられていたそれを思い出して、俺は我に返った。
――この廃墟は滅びへと向かっている。早くここから逃げ出さなくては全員揃って
まずはキリコさんにコンタクトをとること――取りあえず今はどうにかしてその方法を見つけ出さなければならない。
そう思って俺は、にわかに色づいた空気をかき乱すように、アイネの髪をやさしく撫でていたその手で自分の髪を乱暴に掻きむしった。
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