195 消えるべき者、立つべき者(8)

「その話、本当なんですか?」


「ん? 何の話だったっけね」


「あいつにが無いって話です。まだ信じられないし、もし本当ならどうしてそんなことになったのか、そのへんが知りたくて」


「……ああ、その話か」


 そう言うとキリコさんはわずかに目を伏せ、右手の人差し指でこめかみのあたりを掻いた。それから背をのばし、胸の前に腕を組み直して、独り言のように呟いた。


「Daughter oジャックの娘f Jack」


「え?」


「DJって名前の由来だよ。『Daughter oジャックの娘f Jack』の頭文字をとってDJ」


「……」


「あんな男なのになんでまた『娘』なんてニックネームがついたのか。そのへんを考えてみりゃわかるんじゃないかい? その話が嘘か本当ほんとかってのはさ」


 胸の前に両腕を組んだ姿勢を崩さず、それまでより少しシニカルな表情でキリコさんは言った。


 その内容に、俺はうまく返事を返すことができなかった。遠回しな回答がどちらの答えを示しているのか、それについては考えるまでもなかった。けれどもDJの口からそのことを聞いたときと同じ――いや、ある意味そのときよりも大きい衝撃に、何も言えずキリコさんの話の続きを待つしかなかった。


「あたしにとっては、の口からその話が出たことが何よりの驚きだよ」


「……」


「あいつはその話題に触れられることを死ぬほど嫌ってたんだ。同じ理由で、DJって名前で呼ばれることも。仲間内にあいつをその名前で呼ぶやつは一人もいないし、あたしにしてみたってそれは一緒だった」


「……」


「その名前で呼んだら撃ち殺されるんだよ。実際に撃ち殺されたやつもあたしが知ってるだけで二人ほどいる。あの部隊での不文律ってやつになるのかね。だから、いくらふんじばられて狭苦しいところに押しこめられてるとはいえ、あいつが自分からその話をしたってことが驚きだし、ハイジじゃないけどまだ信じられないってのが正直なところさ」


「……なんで」


「ん?」


「なんであいつがそんな……」


 わずかに震える声でどうにかそれだけ口にできた。そこまで聞いてもまだその話を信じられない気持ちの方が強かったし、何より信じたくなかった。


「ひょっとして、あいつとも顔見知りだったのかい?」


 今さらのようにそんなことを聞いてくるキリコさんに、俺は小さく頷いて応えた。だがそれを確かめたキリコさんは悪びれる様子も見せず、逆に興ざめしたように鼻を鳴らし、のけぞって頭の裏に手を組んだ。


「あいつにしてみたって最初からついてなかったわけじゃない。元々はついてたもんが切られちまったのさ。もっともの方は残ってるよ。みたいになった切り株の下にでかいタマがぶら下がってるの見るのは、まあなかなかにシュールなもんさ。タマまで取っちまえば闘争心がなくなるみたいなんだが、残しておくとそれはもう辛いらしくてさ。遣り場のない闘争心がぐつぐつに煮えたぎってたんだろうねえ。それがあいつの強さの秘密だったのかも知れないねえ」


「……」


「切られちまったのは最近……まあせいぜい数年前だ。戦場ではよくあることって言っちまえばそれまでだけど、まあ私刑リンチってとこだろうね。あの廃墟じゃない、あそことは別の戦場での話さ。ただそのあたりについては――」


「そのへんはあいつから聞きましたよ」


 際限なく続きそうなキリコさんの話に、俺はたまらず割って入った。驚いたような顔をこちらに向けるキリコさんを見れば、あるいは強い調子になってしまったのかも知れない。


 ……だが、もしそうだったとしても無理はない。そんな生々しい話が聞きたかったわけではないし、顔見知りだと確認しながらそんな話を続けるキリコさんの無神経にも嫌気がさす。


 第一、咄嗟に飛び出した言葉通り、そのあたりはみんなあいつ自身の口から聞かせてもらったばかりなのだ。


「どこかの国の武装組織だか何だかで戦っててそうなったって、あいつから聞きました。いつの間にかそこにいて、わけもわからないまま戦い続けた挙げ句に拷問で切り取られたって。あいつが詳しく話してくれました。だから……そんなことが聞きたいんじゃないんです。俺が聞きたいのはそんなことじゃなくて、わからないのは――」


「誰から聞いたって?」


 その声に、俺はぎょっとしてキリコさんに顔を向けた。思わずそうしたのは彼女の声がにわかに真剣なものに変わったのを感じたからだった。


 けれどもその顔を見て、俺はもう一度ぎょっとしなければならなかった。キリコさんの顔は蒼白だった。蒼白――というより今こうして眺めている間にも徐々に血の気が失われてゆくような、そんな彼女の様子にすぐには言葉が出なかった。


 返事を返せないでいる俺に、キリコさんはもう一度その質問を繰り返した。


「誰から聞いたって?」


「……あいつからですけど」


「あいつじゃわからない」


「DJからです」


「いつ?」


「さっきです」


「さっき?」


「さっきの尋問で、です」


「本当に聞いたの?」


「え?」


「その話を、本当にから聞いたの?」


「……はい、聞きましたけど」


「ちょっと待って」


「……」


「ちょっと待って。聞いてない、聞いてないそんなこと。……あたしは聞いてない。あたしは何にも聞いてない、聞いてないよ……」


 真っ白な顔のまま右手を口に押し当て、震える声でキリコさんは何度もそう呟いた。


 ……キリコさんがこれほどまでに取り乱す姿を見るのは初めてかも知れない。さっき電話を終えたばかりの興奮に浮かされたような彼女も、それに続く妙に醒めた冷笑的な彼女も、もうそこにはいなかった。


 俺が話した内容に、何か深刻なものが潜んでいたことはわかった。ただ、その深刻なものが何であるのか、それが俺にはまるでわからなかった。


「……それだとすべてが崩れちまうよ」


「……」


「そんなはずないんだ。それだとすべてが崩れちまう」


「まずかったですか」


「え?」


「何か俺、あいつからまずいこと聞きましたか?」


 俺の質問にキリコさんは一瞬、きょとんとした表情をつくった。だがすぐ元の深刻な顔に戻って、それから首を大きく横に振って見せた。


「まずいんじゃなくてんだよ」


「どういうことですか?」


「あんたが聞いたってその話を、あいつが記憶してるはずがない。あいつの口からその話が出てくることはありえない……いいや、んだよ」


「けど、俺は確かに聞きました」


「だからこんなに混乱してるんじゃないか! あたしにだってあんたが嘘を言ってないことくらいわかる。わかるからこそこんなに混乱して、どうしたらいいかわからずにいるんだよ!」


 そう言ってキリコさんは力なくテーブルを叩いた。こぶしが天板に打ちつけられる鈍い音が二回、三回と虚しく響いた。そのままテーブルに両腕をのせ、しばらく突っ伏すようにして動かなかったキリコさんは、やがておもむろに頭をあげると、呆然とした表情でこちらを見ずに言った。


「どんな流れで聞いたんだい?」


「え?」


「前後の文脈だよ。どんな話の流れであいつがさっきの件を語ってくれたのか、そのへんを詳しく聞かせておくれ」


「流れ、って言っても……こうしてるとあの時のことを思い出す、とか言い出して。それで」


「何だいそりゃ。よく理解できないよ」


「あいつ拘束されてたじゃないですか」


「……あたしは見てないよ」


「ああいや、あの部屋であいつ拘束されてたんですよ。指一本動かせない感じに。ちょうど拷問受けてその、アレを切られたときもそうだったらしくて」


「……」


「だから身動きできないように拘束されてることで、その時のこと思い出したみたいで。こうしてるとあの時のことを思い出す、って言って。それで例のこと喋り出したんです」


 俺がそう説明するとキリコさんはまた黙った。だが今度は真剣な目で向かいの壁をじっと見つめて、何か考えこんでいるようだった。


「……言わされてるふうはあったかい」


「え?」


「あいつがハイジにその話をしてくれたとき、それがあいつ自身の意思でそうしたんじゃなくて、誰かに言わされてるような感じはあったかい?」


「ありませんでした」


 即答だった。それまで壁を見つめていたキリコさんはそこで初めて俺に視線を向けた。――あるはずがなかった。そんなことはあるはずがない。そう思って、あのときDJの隣に座ってその話を聞き終えたときの印象が蘇った。それを、そのまま口に出した。


「ずっと一人で抱え込んでたものを打ち明けてくれた感じでした」


「おかしいじゃないか」


「え?」


「わからないよ。どうしてあいつがあんたにそんなもの打ち明けるんだい」


 独り言に近いキリコさんの質問には幾分の棘がまじっていた。そう言われて、俺は少し考えこんだ。


 ……確かにそれは俺にとっても疑問だった。もう一人の俺に面識があったとはいえ、部隊の隊長が新入りに気安く語り聞かせる内容ではない。それに、あの状況で俺が現れたのでは裏切ったと思われても仕方ないし、実際、DJの質問の中にはそうしたことをにおわせるものもあった。……正直、わからなかった。なぜそれを俺に話してくれたのか、それはきっとDJ本人にしかわからない。


 ただ思いつく理由があるとすれば、それはひとつしかなかった。


「それはまあ、友達だったからじゃないかと」


「……は?」


「ああいや、こっちでの話じゃないです。ここに来る前に元いた場所で」


「……」


「そっちで俺とあいつは友達同士でした。そのへんの事情がもう一人の俺からあいつに伝わってたみたいで。それで込み入ったことを打ち明けてくれた、ってのもあるんじゃないかと」


 俺としてはできるだけわかりやすく説明したつもりだった。けれどもその説明にキリコさんは絶句し、ついていけなくなったと言わんばかりの表情で息を吐いた。


 またしても見慣れないキリコさんの仕草に、場違いにもこみあげてくる軽い笑いを押し殺した。状況がどうあれ――いや、こうした状況であればこそ、今日はこの人の初めての顔を数多く見ることができる。


「あんたには才能があるようだね」


 そんな俺の思いを見透かしたかのように、長い沈黙のあとどこか忌々しげにキリコさんは言った。


「取り調べの才能ですか」


「役者としての才能だよ」


 吐き捨てるようなキリコさんの台詞からは露骨な皮肉が感じられた。気持ちを切り換えるようにキリコさんはもう一度溜息をつき、それから居住まいを正してまた口を開いた


「あんたが掴んできた情報はこの『研究所』の根幹を揺るがすものだ」


「……」


「あいつがあんたに打ち明けたっていう昔話だが、その昔話自体に問題があるわけじゃない。その昔話をあいつがしたってことが問題なんだよ」


「……」


「その記憶があいつにってことが大問題なんだ。そうなると今ここで進行している計画が根っこから崩れることになる。言ってみりゃタネがばれちまった手品の練習を必死になってやってたようなもんさ。……と言うより、その事実はとりもなおさず、ここでも『本部』でもない第三者の手があたしたちの知らないうちに介入してたってことを意味するんだよ。そうとなりゃもう一刻の猶予もならない。元々ケツに火がついてたようなもんだが、いよいよ全身火ダルマになる覚悟をしなけりゃならない」


「……」


「それにしたってあんたの才能は大したもんだね。役者でも刑事デカでも、どっちの才能でもいいけどさ。藪をつついたらこんなにデカい不発弾が出てきたよ。そう……爆弾のたとえが一番しっくりくるね。こいつは爆弾だ、どうやっても解除できない時限装置つきの。このままじゃあたしたちもこの『研究所』もろとも吹き飛んじまうよ」


 張り詰めた表情でそれだけ語り終えると、キリコさんは電池が切れたように口を閉ざした。そうしてふっと俺から視線を外し、腕組みをして彫像のように動かなくなった。


 長考の態勢に入ったのだということが何となくわかったので、俺の方からは話しかけなかった。


 ――十五分、いや二十分は優に続いた長い沈黙のあと、不謹慎ながら俺が眠気を覚え始めたところで、キリコさんはおもむろに口を開いた。


「マリオを巻き込むしかないね」


「……」


「あたし一人で背負い込むにはこの問題は大きすぎる。さっきの話じゃないが、またぞろ煮え湯を飲まされるリスク承知で、この先も協力してやっていけるっていうあいつの言葉に乗っかるしかなさそうだ」


 さっきの俺に対するものの比ではない、心底忌々しそうな顔と口調でそんな台詞を吐いたあと、キリコさんは大仰に溜息をついた。それからこちらを向き、今度は心底申し訳なさそうな――と言うよりほとんど哀れむような目で俺を見て、「ハイジ」と小さく俺の名を呼んだ。


「はい」


「もう一度、あいつの尋問をお願いできないかい?」


「え――」


「今度はマリオとあたし同伴で。さっき話してくれたアレを切られたあたりの話、あいつが自分から語ったっていう昔の戦場について、突っこんだところを聞き出してほしいんだよ」


「それは……」

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