194 消えるべき者、立つべき者(7)
「――もしもし、ハイジかい? すぐに出られなくて済まなかったね。……そうかい、まあ繋がったんだからよしとしようじゃないか。で、用件は何だい?」
冷静な、落ち着き払った声で電話に出るキリコさんに、またしても感心せざるを得なかった。短い時間とはいえあれほどの勢いで走ってきたのに、息ひとつ切らしていない。
……いや、よく見れば息は切らしている。けれども自分が喋っている間はそれを声に出さず、相手の話している間に受話器から口を離して呼吸を整えている。つまり、回線の向こうで話している相手にはそれを悟らせていない。
やはりこの人は天性の役者だと思った。そう思って内心に溜息をつく俺の前で、それまで穏やかだった彼女の表情が一転して険しいものに変わった。
「――鍵?」
そう口にしたキリコさんの目がすっと細くなり、口元が引き締められた。
「鍵がどうしたっていうんだい?」という何の気ない台詞がそれに続く。だがその眉間には深い皺が刻まれ、左手の人差し指は電話相手に聞こえないほどの音でしきりにテーブルをタップしている。会話の内容を聞かなくてもそれだけで回線の向こうの状況――クルマのキーがないという状況が理解できた。
「ちゃんと探したのかい? 運転席の下は見たかい? 予備のタイヤひっぺがして隅から隅まで探してみたかい? ……ならもう一度探してみるんだね。話はそれからだ」
キリコさんはそこでいったん区切ると、受話器のマイク側に手をあてて大きく息を吐いた。それから唇を固く結んで目を瞑り、何かを思い悩んでいるか、或いは祈っているように見える。
……思い悩んでいるにせよ祈っているにせよ、何が彼女をそうさせているのかは考えるまでもなかった。おそらくキリコさんにしてみれば想定外だったに違いないこの状況をどう切り抜けるのか……固唾を呑んで見守る俺の前で、やがて彼女は開き直ったように表情を弛緩させ、無造作に脚を組んだ。
「……あったかい? そうじゃないよ、そんなこと聞いてるんじゃない。何かあったかい? って聞いてんだよ。クルマの隅から隅まで探して何もなかった、ってこたないだろ。何かあったはずさ。……そうかい、なら問題解決だね。そいつが鍵だよ。それがそのクルマの鍵さ」
そう言ってキリコさんはそれまで閉じていた目をいっぱいに見開いた。こちらに向けられたわけではないその目に、思わずどきりとさせられる俺がいた。
――それほど真剣な、燃え立つような眼差しだった。その眼差しで、歯ぎしりするような激しい表情から虚空をじっと見つめ、相変わらず声だけは穏やかに無知を諭すような調子でゆっくりとキリコさんは言った。
「本物じゃない、ねえ。やれやれ。こりゃどうも、ハイジ先生の台詞とも思えないねえ。自分がどこに立ってるのか忘れちまったのかい? あんたが立ってるそこは、本物の鍵がないとクルマが動かせない場所なのかい?」
諭すというより、皮肉かほとんど
……会話の流れはわかった。キリコさんが今、もう一人の俺に何をさせようとしているのかということも。
だが、果たしてそんなことが可能なのだろうか――俺がそう思うのと同時に、彼女はその言葉を口にしていた。
「そう思うんならそれ突っこんでみな。突っこんだら
口では穏やかにそう言いながらキリコさんは必死の形相で虚空を睨み、指先でせわしなくテーブルを叩いていた。心臓の鼓動が伝わってくるようなその様子に、昨夜と同じようにそれが賭け――しかもだいぶ分の悪い賭けであることがわかった。
ただ、それがわかったところで俺にはどうすることもできない。だから永遠とも思える暫時の後、受話器のスピーカからかすかに漏れ聞こえるエンジンの音とテーブルをタップしていた手のガッツポーズでことが成功裏に運んだことを知ったとき、俺は彼女と同じポーズを両手で作り、それから大きくひとつ溜息をついた。
「……話はそんだけかい? じゃ、まあこのへんで切らしてもらうよ。何かあったらまた電話してきてくれていいけど、今回みたいに出られるとは限らないから、それだけ肝に銘じといておくれ――」
通話が終わったものとみえ、唇を閉ざしたあともキリコさんは電話機を頬から離さなかった。だがやがておもむろにそれをテーブルに置くとキリコさんはぐったりと椅子に背もたれ、のけぞるようにだらりと両腕を後ろに垂らした。
「参った……ハイジには参ったよ、まったく」
形の良い顎を天井に向け、口を半開きにしてさも疲れたようにゆっくりとキリコさんは言った。
……しばらく待ってみたが次の台詞は来ない。自分のことを言われたのではないというのはわかっていたが、何となく返事を待っている気がしたので、とりあえず思いついたまま口にした。
「どっちの参ったですか?」
「両方だよ。まったくもう、あんたときたら!」
思い切りよくそう言ったあと、キリコさんは「ふ」と息を漏らした。それからのけぞって天井を見上げたまま「ふ、ふ」と白衣を波打たせ、ついには堰を切ったように笑い出した。
「あはは……あはは! ほ、
「……つか、俺じゃないすけどね」
もう何度繰り返したかわからない俺の台詞は盛大な笑い声にかき消えた。だが長く続くかとみえたその笑いは唐突に途絶え、それと同時にがたんと大きな音を立ててキリコさんの背中が椅子の背もたれから離れた。
「しかしまたわからないことになってきたね。生物相手ならあいつが言ってた共感の理屈でどうにでも説明できるけど、無機物の、しかも内燃機関を動かしちまうとなるともうお手上げだ。何がどうしてそんなことが可能になってんだかわかりゃしない。もう理論もへったくれもないね。こないだの話じゃないが、あたしはあたしでこの事象を受け容れて、そういうものとしてやっていくしかないようだ。鍵を回収されちまってたのは完全にあたしの誤算だが、それを補って余りあるだけのもんを見せてもらえたよ。こりゃ本当に
今度はほとんど前のめりにテーブルに肘を突き、顎の下に両手を組み真剣な表情でキリコさんは一気にまくし立てた。興奮気味――というより憑かれたようなその口調に、突然笑い止んだこともあって危ないものを見る思いがした。
だが、彼女がおかしくなったわけでもなければ、別の世界に行ってしまったわけでもないことはよくわかっていた。やがてキリコさんはおもむろにこちらに顔を向けると、
「ハイジ」
「はい」
「役者は揃ったよ」
「はい」
「消えるべき者が舞台から消えた。立つべき者が舞台に立った」
「はい」
「大道具は用意した。小道具はそこらに転がってたもので間に合った。緞帳はあたしが上げるつもりがとっくの昔に上がっちまってたみたいだ」
「はい」
「と
「まじっすか!?」
「まじに決まってるだろ。役者の本領、見せてもらうよ。……いいねえ、こんな状況だってのに何だか盛り上がってきたじゃないか」
そう言ってキリコさんは
だがそれ以上に笑い声をあげたいのは俺だった。この部屋に目覚めてから今日ここまでの演技に必ずしも不満があったわけではない。真剣に演じなければならない場面は多々あったし、役者としての血が沸き立つ山場もそれなりにあった。
――だた、それは文字通りの演技ではなかった。はっきりそれとわかる舞台において明確な役を与えられて行う演技ではなく、それが理由でいまいち乗りきれない自分がいなかったと言えば嘘になるのだ。
「そういうことなら俺、どんな役でも演じてみせますよ」
自分でもわかる興奮に上擦った声で、そんな
そう口にして初めて俺は、自分がもう一人の俺に嫉妬していたことを知った。キリコさんとの電話で漏れ聞く会話から浮かび上がってくる壮大な舞台、そこで充実しきった演技を愉しんでいるもう一人の俺に激しい嫉妬を感じていたのだ。
もしその舞台で俺に役が与えられるというのなら、すぐにでもその役を演じてみたいという思いが、確かにある。
そんな
「だったら、
「はい」
「最終的な目標は変わってない。あの廃墟から数日の間にあの子たちを連れ出して砂漠の外に逃げ延びさせる。もう終わってるこの研究所がもっと深刻に終わりきっちまう前に」
「はい」
「そのためにあっちで頑張ってるもう一人のあんたにあの子たちの部隊を掌握してもらう。それが最優先」
「はい」
「あたしたちはそれを手助けする。行動のベクトルは全部そこに向ける。もう一人のあんたがスムーズにあの子たちを連れ出せるように、クルマでも何でも用意して状況を作りあげる。そこまではいいかい?」
「はい、多分」
「そうなってくると厄介なのはマリオの動きだ」
そう言ってキリコさんは仕切り直しとばかりに再び背をのけぞらせると、胸の前に腕を組みそれから高々と足を組んだ。俺は黙って彼女の話の続きを待った。
「正直、あたしはあいつを舐めてた。正確にはあいつと、おつきの衛兵隊の隊長を、だ。《試験場》からあいつがいなくなってくれればあとはどうにでもなると高をくくっていたけど、どうやらそう簡単にいくもんでもなさそうだ」
「はい」
「返す返すも見事なのは軍曹の働きだよ。あんたももうわかってるようにあいつは昨日までずっと演じてたんだ。マリオに尻尾を振るだけの無能な雌犬を、ね」
「そうですね」
「このあたしにさえ気取られずに演技を続けてきたってだけでも見事なのに、そいつをかなぐり捨てての昨日の働きときたらどうだい。あたしたちの前に立ち塞がった思わぬ伏兵と言っていい。……いや、マリオこみで考えりゃ、当面はあいつらが最大の敵と考えた方がいいかも知れないね」
「それについてなんですけど」
ますます勢いを増してくるキリコさんの饒舌に俺は思い切って口を挟んだ。キリコさんは一瞬、むっとした表情をつくったあと、値踏みするような視線を俺に向けて「何だい」と短く言った。
「……ええと。前提として、やっぱりマリオ博士は敵なんですか?」
「あいつが敵以外の何だってんだよ」
「いや、さっきの部屋で話聞いてたかぎり、あの人はまじめにキリコさん――じゃなくて
「それは間違いないよ。あいつはあたしたちと手を組みたがっている。それこそ、大まじめに」
「だったら――」
「ただし、自分の利害関係のらち外でなら、って条件つきでね」
「……」
「さっきのパフォーマンスを言ってるなら論外だよ。あんなもの、あたしにとっちゃ何の足しにもなりゃしない。尋問させたところで、あいつの利害関係にこれっぽっちも抵触しないってことがわかってたからこそ、おためごかしに塩を送ってくるような真似をしてみせたのさ」
「……そうなんですかね」
「あいつからあんたが何も聞き出せなかったのがその何よりの証拠だよ。何か重要なことが聞き出せたのかい? ……ああ、そうか。ペニスが無いってこと以外に。そりゃまあ、驚きだけどねえ。あいつにそんなこと喋らせちまうなんて」
どこか
DJとの対談で、俺は何も聞き出せなかったわけではない。最初こそあいつの痛ましい姿に言葉が出なかったが、何だかんだで色々と話した。最後にはお互いの内面を掘り下げるかなりディープな話もできた。聞く内容がお任せだったことを思えば上出来だろうし、少なくともその役目を俺に丸投げした当の本人に言われたくない。
それに――予想もしなかった尋問の成果が俺の手の中にある。正確にはさっきようやく口から移し替えたジーンズの右前のポケットの中に。
実際のところどうなのかわからないが、或いはキリコさんが話していたものかも知れないチップ。どんな意図があってDJがそれを俺に託したのかわからない。だが何の根拠もなく漠然と感じるところによれば、ここで俺がDJからこのチップを手渡されたことの意味は、きっと軽くない。
いずれにしても俺が一人で抱えこむには重すぎる代物だった。キリコさんならば中に何が記憶されているかすぐに解析してくれるだろうし、その解析結果を有効に活用してくれるに違いない。チップを見せたとき、彼女がいったいどんな顔をするかという興味もある。
――だがこのチップを取り出して見せるより前に、どうしてもキリコさんに確認しておきたいことがあった。
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