193 消えるべき者、立つべき者(6)


「ん?」


「オマエ、本当はオレに何か聞きに来たんじゃねえのか?」


「ああ……まあそういうことだったんだけどな。お前の顔見たら何も聞けなくなっちまったよ」


「顔? 顔ってなこの顔か? だったら帰る前にもっとよく見てけよ」


 DJはそう言ってぬっと俺の方に顔を突き出した。紫色に腫れた目の上や赤い肉の覗く開いたままの傷口があらわになり、思わず目を背けそうになった。


「……いいって、もう充分見た」


「もっとだ。ほらもっとよく顔近づけろ」


 がんじがらめの身体をよじらせてこちらに顔を近づけてくるDJに訝しいものを感じながら、仕方なく俺はもっとよく見えるように顔を接近させた。


 ――瞬間、ぬるっとした生暖かい感触が俺の口を襲った。


 間近にかかる鼻息とに自分が何をされているか気づいたのは数秒後で、のしかかる巨体を反射的に押しのけて「うぇえ……」と声にならない呻きをもらした。


「――」


 だが直後、突き飛ばされて壁にだらしなく背もたれるDJの姿を見つめながら、俺は口の中に何か硬い小さなものが残っていることに気づいた。


 唇を奪われた衝撃から抜け出せないぼんやりした意識で、その口の中にあるものを舌で探った。最初に感じた通り硬くて小さい……と言うより薄っぺらな、爪の先ほどのチップのように思える――


「……っ!」


 ――そうして俺は、これがいつかキリコさんが口にしていたチップであることを直感した。


 逃亡した主任研究者――ジャック博士が挑発するように首から提げていたもの。この研究所で行われていた研究の成果、その全てが記憶されているものとおぼしきチップ。そのチップを秘密裏に渡すため、DJは今し方の暴挙に出たのだと知った。


「……」


 言葉が出なかった。DJがなぜそれを俺に渡したのかわからなかった。そんな俺の心を読んだかのように、壁に背もたれたままの格好に穏やかな笑みを浮かべて、「オレには必要のないもんだ」とDJは言った。


「色々話せて楽しかったぜ」


「……」


「あとはまあ、オマエの好きにしろ」


◇ ◇ ◇


「――なに聞いたんだい?」


 マリオ博士の部屋を出てだいぶ歩いたところで、キリコさんは思い出したようにそう尋ねてきた。


「……特に、何も聞きませんでした」


 自分でもそれとわかる抑揚のない無感動そのものの声でそう答えた。そんな俺の回答にキリコさんは一言「そうかい」と返した。その淡々とした口調に非難めいた響きはなく、ただ話すべきことを話したという言い訳のようなものが感じられた。


 ……もっとも、そこにあるのは俺への気遣いなのかも知れない。実際、DJの監禁場所を出てからここまで俺は一言も発しなかったし、そんな俺を慮ってかキリコさんの方でも何も訊いてこなかった。


 DJから受け取ったチップは今も口の中にある。下顎の歯茎と唇の間に挟んで奥歯の方に寄せてあるから会話に支障はないし、間違って飲み込むこともない。


 そのチップについて、まだキリコさんには何も話していない。


 あくまで託すような口振りだったDJの意を汲むとそうすることが正しいのかわからないという思いもある。だが何より、安全なキリコさんの領地に戻るまで、とても口には出せない事柄だと判断したからだ。


「……いや、何も聞かなかったわけじゃないです」


 話の接ぎ穂がないのかまた黙ってしまったキリコさんに、今さらのように気づいて俺はそう答えた。


 ……そう、実際のところあいつから何も聞かなかったわけではない。最後の衝撃が大きすぎて忘れかけていたが、なにげに込み入った話を聞き出せた気がする。表情を窺うようにこちらを見るキリコさんに、未だうまく受け容れられないその話を、俺は切り出した。


「何かあいつ、妙なこと言ってたんですよ」


「妙なこと?」


「いや、口に出しにくいことなんですけど、が無いとか言うんです、あいつ」


「……」


っていうのはその、男にだけついてるで、それがあいつはついてないだとかなんだとか――」


「自分からそんなこと言ったのかい?」


「え?」


が無いってことだよ。あいつが自分からそんな話をしたってことかい?」


「あいつからでしたよ。というか、俺は思ってもみませんでしたから、そんなこと」


 俺がそう言うとキリコさんは考え込むように黙った。それきり話は途切れ、しばらく通路に反響する靴音だけが耳に届いた。


 ……何となく、この話題にはこれ以上触れない方がいい気がした。いっそこのまま部屋に着くまで喋らないでいようかとも思ったが、キリコさんがマリオ博士の部屋に入ったばかりのことをふと思い出して、言った。


博士ドクターがあいつと会いたくなかった理由が、ちょっとわかりました」


「……」


「実際にあいつに会って、わかりました。色々聞くつもりでいたんだけど、ボコボコのあいつ目の前にしたら、何も聞けなかった」


「……そうかい」


「俺でさえそうなんだから、あそこで親しくしてた博士ドクターなら尚さらなんだろうなって、そう思って」


「そのあたりもまあ、あるんだろうけどさ」


 俺の話に、そう言ってキリコさんは言葉を濁した。そのあとしばらく黙って、それから自嘲気味な笑みを浮かべ、また思い出したようにその話を続けた。


「……まあそうだね。ちょっとばかりあそこでの劇にのめりこみ過ぎちまったようだ。いずれにしても今日はまたずいぶんと情けないとこ見せちまったね。あそこでの劇はともかく……いや、あそこでのことにしても、あたしは役者にはなりきれないようだ」


「そんなことない。博士ドクターは立派な役者ですよ」


 つい大きな声が出た。ただそれは今日まで――昨夜の顛末も含めて、ここでの彼女を見てきた俺自身の偽りない本音だった。


 あの廃墟での彼らを相手にしての演技、そしてマリオ博士やエツミ軍曹との対決で見せたそれを考えれば、役者になりきれないという彼女の言葉はとても認められない。


 そんな俺の反応にキリコさんは一瞬驚いた表情を見せ、だがすぐ元の自嘲気味な笑みに戻って言った。


「……そうかねえ。そんなたいそうな役者なのかねえ、このあたしが」


「あ、役者というか女優です」


「……女優? 何だいそりゃ」


「いや……まあその。昨日、エツミ軍曹から英語の誤りを指摘されまして」


 そう言って、今度は俺が自嘲気味に笑う番だった。薄れつつある受験の記憶では“ actor ”は女性に使ってもいい単語だった気もするのだが、あの場ではとてもではないが指摘できなかった。


 ただこうして思い返してみると軽い屈辱感と共に、自分が果たしてそんな初歩的な英単語の用法間違いを犯したのかどうか、そのあたりが妙に気になってくる。この際、キリコさんに聞いてみようかと顔を向けたところで――数歩手前に立ち止まり、真剣な顔で立ち尽くしている彼女に気づいた。


「……? どうし――」


「しっ!」


 真っ直ぐに立てた指を唇にあてて俺の質問を遮り、キリコさんはしばらく動かなかった。それに倣って足を止めた俺の顔を見ないまま、「何か聞こえないかい?」と息だけの声で言った。


「え?」


「何か聞こえるだろ、ほら」


「……いや、俺には」


「聞こえるって! 鳴ってるよ鳴ってる! ほら早くしないと鳴ってるじゃないか!」


 そう言うなりキリコさんは弾かれたように走り出した。一瞬遅れて俺もそのあとを追おうとして――だがそれよりも急遽反転してきたキリコさんに腕を掴まれる方が早かった。


「……ってえ! つか、痛いですって!」


「だったらちゃんと走っておくれ! 聞こえてるだろほら!」


 そう言われて――そこでようやく俺にもその音が聞こえ始めた。


 少しずつ大きくなってくるその音は、オーソドックスな電話の呼出音だった。最近もうあまり聞かなくなったその古めかしい呼出音と、あの前時代の遺物である携帯電話が結びつくまでに時間はかからなかった。


 部屋の前についても呼出音は鳴り続けていた。もどかしそうにカードキーを取り出すキリコさんを眺めながら、扉が開いたら真っ先に自分がしなければならない仕事を思った。


「ハイジ!」


「はい――」


 返事も早々に部屋の中に駆け込み、けたたましい声で鳴いている携帯電話を取り上げた。一瞬、どれが着信ボタンかわからなかったが、ほとんど勢いでそれとおぼしきボタンを押した。


 受話器から少し急き立てる感じの「もしもし」というが聞こえるのと、キリコさんが走り込んでくるのがほぼ同時だった。もはや不平を感じることもなく、一言も喋らないまま俺はその電話機をキリコさんに渡した。

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