192 消えるべき者、立つべき者(5)
「誰かと思えば、ハイジじゃねえか」
「……」
「何で、オマエがここにいるんだ?」
「……」
その質問に、俺は答えられなかった。そうしてすぐ、キリコさんがDJとの対面にあれほど怯え、遂にはそれを放棄した理由がわかった気がした。
俺でさえ声が出ないのだ。おそらくDJの側の認識では顔見知りに毛が生えた程度の関係と思われる俺でさえ、こいつのこんな姿を目の当たりにして声が出ない。
……たまさかの訪問者とはいえ親しく言葉を交わし密接な関係にあったキリコさんが、こいつのこんな姿を見て平気でいられるわけがない。DJがこうなっている原因の一部が――というより大半が、他ならぬ自分の行為にあるということがわかっていれば余計に。
「……」
何も言えなかった。いたたまれない気持ちを抱えたまま俺はDJに近づき、その隣に同じ方を向いて腰を降ろした。……そうすることしか俺にはできなかった。
壁に背もたれると視界からDJが消え、淡い黄緑の光を放つ計器の群れがそれに代わった。そのまましばらく、ぼんやりとその光景を眺めていた。「殺しに来たのか?」と隣から声が聞こえた。
「え?」
「殺しに来たんじゃねえのか? オレのことを、よ」
「……どうして俺がお前を殺さないといけないんだ」
「じゃあ、何しに来たんだよ」
「……何しにきたんだろうな」
「へっ、何だそりゃ。聞いてんのはオレだろうが」
少しおどけた声で吐き捨てるように、いつもと何も変わらない調子でDJは言った。
そう言われて俺は考えこんだ。……本当に、俺は何をしにここへ来たのだろう。暗黙裏にうち続くキリコさんたちの情報戦につき合わされたといえばそれまでだが、ここでそんなことを言ってもはじまらない。いわくありげに現れておいてただ隣に座っている自分を客観的にみれば、いったい何しに来たんだとDJが言いたくなる気持ちもわかる。
「……いちゃ悪いか?」
「あ?」
「俺がここにいたら悪いか、って聞いてんだよ」
「別に悪かねえよ」
「だったらしばらくいさせてくれよ。事情があってすぐには帰れないんだ」
「だったら、好きにすりゃいいじゃねえか」
「いいのか?」
「いいもクソもあるかよ。ここにいようが出て行こうが好きにすりゃいい。オマエが何しようがオレの知ったこっちゃねえ。違うか?」
「……まあ、そうだな」
そこまで話して、自分がDJに対して実に滑稽な気遣いをしたのだということに気づいた。
確かにDJの言葉通り、いいもクソもない。牢獄に繋がれた囚人を前に、ここにいていいかと尋ねること自体ナンセンスだ。……即興芝居が聞いて呆れると思った。この部屋に入りDJの姿を目にしてから、俺は演技らしい演技を何もできていない。
「……」
そのまま俺は黙った。DJからも言葉はかからなかった。
蠅か何かの羽音のような低い唸りが耳に届いた。今にはじまったものではない、この部屋に入ってからずっと聞こえ続けていた音だ。向かいの壁を埋め尽くす計器から発せられる空虚で単調な音。――思えば数日前キリコさんの部屋に目覚めてからこの方、ずっとこの音を聞き続けている気がする。
沈黙は長く続いた。ときおり熱病にあえぐような深い溜息が聞こえ、それで隣にDJがいることを知らされた。
どれくらい時間が経ったのかわからない。この部屋に来た目的を何ひとつ果たすことができず――というよりその目的を自分の中に見いだすことができないまま、いとまごいの文句を考え始めたところで、不意にDJから声がかかった。
「思い出すなあ」
「え?」
「こうしてるとあんときのことを思い出す」
「……あんとき、っていつだよ」
「アレをチョン切られたときのこった」
「アレ? アレって何だ」
「アレはアレに決まってんだろ。真ん中に生えてる三本目の脚だ」
「ああ、アレ……って、どういうことだそりゃ。誰のが切られたんだよ」
「オレのに決まってんだろ」
「はあ? ばか言えよ。そんなわけあるか」
「何なら見せてやってもいいぜ? もっとも、このナイスなボンデージを脱がせてくれたらの話だがな」
思わず顔を向けた俺にそう言ってDJは苦しそうに笑った。だがもちろん、俺は笑顔を返すことができなかった。
DJが何を思ってそんな突拍子もない話をし始めたのかわからなかった。冗談とも本気ともつかない内容にうまく反応できないでいる俺に構わず、DJはなおもその話を続けた。
「東部ナントカ解放戦線とか言ったかな。本当はもっと長ったらしい名前があったんだが忘れちまった。まあ有り体に言やあどっかの国で政治的な目的のためにドンパチやってる武装組織ってやつだ。どこの国だったかは知らねえ。組織の名前を別にすりゃ、どんなやつらが何のために戦ってるのか、そのへんもはっきりしねえ。
「どうしてそうなったのかわからねえが、オレはいつの間にかそこにいた。連中に混じって戦ってた。日銭目当ての傭兵の出入りはしょっちゅうだったから怪しまれなかったんだろ。連中からは確かノッポとか呼ばれてたっけなあ。今にして思や、まあ気のいい連中だったよ。実際、そこで戦ってたこと自体に悪い思い出はねえ。最後のやつを抜かせばな。
「戦況も最初は悪くなかったんだが、政府側が本腰入れ始めた頃からどうしようもなくなっていった。弾薬も尽きた。連中は弾薬がないと弾が撃てねえってことに気づいたのはそのときだ。当然、こっちが不思議がられた。何でオマエは弾なしで撃てるんだ、ってな。その疑問の溝が埋まらねえうちに連中は端から死んでいった。みんな死んじまって、最後はオレ一人になった。
「そっからはオレ一人で戦った。考えてみりゃおかしな話だわな。何のために戦ってるかわからねえオレが最後の一人になっても戦い続けてたってのは。ただもうそんときにゃオレは何も考えちゃいなかった。自分がどうやって生き残るか、目の前の敵をどうやって殺すか。それ以外になかったんだわ、そんときのオレの頭ん中には。
「撃たれたときのことはよく覚えてねえ。痛えのと苦しいのとで死ぬこと考える暇さえなかった。まあそれでもどっかでこれで死ぬんだと思ったんだが、死ぬ代わりに味わわされたのがあの死ぬ目だった。薄汚え小屋で今みてえに身動きできねえようにされて本部の場所はどこだとか何だとか、そんなことを聞かれた。んなことオレが知るわけねえっつうの。だから正直に知らねえっ
そこまで話して、区切りがついたのかDJは話すのをやめた。
堰を切ったようにDJが話し続ける間、その痛ましい横顔を眺めながら俺は何も言えなかった。声の調子や話し方から冗談でないらしいということはわかった。だが当然と言うべきか、にわかにはその話を受け容れられない自分がいた。
アレを切った切らないの問題ではなかった。もちろんそれもあったが、それ以上に話の内容があまりにも俺の現実とかけ離れている……。
DJが話し終えてしばらく経っても、俺は何も言えなかった。その話の内容について
話し終えたDJはしばらく黙って前を見ていたが、やがておもむろにこちらに視線を向け、口を開いた。
「なあ、ひとつ聞いていいか」
「……なんだよ」
「オマエ、あの女の手先だったのか?」
「あの女?」
「あの女だよ」
「ああ、あの女……の手先か。ちょっと違う気はするが、まあ似たようなもんか」
「うちに入る前からそうだったのか?」
「入る前……っていうと」
「うちの隊に入って来る前から、だ。その前からオマエはあの女の手先だったのか?」
「ああ……そういうわけじゃない。と言うか、実のところ俺はお前の隊には入ってない」
「……どういうことだ?」
「お前の隊に入っていた俺は、お前が今喋ってる俺とは別人ってことだよ」
「待て待て、どういうことだそりゃ」
「つまり、俺が二人いるってことだよ。そんでお前の隊に入ってた俺と、今お前が喋ってる俺は別人ってことだ」
腫れた肉の奥からこちらを見るDJの怪しむような視線に、今さらながら自分が喋りすぎたことに気づいた。――けれどもすぐに、それがDJの語ってくれた話への返礼であることがわかった。
内容についてはまったく理解できず、受け容れることもできなかったDJの話――だがおそらく、それは誰にも語られないままずっとDJの中に眠っていた話のように思える。……ならば、俺もそれに見合うだけのものを返さなければならない――そう思ったとき、俺の口は動いていた。
「三日前、だったかな。お前の所にあの女――キリコさんが《蟻》を連れてやってきただろ。あの《蟻》が俺だったんだわ。あのとき、俺は《蟻》の皮を被ってあの場所にいた。そこで初めて、ここには俺の他にもう一人、別の俺がいることを知ったんだ。
「あのときは本当に声を出さないでいるのがやっとだった。キリコさんからの話で、お前やアイネがいることは予想してたけど、まさか俺がもう一人いるなんて思いもしなかったからな。キリコさんに問い質してみてもまともな返事は返ってこなかったし、いったいどういうことなのか今でもよくわからない。俺がもう一人いるってことをまだうまく信じられない……つか、そんなのそう簡単に信じられるわけねえよな。
「けどまあ、慣れってのは怖いもんで、信じられないはずのそいつと昨日は撃ち合いまでした。と言うか、実のところ俺も昨日の夜あそこにいた。また《蟻》の格好してもう一人の俺と一晩中追っかけ合いながら撃ち合ってた。ぶっちゃけ、お前を捕まえる作戦に協力してたんだわ。協力してたって言うか、まあ無理矢理協力させられたようなもんだけど。
「そんなわけで、お前があそこで見てた俺は、お前が喋ってるこの俺じゃない。信じる信じないはお前の勝手だけど、俺とは別のもう一人の俺だ。ふざけた話だろ? ただ俺としては、もう今となってはそういうのもありなのかもなと思ってる。まだ信じられない気持ちはあるけど、俺とは別にもう一人の俺がいるってのも、まあありなのかな、って。俺は俺で精一杯この役を演じている、あいつはあいつで精一杯あの役を演じている。それでいいんじゃないか、って。
「そんな気持ちで、俺は今この場所にいる。ここがどこかわからないし、なぜここにいるのかもわからない。ただこうしてひとつの役が与えられた以上、緞帳が下りきるまで俺はこの役を演じきる。そう思うからあいつとも撃ち合えたし、お前を捕まえる作戦に協力することだってできた。裏切ったと思ってくれていい、もう一人の俺とかそんな話、信じてくれなくてもいい。けど、それだけなんだ。お前が見てきたもう一人の俺と同じように、ここで自分に与えられた役を俺は精一杯演じている。それだけだ」
ほとんど息継ぐ間もなくそれだけ言い切って、俺は口を閉ざした。勢いでかなり――と言うか明らかに語るべきでない内容まで語ってしまった気がする。けれども、後悔はなかった。
DJは話の途中から前を向き、聞いているのかいないのかわからない茫漠とした顔で薄闇を眺めていた。だが、やがてこちらを見ないまま独り言のように「わけがわからねえな」と呟いた。その言葉に、俺は思わず笑った。
「俺にだってわからねえよ。わけがわからねえことだらけだ」
「……」
「舞台に立ってたはずが、いつの間にかここにいてこんなわけのわからねえ役を演じることになった」
「……舞台? 何だそりゃ」
「演劇に決まってるだろ。まあいずれにしろ向こうでの話だけどな」
そう言ってしまってから、さすがに喋りすぎたと思い、我に返った。なりゆきでぶっちゃけた話にのめりこんだが、いい加減にしておかないとこれ以上自分が何をバラすかわからない。
それに――そうだ。向こうでの話と言ったところで、こいつに向こうでの記憶などないのだ。だからこいつに向こうでの話は通じないし、まして演劇などという言葉の意味が理解できるはずもない。
調子にのって喋り続けた反省も相まって、俺は口を閉ざした。けれどもそんな俺の思いをよそにDJはにやりと笑い、「演劇か」とどこか懐かしそうに呟いた。
「……? 演劇のこと知ってるのか?」
「ああ、オマエに教えてもらってなあ」
「俺が?」
「いや、オレんとこにいたオマエ」
「ああ……あいつか。あいつがお前に演劇の話をしたのか?」
「してくれたさ。まあ正直、いまいちピンと来ねえ話だったけどな。その向こうとかいうところでオレとオマエは一緒にその演劇ってやつをやっていたんだろ?」
「ああ、そうだよ」
「そんで、その向こうってとこでオレとオマエは友達とかいうモンだったと、もう一人のオマエは言ってたぜ」
「その通りだ。その向こうってとこで俺とお前は友達だった」
その言葉を口にしたとき不意に、向こうでDJに対して感じていた親しい気持ちが蘇った。馬鹿なことばかり言い合い、肩を組んで互いにしなだれかかるようにつるんできた友達。
……その友達が傷つき自由を奪われ、この先どうなるかもわからない窮状にあることが、初めてリアルな現実として胸に迫った。さっきDJが俺にかけた「殺しに来たのか」という台詞が雄弁にそれを物語っている。……そう、こうして囚われたDJはいつ殺されるともわからない状況に置かれているのだ。
――DJを解放したい。そんな考えが湧き起こり、一瞬で俺の心を埋め尽くした。
それがどれほど危険な行為か、もちろんわかっている。俺がここへキリコさんの代理として尋問に来ているという事実、そして昨日あれほどの苦労を払ってこいつを捕らえたことを思えば、危険というよりほとんど気の触れた行為に近い。それが痛いほどわかっていても、胸に湧き起こった衝動は容易に去らなかった。
「あいつの手先やっててどうだ」
「え?」
「あの女の手先やっててどうだ、って聞いてんだ」
「どうだ……って聞かれてもな」
「疲れねえか?」
「疲れるよ」
言下に返して、俺は思わず笑った。DJの方でも腫れぼったい顔をゆがめ、一頻り苦笑とも嘲笑ともつかない笑い声をこぼした。
「実際、疲れる。思いつきで行動するから危なっかしくて仕方ないし、こっちが聞きたい大事なことは何も教えてくれない。喧嘩も何度かしたな。やめてやろうと思ったことも一度じゃない」
「やめる? 何を」
「あの女の手先」
「へえ、そうかよ。そんだったらオマエは根っからあの女の手先ってわけでもねえのか」
「違うな。契約があるだけだ」
「契約?」
「ああ。この騒ぎが治まるまで俺は何でもあの女の言うことを聞く。騒ぎが治まったらその逆になる。っていう契約」
「逆……っていうと、あの女が何でもオマエの言うこと聞くってのか?」
「そういうことみたいだな」
「はあ? あり得ねえだろ。オマエ騙されてるぜ、それ」
「かもな」
半ば呆れたような顔でまくしたてるDJを見つめ返して、だがすぐにどちらからでもなく笑いが起こった。笑いは哄笑に変わり、薄闇の部屋にたゆたう埃臭い空気を震わせた。
……潮時を思った。このままここにいるとDJを解放したいという思いを抑えられなくなる。二人の笑いが小さくなったところで俺は膝を立て、「そろそろ帰るよ」そう言って立ち上がろうとした。
「――待てよ」
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