191 消えるべき者、立つべき者(4)
腰かけていたパイプ椅子からゆっくりと立ち上がりながら、マリオ博士は勝者風を吹かせるでもなく、もはや聞き慣れた抑揚のない声で穏やかにそう言った。
視界の隅に、エツミ軍曹が一礼して退出してゆく姿が映った。扉が閉まり、甲高い靴音が聞こえなくなってしまったあと、キリコさんはようやく最初の一言を切り出した。
⦅あの子はどうしたんだい?⦆
⦅あの子? ああ……彼女か。それについてはこっちが聞きたいくらいだよ、キリコ⦆
⦅どういうことだい?⦆
⦅今朝ここを出て行ったきり姿が見えないんだ。せいぜい心当たりをまわってはみたのだがね⦆
⦅ふうん……そうかい⦆
マリオ博士の言葉に、特に興味もなさそうにキリコさんは相づちを打った。
……そこでふと、彼女の調子がいつものそれに戻っていることに俺は気づいた。少しだけ頭をまわしてその横顔を垣間見る。さきほどのらしくない表情はどこかへ、薄笑みさえ浮かべた気怠げなポーカーフェイスが下目遣いにマリオ博士を見ていた。
内心に安堵を覚えながら頭を元に戻し――けれどもさっきの顔が何であったのか、それが少しだけ気になった。
⦅それにしてもまあ今回は煮え湯を飲ませてくれたもんだね⦆
⦅お互い様だろう、キリコ。君に飲ませなければこちらが飲まされていたものだ、その熱湯は⦆
⦅はいはいその通りだ。こっちはそんな湯飲ませるつもりはなかったっ
⦅やれやれ。そんな言葉が聞きたくてわざわざ来てもらったわけではないよ、キリコ⦆
⦅へえ……そうかい⦆
⦅昨夜、我々は協力してことにあたり、結果として双方の目的は達成された。この場で語るべきはそれに尽きると思わないか⦆
⦅……⦆
⦅我々の共闘は実を結んだのだよ、キリコ。工程に若干の行き違いはあったようだが、お互いがお互いに果たすべきを果たした。まずはそのことを評価してもらえないだろうか⦆
そう言ってマリオ博士はキリコさんを見た。無数の皺が刻まれた顔からじっと彼女を見るその目は、策略にまみれた会話の中にあって真摯な光を宿しているようにも見えた。
けれども当然と言うべきか、その眼差しにキリコさんが態度を変化させることはなかった。値踏みするような表情を変えることなく、溜息混じりの乾いた声で⦅それで⦆とキリコさんは切り出した。
⦅どこにいるんだい?⦆
⦅この扉の向こう側にいるよ⦆
⦅……ちゃんと縛り付けてあるんだろうね⦆
⦅もちろんだ。指一本動かせないように拘束してある⦆
⦅負傷の程度は?⦆
⦅相当程度といったところか⦆
⦅どの程度か聞いてんだけどね、あたしは⦆
⦅だから相当程度だよ、キリコ。死に至るほどのものはない。ただ、彼を動けないようにしておくに足る傷は身体のそこかしこに刻まれている。そういうことだ⦆
――と、そこでまたキリコさんの声に怯えのようなものが混じり始めていることに気づいた。と言うより、キリコさんが話題を変えてから声のトーンが明らかに下がった。
ちょうど怖じ気づく自分を鼓舞して無理に喋ろうとしているような……。そんな声の調子そのままに、思い切り良く一息で絞り出すようにキリコさんは言った。
⦅それで、何を聞き出せばいいんだって?⦆
⦅ああ、その件についてだが、そのあたりは君に任せようと思うんだよ、キリコ⦆
⦅……はあ?⦆
⦅彼の尋問について、だったな。そのあたりはすべて君に任せたい⦆
⦅なに言ってんだか理解できないよ、マリオ。あんたが彼から何か聞き出したいことがあって、それであたしらを呼びつけたんじゃなかったのかい?⦆
⦅そうではない、そうではないよキリコ。わざわざ君に来てもらった理由は他でもない、気持ちを伝えたかっただけだ⦆
⦅気持ち?⦆
⦅率直な気持ちだ。昨夜、君の協力により目的が達成されたことを私は心より感謝し、ありがたく感じている。それを、どうしても君に伝えたかった⦆
⦅……⦆
⦅もし昨夜のことで我々の間に
平坦な口調で語られるその言葉に、彼なりの誠意がこめられているのを俺は感じた。
昨日、俺たちが飲まされた煮え湯の熱さを思えば、マリオ博士が言っていることは詭弁以外の何ものでもない。
だがその一方で、彼が俺たちとの関係の継続を願っていることは偽りのない真実なのではないかと思った。マリオ博士は本心から今後も俺たちと協力していきたいと願っている――たとえそれが昨夜のように欺き、また欺かれる、吹けば飛ぶようなかりそめの協力関係であったとしても。
⦅……だったら何だってまたそいつをだしにしたのさ⦆
⦅君に来てほしかったからだよ⦆
⦅……⦆
⦅今日はどうしても君に来てほしかったからだ、キリコ。
⦅……⦆
⦅そういうルールだったな。ここへ来たばかりの頃、君から最初に聞かされた。そのルールが生きている以上、私から君のもとへは出向けない。だから直接伝えたいことがある場合には、君にここまで来てもらうしかない⦆
話し続ける間、マリオ博士の眼差しはじっとキリコさんに注がれていた。キリコさんからの返事はなかった。険しい表情で、ただじっとマリオ博士の視線を受け止めていた。
しばらくの沈黙があって、マリオ博士は諦めたようにキリコさんから視線を外し、小さく頭を振った。それからふっと溜息をついて、⦅こんな空気にするつもりはなかったのだが⦆と乾いた声で呟いた。
⦅推察の通り、こちらの目的は彼を『試験場』から排除することにあった⦆
⦅……⦆
⦅だが、君の目的が同じところにあるのか、それとも彼本体にあるのかわからなかった⦆
⦅……⦆
⦅だから生かしたまま彼を捕らえるように指示した。君の目的が我々と同じところにあったのならばいい。だがもしそうでなかったのならば、君は君の正当な取り分をこの場で受け取るといい⦆
さっきまでとは違う事務的な口調でマリオ博士はそれだけ言うと、もう何も言うことはないというようにパイプ椅子に腰を下ろした。
キリコさんは動かず、しばらく神妙の面持ちで腕組みを解かなかった。だが、やがて出し抜けに「ハイジ」と俺の名前を呼んだ。
「え?」
「あんたに任せる」
「任せる……って何をですか?」
「引っ捕らえたやつの尋問だよ」
「……は?」
「あの扉の向こうに昨日引っ捕らえたやつ――DJって男が繋がれてる。そいつから色々と聞き出してきておくれ」
「……いや、ちょっと待ってください。んなこといきなり言われたって――」
「お願いだよハイジ、断らないでおくれ。正直、あたしとしちゃあいつの前に顔出したくないんだ。今になって後悔してる。マリオの口車に乗ってのこのこ出てきたことをさ」
おそらく間近に聞いている俺だからわかる、かすかに震える声でキリコさんはそう言った。そこでようやく、俺は彼女が怯えていたものの正体に思い至った。
いや……正確にはわからない。キリコさんがなぜそれをそんなにも恐れるのか。だがどうやら俺たちがこの部屋に来たそもそもの目的――DJとの対面が、さっきから彼女を怯えさせていたものと考えてよさそうだ。
「ああ、そうだよ。あたしはあいつの――DJの前に立つのが怖い」
「……」
「
「……」
「やっぱり受けるべきだと思ったんだ。あたしはあいつと向き合うべきで、それがあたしの義務なんだろう、ってそう思った。……でもさ、ここへ来て実際に向き合う段になったら、あたしとしたことが怖じ気づいちまったんだよ。まったく、こんなに緊張したのは何年ぶりかねえ。情けない話だけど、今のあたしじゃまともにあいつの前に立てないんだ」
「……」
「だから、そいつをハイジにお願いしたいんだよ。虫のいいこと言ってんのはわかってるけどさ、たってのお願いだ。あたしを助けると思って、どうか聞き届けてくれないかい……」
こちらに目を向けることなく、さっきまでマリオ博士が立っていた場所を見るともなく見つめながら、まるで自分に話しかけるようにキリコさんは言葉を連ねた。声はまだわずかに震えていたが、胸の内を打ち明けただめだろうか、その横顔はいくぶんだがさっきより和らいでいるように見えた。
事情はだいたいのみこめた。少なくともキリコさんがDJとの対面を極度に恐れていること、それは理解できた。だが、そういうことであれば――
「だったら、帰ればいいんじゃないすか?」
「……」
「このままあいつに会わないで帰れば、それで済むような気がするんですけど」
「そういうわけにもいかないのさ。こいつは昨日の延長戦だからね」
「……どういうことですか?」
「これも駆け引きってことだよ。マリオはあたしたちの本当の目的がどこにあったのか窺ってるのさ」
「あ……」
「それに、本当に捕まえたのか確認したいってのもあるよ。実際にこの目で見たわけじゃないからね、あいつがちゃんと捕まってるところを」
「……なるほど」
そう言って、俺は頷いた。……とりあえず事情は把握できた。俺に投げられた役についても、引き受けるのにやぶさかではないと思った。
……いや、率直に言えば、こんな形ではあるがこの舞台の上でDJと絡んでみるのも面白いと感じる自分がいる。それにキリコさんの個人的感情はいざ知らず、こちらの出方を注視するマリオ博士の手前、俺が尋問に向かうことはおそらく彼の想定を裏切る絶妙の肩すかしに違いないのだ。
「そんで、なに聞いてくればいいんですか?」
「行ってくれるのかい?」
「行きますよ。だからなに聞いてくればいいか教えてください」
「そいつもハイジに任せる……ってんじゃ駄目かい?」
「いいんですか? そんなんで」
「あたしとしちゃ特に聞き出したいことがあるわけでもないんだ。ハイジが行ってくれるってんなら、あとはぜんぶ任せるよ。そのへんはまあ、あたしの信頼のあらわれだと思ってくれていい」
「そりゃどうも」
「それに、そういうのは得意だろ?」
「え?」
「即興芝居やってたんならそういうのはお手の物だろ、って言ってんのさ。ここへ来る前にあたしと一緒にやってたとかいう」
「ああ……まあそうかも」
「だったらその成果を見せておくれ。隠しカメラでもない限り観客のひとりもいやしないが、筋書きのない一回こっきりの舞台みたいなもんさ」
そう言ってキリコさんは初めて俺に向き直り、まだどこか不安そうな表情で微笑んだ。すがるような目で真っ直ぐに俺を見るその顔はいつもの余裕めかしたものとはまるで違っていて、場違いにもぐっとくるのを感じながら「わかりました」と俺は答えた。
どうあれ即興芝居という言葉を持ち出された以上、俺としては矜持にかけてそう答えるしかない。その言葉を口にしたのがキリコさんであれば尚さらだ。腹をくくるために大きく息を吐き、それから問題の場所に続く扉へと向かった。
「……」
がたっ、と音がして向き直ると、マリオ博士が驚愕の表情で椅子から立ち上がりかけていた。驚愕――と言うより苛立ちと困惑、咎めるべき行為を目のあたりにして咎められないでいるもどかしさが伝わってくるその表情に、こちらの目論見が見事にあたったことを知った。
マリオ博士はキリコさんの方を睨み、何も言わずまたパイプ椅子に腰をおろした。それを確認して、俺は扉のノブをまわした。
――思ったよりも広い部屋だった。ちょうど大学の講義室のような感じで、ただ隣の部屋と同じく壁一面に計器らしきものが並んでいることが違っている。
小さなシーリングライトと機器の照明がぼんやりと照らす薄暗いその部屋に、最初はDJがどこにいるかわからなかった。だがほどなく扉の向かいの壁の隅、計器と計器の谷間にDJの巨躯がうずくまっているのを見つけた。
状況と役目を忘れたわけではなかったが、久々にDJと話せる嬉しさにほとんど小走りで俺はその身体に歩み寄った。けれども、顔がはっきりと見えるまで近づいたところで俺は足を止めた――止めざるを得なかった。
「……」
DJはそれほど酷い有様だった。マリオ博士が言っていた通り、上下ともまるで
……それはまだいいのだが、その上についている顔が酷かった。青痣やまだ生乾きの血を残す傷口もさることながら、輪郭がほとんど原型を留めていない。ボコボコという擬音語そのままに、鼻も口も頬も左右不均等に膨らみ、或いは陥没したその顔はDJとは別人――と言うより、出来損ないの粘土細工か何かのようで、とても人間の顔とは思えない。
それ以上近づくことができず、ただじっとDJの顔を見守った。腫れた肉に埋もれて一本の線のようになった目は閉じているのか、それともこちらを見ているのかわからない。
だが、ややあってその顔が苦しそうに歪み、力のない呻き声を漏らしたあと、腹の底から絞り出すような声で「よお」とDJは言った。
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