315 テンペスト(8)

 呆然とした顔で見つめるアイネの襟元を掴み、同じ言葉を何度も繰り返した。左肩の痛みは時を追うごとに耐え難いものになっていったが、それももうどうでもよかった。


 魂が抜けたようだったアイネの目に光が戻ったのは、その少しあとだった。


 いつにも増して鋭い、さっきまでとは違う輝きを放つ目で俺を睨みつけると両手で俺を突き放し、その手で懐から携帯を取り出した。


「撤退して! 今すぐに! 周りのみんなにも伝えて! 今すぐ全員撤退してって――」


 携帯を頬に押しつけ、早口に捲し立てるアイネの姿を認めたあと、俺は初めて被弾した左肩を思った。左腕をあげようとして――あげられず、焼け串を突き立てられたような激痛に悲鳴を噛み殺す。


 ……思ったより重傷のようだ。もうこの腕は使い物にならないかも知れない。だが、問題はそれではない。今、俺が解決しなければならない問題は、ただひとつだけだ。


「……くっ!」


 手の中で銃が踊る。トリガーを絞るその度に、真っ直ぐ伸ばした右腕を衝撃が奔馬のように突き抜けてゆく。


 当然、狙いは定まらない。弾はどれも明後日の方向へ飛んでゆく。それでも、撃たれたのが左でよかった。幸運にも残ったのが右腕だから、まだしも俺はこうして撃つことができる。


 DJを抱え去った一団の影はもうどこにも見えない。殿しんがりの役目は果たしたのだから自分たちも退却すればいいものを、あの陰に隠れた彼らは逃げない。あるいは俺がここにいるから逃げられないのかも知れない。


 ……いや、実際そういうことなのだろう。そのあたりの事情はきっと、もうここにいる必要がないのにこうして動けない俺たちと同じなのだ。


 ――と、ガスが撃ち出されるブシュッという音がした。


「……チッ!」


 弾が尽きた。替えのマガジンはない、外して弾を詰め直すしかない。


 屈みこんで作業にかかる。……だがそこで左肩の痛みが蘇った。どうにか動かそうと試みても、腕はまるで言うことを聞いてくれない。


 外れたマガジンが鈍い音を立てて地面に転がり、震える手でそれを拾いあげようとする――そこでふと、肩越しに低い独り言のような声がかかった。


「どうすればいいの?」


「……え?」


「わたしがやる。どうすればいいか教えて」


「……ああ」


 迷う理由はなかった。俺は短い言葉でその方法をアイネに伝える。それに応えてアイネは俺の胸ポケットに手を突っこみ、取り出したプラスティック弾をマガジンに流しこんでゆく。


 ……アイネだけあって呑みこみは早かった。昔からそうだ。正しい教科書さえ与えられれば、アイネはたいていのことを難なくこなすのだ。


「……お前も逃げろ」


「え?」


「あとはそれそこに突っこむだけ。よこせ! そんで、もうお前は逃げろ!」


「……」


 その声にアイネは応えない。突き出した俺の右手に銃は渡されない。


 どうしたのだろうと振り返れば、マガジンが半挿しになった銃を手に、アイネはじっとそれを見つめている。


「どうした?」


 と、俺が言うより早くアイネは掌底でマガジンを押しこみ、そのままそれを両手に持ち直した。


「これ貸して」


「あ?」


「片腕じゃうまく撃てないでしょ。わたしが撃つから」


「おい、ちょっと――」


 俺の返事を待たずにアイネは伸びあがり、立て続けに轟音を響かせた。


 三発目の銃声で叫び声があがった。前方に崩れ落ちる影が見え、次いでその影が暗がりに引きずりこまれるのが見える。


 それに構うことなくアイネはトリガーを引き続ける。真っ直ぐに伸ばされた両腕の先に、俺の銃は手懐けられたように軽快なおじぎを繰り返してみせる。


「……ったく、逃げろってのに」


 そう呟きながらも俺は、気味のいい笑いに口元が歪むのを抑えられなかった。


 さっきまであれほど取り乱していたのがだ。だからアイネはたまらない。――ここで終わるわけにはいかない。この最高の女をここで朽ち果てさせるわけにはいかない!


 飾りのない気持ちでそう思った。そうしてすぐ、ジーンズのポケットにもう一本の銃が突っこんだままになっていることに気づき、引き抜いた。


「……っ!」


 立て続けにトリガーを絞った。……やはり衝撃は激しかった。だが、隣で火を吹くあいつに比べればも同然だった。


 少なくとも銃身が定まらないということはない。小星を見つめてトリガーを引けば、狙いからそう遠くない場所で壁が砕ける。それで充分だった。


 役目は入れ替わったのだ。『魔弾の射手』の役をアイネに譲り渡した今、ダミーとして攪乱することが俺にできる仕事のすべてだ。


 そう、この状況でならば当初の作戦通りダミーが活きる。その証拠に、前方からの反撃は目に見えて弱まってきている。


 有効な弾がいきなり倍に増えたのだから当然そうなる。この闇の中にどちらの弾かなど判別できるわけがない。今の彼らにとっては俺の分も含めて、風を切り飛んでくるすべての弾が『魔弾』なのだ。


「あと何人?」


「まだ10人……ううん、8人はいる」


「全員片づけられそうか?」


「そんなのわかるわけない」


 火力は倍増しても敵はまだ充分に多かった。圧倒的に不利な状況に変わりはなかった。被弾した左肩はどうなっているかもわからないほどで、痛みを通り越して既に感覚がなかった。


 それでも、悲観する気持ちはなかった。絶望など微塵もなかった。なぜだろう、そのまったく逆に、どうにかなるに違いないという希望的観測だけがあった。


 ――この銃でもあいつらをたおせる。


 うち続く銃撃戦の中に、俺はふとそのことに気づいた。何の根拠もない確信だった。だが、俺にそう確信させる何かがあった。


 なぜそうするのか自分でもわからないまま、まともに動かない左手に銃を持ち替えた。そうして胸ポケットからBB弾を掴み出し、リボルバーの弾倉にひとつずつ籠めていった。


「何やってんの!」


 問いとも咎めともつかないアイネの声を無視して作業を続けた。


 当然、現実には弾など籠められない。力なく垂らされた左手の先に、BB弾は籠めるはしから弾倉をすり抜けて落ちてゆく。


 だが、それでよかった。その作業はを自分に信じこませるための儀式だった。だからいいのだ。すべての弾倉に弾籠めを終えたところで銃を右手に持ち替える。


 そうして暗闇の先に照準を定めて、撃つ――撃つ、撃つ、撃つ!


「……ぃっ!」


 短い声があがった。『黒衣』の一人が取り落とした銃が音を立てて地面に転がるのが見えた。仕留めてはいない、だがあたった。


 思わず口の中で「ほらな」と呟いた。ほらな、思った通りだ。今ならば俺は、この銃でもあいつらをたおせる。


「……」


 思わず振り向いた俺の顔を、アイネは信じられないものを見るような目で見つめ返した。だがすぐ元の表情に戻り、何も言わず両腕を伸ばして銃撃を再開した。


 ――攻防は続いた。一進一退の神経戦……というよりそれは、退くに退かれない者同士の不毛な意地の張り合いと言ってよかった。


 どちらの味方ももうとっくに退却を済ませた、お互いこの場所を死守する意味など何もない。それが痛いほどわかりながらこうして激しく競り合っているのは、相手が攻撃の手を休めてくれないから。多分、お互いにただそれだけなのだ。


「――ハイジ!」


「何だ!?」


「撃てない!」


「……え!?」


「なんかこれ、撃てなくなった!」


「見せろ!」


 停滞に陥りかけた戦線がまた動き始めたのは、アイネのその一言がきっかけだった。


 手渡されたデザートイーグルを見て、よく観察しないうちに何が起こったか理解できた――ガスが尽きたのだ。ガスがなくなればガス銃は弾を撃てない、確認するまでもない当然の理屈だ。


 この場面シーンでそんな理屈が問題になること自体、笑ってしまうほど滑稽と言うしかない。だが焦燥に充ちたアイネの表情を見れば、笑っている場合ではないことはわかる。


「替えのマガジンは!?」


「え!?」


「さっきもう一本渡したやつ!」


「それも駄目! 替えてみたけど駄目だった!」


「ならもう駄目だ! 今夜はもうは使えない! ここからはで相手しろ!」


「けど……!」


「あとは俺に任せろ! 最初の予定通りだ! さっき見ただろ! 俺はでもあいつらをたおせる!」


「……っ! わかった!」


 ガスの切れた銃を俺に手渡してすぐ、アイネは元のグロックで応戦を再開する。結局、これで元通りの構図になった。そう思い、リボルバーを握る手に力をこめた。


 だがそう思ったのも束の間、それがまったく元通りではないことを、息を吹き返したような敵の反撃によって思い知らされることになる。


「……っ!」


「きゃっ!」


 弾かれて砕け散る瓦礫の破片に、堪らずアイネが声をあげた。アイネの悲鳴とは珍しいものが聞けた、などと下らないことを考え、すぐにその考えを頭から追い払った。


 これで形勢は逆転した。いや……お互いの人数からして本来のそれに戻った。


 アイネのグロックが中らないことを彼らは知っている。彼女が今まさに俺の銃を手放し、その中らないグロックを握り直したことも。……そう考えるしかない。そうでなければこの堰を切ったような反勢の説明がつかない。


「……ぐっ!」


 そして俺も、もう元の『魔弾の射手』ではない。


 左腕が死んでいる上、このリボルバーは6発撃つごとに弾を籠めなければならない。そんなことをしなくてもいいのかも知れないが、なぜかそうしなければ中らないという確信がある。


 ……いずれにしてもそういうことだ。冷静に状況を分析すれば、もうこちらに有効な材料がないことは火を見るより明らかだ。


「……逃げろ!」


「え!?」


「撃っててやるから逃げろ! 先行け! すぐ追いつくから!」


「……」


 思い切って口にしたそれは決して不可能な話ではなかった。


 俺の銃デザートイーグルが使い物にならなくなって以来、敵の反撃は目に見えて激しくなったが、一方でそこには明らかにメリハリがつくようになった。俺が6発の弾を撃つその間だけ露骨に銃声が小さくなるのだ。


 つまり危険なのはその間だけだということを彼らは知っている。――それは裏を返せば、アイネだけならどうにか逃がせるということに他ならない。


「お前だけなら逃げられる! 次、ちょっと間あけて撃つからその間に逃げろ!」


「……」


「聞いてるのか! わかったら返事しろ!」


「……」


 いくら声を張りあげてもアイネは返事をしない。もっとも、そんな反応が来ることはわかりきっていた。


 この場面でアイネがそうやすやすと逃げてくれるわけはない。さっきのように理詰めで論破しない限り、この強情な女が素直に動くことはないのだ。


「もうわかってんだろ! 今のお前はいても邪魔なだけだ!」


「……」


「それに忘れたのか! お前は隊長なんだぞ! なったばかりの隊長が早くあいつらのとこに戻らないでどうする!」


「……」


「それに! 俺だってこんなとこで無駄死にはごめんだ! ちゃんとあとから追いついてみせる!」


「……」


「だから先に行け! 俺一人なら――」


「嫌だ!」


「……」


「逃げない! もう絶対に! 絶対にわたしだけ逃げるなんて嫌だ!」


 鳴り止まない銃声を一瞬掻き消すような絶叫だった。


 硝煙の漂い来る濃い闇を見据え、絶え間なく銃撃を続けるその横顔はこちらを見ない。そんなアイネの様子に、俺は早くも説得を諦めた。


 ……と言うより、こうなることが最初からわかっていたのかも知れない。


 そして、問題はまたふりだしに戻る。一人で逃げるのが嫌だというのなら二人で逃げるしかない。けれどもこの銃弾の雨の中、二人揃って逃げるのは不可能に近い。


 その不可能を可能にするには、どうにかしてこの膠着した戦況を打開するしかない。そのためにはどうすれば――それを考え始めた直後、敵方から想像もしなかった形でその打開はもたらされた。


「……何だ?」


 何の前触れもなく唐突に銃声が止んだ。それに続いて、月光の下に黒い影が次々と飛び出してくるのが見えた。


 ! 最悪の事態を直感しながら、それでも俺は反射的に銃を向け、トリガーを引き絞る――


 だが、を終える前にすべては終わっていた。


 闇の中に煌めく白刃と、折り重なるように倒れた幾つかの影。その首から一様に噴水のような血しぶきがあがっているのが、夜目にもしるくはっきりと見てとれた。


 文字通り一瞬の、一方的な殺戮。その殺戮をもって『黒衣』たちに成り代わったのは、一人の少女だった。

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