316 テンペスト(9)

 ひと振りして刀の血を払い、それを鞘に戻しながら少女はこちらに近づいてくる。月明かりに濡れる黒髪に、無邪気そのものの笑顔で。


 その少女――彼らに死神という名前で呼ばれていた顔見知りの少女が目の前に立つまで、引き金に指をかけた銃を手にしたまま、俺は身動きひとつできなかった。


「さあ、お兄さま。邪魔者は片づけましたよ」


 銃口の前に立ち、人懐こい笑顔をたたえたクララはさも自慢げにそう言った。誉めてくれと言わんばかりの口調には開け広げな親愛の響きがあったが、もちろん俺の方にそんな感情はない。


 ……それでも、彼女によって窮地を救われたことは紛れもない事実だった。まだ何が起こったのかよくわからない状況の中で頭を必死にはたらかせながら、とりあえず俺はクララに向けていたリボルバーを降ろした。


「あれ? なんで降ろしてしまわれるんですか?」


「……え?」


「降ろしてしまったら駄目ですよ。それでは勝負になりません!」


「勝負……」


「そう、勝負です! 今夜は晴れてお兄さまと戦えるんです! 心配いりません! ちゃんとお父さまにお許しをいただきましたから!」


「……」


「ああ、なんて嬉しいことでしょう! こうしてお兄さまとお手合わせ願えるだなんて!」


 そう言ってクララは言葉通り幸せそうに顔をほころばせた。だが俺には彼女が何を言っているのか、わからなかった。


 そうして俺が返事を返せないでいる内にクララは刀の柄に手を伸ばし、低く腰をおとして居合抜の姿勢をとった。実際のところそれが本当に居合抜の姿勢かどうかなどわからない、ただそれっぽいというだけの話だ。


 その姿勢のまま上目遣いに俺を見つめ、甘えてしなだれかかるような口調でクララは言った。


「さあお兄さま、銃を上げてください。そうしてくださらなければ勝負の『し』の字にもなりやしない」


「……」


「ちゃんと狙って撃つだけにして、そこから『せーの』で始めましょう。お兄さまのが私を撃つのが先か、そのを私が斬り落とすのが先か。『せーの』はどっちが言いますか? 私が言ってもいいですか?」


「……」


「もう、何をぐずぐずしてらっしゃるんですか! 早く銃を上げてくださいな! それともまだ人目が気になりますか? それなら先にそちらの方のお相手をさせていただいてもいいですよ?」


 そう言ってクララはおもむろに視線を移した。隣で、おそらく銃を構えたまま動かないでいるアイネが一瞬身を竦めるのがわかった。


 ――そこで初めて、俺はクララの要求に従い銃を持つ右手をもたげた。……正確にはもたげたのではない、俺の意思とは関係なく独りでに持ち上がった。


「そう……そうです。ああ、夢のよう! 今日この時を私がどんなに待ちこがれたか!」


「……」


「そしたら狙いをつけてください。ちゃんと一撃で勝負がつくところに。胸のあたりがいいですか? 頭とかでもいいですよ?」


「……」


「ちゃんと狙いはつきましたか? もう準備はいいですか? ……さあ! 勝負ですお兄さま! 『せーの』と言ったらいきますよ!」


 そこまで言われても、いったい何がどうなっているのか俺にはまるでわからなかった。幸せいっぱいの笑顔に目を輝かせて鯉口を切るクララも、その眉間に照準を合わせ銃のトリガーに指をかける自分自身も……。


 ただひとつわかっているのはクララがその言葉を口にした瞬間、銃を持つ右手が俺の身体から離れるということだ。


 左腕が死んだ今、この上右手まで失ってこれからどうすればいいのだろう……呆然とそんなことを考え、クララの唇がゆっくりと動くのを眺めながら、半ば無意識に俺はトリガーを引く指に力をこめた――


 クララが目の前からいなくなった直後、きぃん、というその甲高い金属音を聞いた。


 まず確認したのは右手がまだ繋がっていることだった。そうしてすぐ、首筋に何か固いものが触れていることに気づいた。


 目だけ動かして下を見る……やはり、それは刀だった。自分の首から真っ直ぐに伸びた鋭利な刃――だがそれを手にしているのは、さっきまでクララではなかった。


「……あらあ? なんでウルスお姉さまがこんなところに?」


「剣を引きなさいクララ」


 俺の首に剣を突きつけているのはだった。ウルスお姉さまと呼ばれたそのもう一人のクララは大小を両手に、右手の小太刀でクララの剣を止め、左の刀で俺を制している。


 ……わざわざそんなことをしなくても俺は動けない。そう口に出そうとして、けれども舌はこわばって動かなかった。何もできないでいる俺を尻目に、さっきまでと変わらない笑顔でクララは続けた。


「答えになってませんよ? ねえお姉さま、なんでですか? なんでウルスお姉さまがここにいて、こんなをなさるんですか?」


「聞こえなかったのですか? 剣を引きなさい」


「なんでですか? だって今朝お父さまはちゃんと――」


「そのお父さまからの命令です」


「え?」


「お父さまから命令の変更です。すぐに剣を引きなさいクララ」


「……本当ですかあ?」


 あくまで冷静なもう一人のクララの言葉に、間延びした訝しげな声でクララは返した。


 ……何がどうなっているのかよくわからないが、もう一人のクララはこの決闘を止めようとしてくれているようだ。俺としては望むところだが、そういうことならこの首筋に突きつけられたものをどうにかしてほしい。


 そう思ってみたところで声は出ない。まるで蛇に睨まれた蛙のように俺は微動だにできない。


「本当に決まってます! さあ、早く剣を引きなさい!」


「……でもですねえ。お兄さまのこととなると、ウルスお姉さまはすぐ嘘をおつきになるから」


「嘘などではありません! クララ! お父さまの命令に背いてお仕置きが怖くはないのですか!」


「お仕置きを受けるのはどっちかなあ? お兄さまを庇ってこんなことして、お父さますごく怒りますよ? ウルスお姉さまはいつだってそう。この間だってお父さまに背いてお兄さまのために――」


「いい加減になさいクララ!」


 激昂したもう一人のクララの声が響いた。刃と刃の擦れ合うぎりぎりという音が聞こえる。それでなくともクララが満身の力を込めてもう一人のクララと鍔迫り合いしていることがわかる。


 ……どうやらお兄さまというのは俺のことのようだが、当の本人に意思表示の権利はないようだ。兄である俺を置いてけぼりに二人の妹は激しく争っている。一人は俺の腕を切り落とそうと、もう一人はそれを止めようと躍起になっている。


「あ、わかった! ウルスお姉さま、やきもちを焼いてるんですね?」


「……っ! 何を!」


「私がお兄さまと仲良くしてるもんだからやきもちを焼いたんだ! ねえお姉さま、違いますか?」


「クララ!」


「けど! それは我が儘というものですよお姉さま! 私だってずっとお兄さまと遊びたかったんですから! お兄さまはウルスお姉さまだけのものじゃない! そうじゃないですか? 違いますか?」


「クララ!」


「それなのにこんな邪魔をなさって! いいですよ、それなら私にも覚悟があります! 久しぶりにやりますか? お姉さまがその気なら本気で相手して差し上げても――」


「クララ」


 殺気が肌でわかるほどヒートアップして暴発寸前のクララの言葉を遮って、低く伸びやかな男の声が響いた。


 その声を聞いた途端、クララは一瞬きょとんとした表情をし、それから急に不安げな顔でおどおどと後ずさり始めた。「ふう」という溜息が聞こえ、首筋に突きつけられていたものが離れるのを感じる。


 けれどもそのすべてを後回しにして、俺は物陰から現れたその男に意識を集中した。……そうせずにはいられなかった。


「お……おと……お父さま」


 どもる声で呟きながらクララが背中を振り返る。その時にはもうは彼女のすぐ後ろまで来ていた。


 慌ててこちらに顔を戻し、叱られるのを恐れる少女そのままにクララは全身を縮こまらせる。そんな彼女の脇を抜け、俺がよく知っている隊長は泰然と俺の前に立ち止まった。


「久し振りだなハイジ君。こちらでは初めて……いや、二度目になるのか」


「……」


「この度はが先走ったことをしたようですまなかった。もうこのようなことがないようにあとできつく叱っておく。それで許してほしい」


「……」


 その隊長の言葉に益々縮こまるクララの姿が見えた。もう一人のクララは安堵の表情で刀を鞘に収め、そのまま衛兵のように隊長の後ろにつく。


 そこに至って俺は、さっきの決闘で構えたままちょうど隊長に銃口を向ける形になっていたリボルバーを下ろした。……別に何か考えがあってそうしたわけではない。ただそうする以外、他にすべきことが思いつかなかっただけだ。


「……あんたとはずっと話がしたいと思ってたよ」


「こちらとしても君とは話したいと思っていた。まずは――」


「まずは俺からの質問が先だ。こっちへ来てこの方、あんたには聞きたいことが山ほどあるんだ」


「……」


「俺にはそれを聞く権利がある。あんたはそう思わないか?」


「……いいだろう。確かに君にはその権利がある。何なりと聞いてくれたまえ、答えられる範囲で答えよう」

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