054 ここだけ時が止まったように静か(8)

「……どういうことだよ、これ」


 ――見慣れた商店街を数時間歩き続けたあと、公園にたどり着いた。にれの木の下のブランコに腰かけ、文字通り頭を抱えた。立て看はまだ手元にある。すぐ隣に、ブランコの支柱に立てかけてある。そいつを小脇に抱え数時間、商店街をさまよい続けていたのだ。その長い行軍の挙げ句、今に至るまでそれを小屋に納めることができないでいる。


「……ったく。どういうことだよ、本当に」


 小屋に帰り着けない。……と言うより、。商店街のゲートをくぐり、数日ぶりに見るうらぶれた佇まいに懐かしいものを感じながら真っ直ぐ小屋へ向かった。だが、そこに小屋はなかった。……いや、わからない。ひょっとしたら小屋はあって、俺は何度もその前を素通りしていたのかも知れない。けれども、俺は帰り着けなかった。あのこぢんまりした商店街をあれだけ長く歩いて、結局、俺はそこにたどり着くことができなかった。


 最初は単純に道を間違えたのだと思った。次に何かの冗談だと思い、最後には自分の頭を疑った。『あるべき場所にない』のではなかった。『あるべき場所がなかった』のだ。まるで記憶の一部分がすっぽりと抜け落ちたように、小屋とそのまわりだけが商店街の景色からすっぽりと抜け落ちていた――そんな感じだった。


「……慣れたと思ってたんだがな、もう」


 溜息に力のない独り言をこめた。その言葉通り、この手の展開にはもう慣れたと思っていた。あの舞台前最後の一週間でさんざんこの手の辛酸を舐めさせられ、もう滅多なことではたじろがないと信じていた。……が、今回のこれはかなりダメージがでかかった。暑い中を歩きまわって肉体的にもだが、それより何倍も精神的に。


 ……思い返せばそもそもの始まりはこの近所でリカとカラスを見失ったことだった。月曜日にあれがあって、そこからおかしなことばかり起きるようになった。だが、それはあくまで舞台に向かう中でのことだと思っていた。無事に舞台が終わればまた元の平穏な日常に戻るものと、何の疑いもなく信じこんでいた。……それが裏切られたのは大きい。もう舞台が終わったここでも、おかしな出来事はまるで当然のように起こっているのだ。


 それに、見つからないのが小屋ということも大きい。何と言っても自分の家なのだ。自分の家があるべき場所にないことを知り……いや、それがあるべき場所そのものがないことに気づいて平気でいられる人間などいない。頭が狂ったと考えるか……悪くすれば実際に頭が狂うだろう。さすがに俺はそこまではいかない。……だが何事もなかったように平然としていられるほど強い心の持ち主でもない。


「……と言うか、こんなことしてる場合じゃないし」


 その通り、こんなところで打ち拉がれている場合ではない。俺がすべきことは他にある。ペーターを舞台に立たせるために俺はここへ戻ってきたのだ。制限時間も定められている、24時間以上ここにいることはできない。魔女ウルスラにかけてもらった魔法が解ける前に、どうにかして王子ペーターの心を掴み、その足で舞台に向かわせなければならない。


「……と言うか、いないし」


 ……だがそもそも本人がいないのだからどうしようもない。とにかくペーターを捜すのが先決だった。あいつの行きそうな場所といえば大学か俺の小屋……小屋は諦めて大学から当たってみるべきだろう。庭園と会館、あとは文学部の校舎。……何かあの時と同じことをしている気がするが、ここでこうしていても埒があかない。今の状況ではっきりしているのはそれだけだ。


「……」


 大学に向かおうとブランコから腰をあげかけ、邪魔なものが目に入った。成り行きで持ってきてしまった立て看だ。日が傾いてもうだいぶ涼しくなっているが、大学までこんなものを抱えて行くのは嫌だ。かと言ってここに置いてゆくのも気が引ける。でかでかとヒステリカの名が書いてあることだし、不法投棄したと思われては、悪い噂が立ちかねない……。


「……あ」


 半腰のままどうしようか悩んでいるうちに、ふと、公園脇の通りからこちらを見ている目があることに気づいた。模型屋の店主だった。


 老人はこちらと目が合うとなぜかぷいと前に向き直り、そのまま何も言わず歩き出した。


「あの、こんにちは」


 遅ればせながら挨拶の声をかけても老人は立ち止まらない。西日の射す小道を足早に歩いていってしまう。わけがわからずぽかんとして見送りかけ――だがそこで重要なことを悟った。ブランコから跳ねあがって駆け出そうとし、振り返った。立て看を前に数秒迷って、結局それを脇に抱えて駆け出した。


「済みません。その、お聞きしたいことがあるんですが」


 追いつき、後ろから声をかけても老人は返事をしてくれなかった。声が耳に届いていないはずはない。それなのに振り返りもせず、完全に無視を決めこんでいる。正直、わけがわからなかった。もともとそんなに話す間柄ではなかったが、ペーターとのことがあってからは結構気さくに話してくれていたのだ。


 五回目の質問に答えがなかったところで諦め、黙ってあとをついてゆくことにした。聞きたかったのは小屋の場所だが、冷静に考えればそれはありえない質問だった。そんなことを聞けば頭がおかしくなったと思われるのがおちだ。それに、老人の店は俺の小屋に近い。このままあとをついてゆけば小屋に戻れる可能性はある。混乱のなか気にも留めなかったが、さっきの探索で自分の小屋と同じく、老人の店も目にすることがなかったのだ。


「……あった」


 果たして、俺は小屋に着くことができた。公園を出てから数分しか経っていない。まるで奇跡のようだと思った。無視されたことも忘れて老人に感謝を覚え、礼を言おうと振り返ったが、老人はもう自分の店に入るところだった。最後までこちらのことは意に介していないようだ。釈然としないものを感じながら、俺はとりあえず小屋の扉を開けた――


◇ ◇ ◇


「――済みません、いますか?」


 小屋に立て看を納めた俺は当初の予定通り大学に向かいかけ、けれども気が変わってその足を模型屋に向けた。不可解な態度が気になったというのもあるが、今日の公演のチケットを渡してあったことを思い出したからだ。その感想が聞きたい。……と言うより、それがどんな舞台だったのか知りたい。その舞台に立った役者として、さすがにそれだけは知っておきたかった。


「――お願いです。お聞きしたいことがあるんです」


 何度声をかけても老人は出てこない。さっき店に入ってゆくのを見たのだから奥にいるのは間違いない。なのに、これだけ声をかけても出てこないのはどういうわけだろう。公園からの帰り道に見せていた態度と何か関係があるのだろうか。


「――どうして出てきてくれないんですか? 俺、何か失礼なことしましたか?」


 繰り返し呼びかけても梨のつぶてに、いい加減焦れてきた。それでも声を荒げたりはせず、言葉を選んで声をかけ続けた。だが結局、老人の返事は返ってこなかった。俺は大きく溜息をつき、仕方なく店を出ようときびすを返しかけた。


「……失望したよ。おまえさんたちには」


 そこで初めて、老人の声が返ってきた。立ち止まって後ろに向き直った。老人の姿は見えない。「何を」と言いかけ――だが言葉にはできなかった。直感的に悪い答えが返ってくることを感じたからだ。それでも、俺が呑みこんだ質問に返事は来た。


「当日に舞台を流すなんてことは許されるものではない。たとえどんな事情があったにしてもだ」


「……」


「儂に言えるのはそれだけだ。わかったらとっとと出ていってくれ。仕事の邪魔だ」


 店の奥で響いたぶっきらぼうな言葉に、目の前が真っ暗になった。老人はいま何と言ったのだろう? 舞台が流れた……そう言ったのか? 今日の舞台――たったいま終わったばかりの舞台が流れた。それはいったいどういう――


『ああ、終わったよ』


「……」


 不意に、ホールの前で係の人と話したときのことを思い出した。ヒステリカの舞台はもう終わったかという俺の質問に、彼は侮蔑の表情を浮かべてそう返してきた。……そのときはわからなかった表情の意味が、やっとわかった。彼が俺に嘘を言ったことも。終わってなどいない……ヒステリカの舞台は終わったのではない。それはのだ。


「……」


 何も言えずその場に立ち尽くした。老人に声をかけることも、潔くその場を立ち去ることもできなかった。古い店の中にたゆたう埃っぽい薄闇をただじっと見つめ、自分の息の音を聞きながら絶望が過ぎ去るのを待った。


 ――どれだけ経っても絶望は消えなかった。それでもしばらくそうしているうち、身体を動かせるくらいには小さくなった。ふと、自分が立っているそこが店の入口であることに気づいた。誰もいない店内を見まわして、老人の言う通り仕事の邪魔になっていると思った。


「……済みません。お邪魔しました」


 それだけ言って店を出ようとし――けれどもそうすることができなかった。これ以上なにを言っても言い訳になる、それはわかっていた。それがわかっていても、俺は老人に話を聞いてもらいたかった。俺たちの舞台を楽しみに観に来てくれた人に、半端な事情で舞台を流したのではないということを……。


「……舞台は流れてたんですね。俺、それさえも知らなかったんです。おかしなことがあって、遠いところへ行ってたもので。それを教えてもらえただけ嬉しかったです。あ、ありがとうございました……」


 最後は少しだけ声が震えた。言ってしまってから、こんなことを言って何になるのだろうと思った。……言い訳にすらならない、こんなわけのわからない言い方では。とにかくここを出よう。そう思って振り返ろうとする俺の前に黒い影が立った。……店主の老人だった。声をかけるより早く老人は俺の脇を抜け、店の外に出た。


「……あの」


 店の外に出た老人は何も言わずポケットからパイプを取り出して口にくわえ、マッチで火を点けた。白い煙が立ちのぼり、嗅ぎ慣れない甘ったるこい臭いが漂ってくる。そのまま壁に背もたれてパイプの煙をくゆらせ始め……だがやはり何も言わなかった。俺は店の入口をあけて老人の隣に移った。


 それきり店主は俺などいないかのようにパイプ煙草を吸い続けた。その隣で俺はしばらく同じように無言で立っていた。老人は何も聞いてこなかった。けれども、話したければ話せと言っているように思えた。俺は聞いてほしかった。……だから、その話を始めるまでにそう時間はかからなかった。


「最初の事件が起こったのはあいつと一緒にこの店へ銃を買いにきたときです。あのあと知り合いが歩いてるのを見つけて……そいつは裏方なのにその日の会議をサボったんです。だから追いかけたんですけど、どれだけ追いかけても追いつけなくて――」


 パイプの煙をくゆらせる老人の隣で、俺はあの一週間に起きたすべての事件を話した。そんな話をしても何にもならないということはわかっていたが、話さずにはいられなかった。その話をしながら、そういえば今日はでも似たようなことをしたと思い出した。ウルスラに聞いてもらい老人に聞いてもらい……俺の中にはいったいどれだけ聞いてほしい話が溜まっていたのだろう。


 ウルスラのときの反省を踏まえて、つとめて冷静にわかりやすく話した。感情が入らない分、ペーターの話より客観的に話せたが、元々がおかしな出来事だけに怪しい説明になってゆくのが自分でもわかった。そんな話を、老人は何も言わず聞いていた。途中でふと、あるいは聞いていないのかも知れないと思い……だがそれでもいいと思った。ただつき合って立ってくれているだけでいい。そう思い、話し続けた。


「……そういうことは起こるもんさ」


 すべてを話し終えて沈黙した俺に、老人はぼそりとそんな言葉をかけてきた。


「え?」


「そういうおかしなことは起こるもんさ。劇にのめりこみすぎると周りまでそうなる。不思議でも何でもない、そういうもんだ」


「……」


 老人の声にもう刺々しいところはなかった。懐かしい話をするように淡々と老人は言葉を続けた。


「頭の中をそれっぱかりにしていれば、見るもの聞くもの自然とそうなってくるもんだ。もっとも、そうならんように気をつけるのが本物だと儂は思うがな」


「……演劇を、やってらしたんですか?」


「ああ、遠い昔にな。四ツ角の――おまえさんの爺さんと知り合ったのもその関係だ」


 そう言って老人はこちらに目を向けた。初めて聞く老人たちの昔話に俺はどう応えていいかわからず、黙ってうつむいた。死んだ爺さんの顔を思い出そうとして……もう思い出すことができなかった。「だから楽しみにしていたんだがな」と老人は言った。


「あいつの代わりにどれ、立派になった姿を観てやるかと。そう思って楽しみにしていたんだが」


「……」


「そういう事情なら仕方ない、などとは言わんよ。それもおまえさんらの未熟が招いた結果だからな。ただ儂は残念だった。楽しみにしていた芝居が観られなくてな」


「……申し訳ありませんでした」


「うん」


「……本当に、本当に申し訳ありませんでした」


 老人に向き直って頭を下げ、腹の底から声を絞り出した。老人が俺たちの舞台を本当に楽しみにしていてくれたのだとわかって、期待を裏切ってしまった悔しさに涙がこぼれそうになった。だがこの涙だけはこぼしてはならないと思った。必死に涙を堪えて頭をあげた俺を、パイプをくわえたままの優しい顔で老人は迎えた。


「次はいつだい?」


「え?」


「おまえさんたちの次の舞台はいつなんだい?」


 そう言って老人はかすかに微笑んだ。けれどもその微笑みに、俺は同じ表情を返すことはできなかった。


「わかりません」


 ……そう言うしかなかった。これからヒステリカがどうなるか、今はまったくわからない。次の舞台があるかどうかさえ……。断腸の思いで告げた俺の言葉に老人はただ一言「そうか」と返した。


「済みません。俺、そろそろ行かないと」


 夕暮れの空を見あげて言った。話しているうちにまた時間が過ぎてしまった。そろそろ大学に向かわなければならない。……それでも、ここで老人に話を聞いてもらえて良かったと思った。


「そういえば、あいつ来ませんでした?」


「ん?」


「月曜日に一緒に銃を買いにきた子です」


「あの嬢ちゃんか。来とらんな」


「もしあいつがここへ来るようなことがあったら、俺が会いたがっていたと伝えていただけませんか?」


 俺の言葉に老人は驚いたような顔で何かを言いかけ、だが結局一言だけ「わかった」と言った。もう一度深く頭を下げ、俺は店を離れた。


 遠くで豆腐屋の笛の音があがるのが聞こえた。夕暮れの町には早くも夜の気配が漂いはじめていた。

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