055 ここだけ時が止まったように静か(9)
夜のバスから眺める夜景は妙によそよそしかった。
大学を一通りまわってもペーターは見つからなかった。いつもの場所と文学部の校舎、あとは共通教育棟も当たってみたがそれらしい影はなかった。構内には人が少なく、どの建物も八時には施錠されてしまった。……それを見て、今日が日曜日だったことを今さらのように思い出した。
大学を出た俺は、ペーターの家へ向かうためバスに乗った。あとはもうそこしかない。小屋に戻って待つことも考えたが、そんなことをしても意味がないと悟った。あの夜、あんなことがあった場所にペーターが姿を見せるはずはない。……と言うより、俺の理解が正しければあいつは今後、徹底的に俺を避けるはずだ。
そうなるともう家に直接押しかけるしかない。せめてもの救いはあの家の人と面識があることだ。運転手のオハラさんに、あとは家政婦の……確かエツミさんだっただろうか。どちらの人とも話したことがあるから、いきなり面会を求めても怪しくは思われないはずだ。……とにかく、まずはペーターと話すことだ。舞台に立たせる方法を考える前に、あいつが今どんな気持ちでいるか、それがわからないことには話にならない。
「……けど、どの舞台に立たせりゃいいんだ?」
窓の外を流れてゆく夜景を眺めながら、その深刻な矛盾に気づいた。 俺たちがずっと目指してきた今日の舞台は流れた。模型屋の店主の話からしてそのことは間違いない。しかし……なら俺はいったいどの舞台にペーターを立たせればいいのだろう?
「……それに、あれは何だったんだよ」
矛盾はもう一つある。俺がいた砂漠の廃城、あれはいったい何だったのだろう? あそこを俺は劇の中の世界だと信じていた。そしてウルスラの話では劇はちゃんと行われていたようだ……俺たちの与り知らないところで。だが今日の舞台が流れたという話が本当なら、あれはいったい何だったのか?
……わからないことだらけだった。これからペーターの家に向かい、自分が何をしようとしているのかさえはっきりしない。舞台に立たせようにも、その舞台はもう流れてしまったのだ。……それでも、俺は演じ始めたこの役を演じ続けるしかない。わからないことだらけのこの夜にあってそれだけが唯一、俺が縋りつくことのできる細い蜘蛛の糸なのだ。
「……あれ、開いてる」
ペーターの家の前に着いたところで、思わずそう呟いた。門の鉄扉が開いていたのだ。この家を訪ねるのはもう何度目かわからないが、門の扉が開いているのを見るのは初めてだった。夜でも昼間でも関係なく、この扉はいつも固く閉ざされていた。……それに何だろう、遠目にはっきりとはわからないが、屋敷の玄関の扉も開いているように見える。
「……チャイムの音聞こえるし」
その観察を裏付けるように、インターホンのボタンを押すと屋敷の方からかすかにチャイムの音が聞こえた。このボタンを押してチャイムの音が聞こえたのもこれが初めてだ。けれども、そのチャイムに反応はない。インターホンから声は聞こえず、玄関から出てくる人の影もない。
「……」
何回かボタンを押してみたが、やはり反応はなかった。もう一度、なだらかな坂の上の屋敷を見あげて――奇妙なことに気づいた。明かりがついていないのだ。この門の鉄扉が開放されている。玄関の扉も開いているように見える。それなのに屋敷は完全な闇の中にある。……これはどう考えてもおかしい。
「入って……みるか?」
不意に、そんな考えが頭に浮かんだ。考えてすぐ、背筋がすっと冷たくなるのを感じた。……危険な考えだと思った。恐ろしく危険な考えだ。不法侵入で訴えられるのならまだいいが、資産家の屋敷だけにどんなセキュリティシステムが待ち受けているかわからない。いや……実のところその辺もまだいい。俺が本当に恐れているのは――
「入って来い……ってことだよな」
都合のいい見方ではある。だが状況を見るに誰かが『入って来い』と言っているように思えてならない。そう言っているのはペーターかも知れない。……いや、そう考えて間違いないだろう。そういうことなら俺はどうあれその誘いに乗らなければならない。しかし、それにしても……。
「道に迷ってたどり着いた洋館か」
……本能的に危険を感じるのはそこだった。森や雪山で迷ったわけではないが、俺は確かに道に迷っている。迷った挙げ句にたどり着いたのがここで、しかもお約束通り門戸は開け放たれている。……罠の臭いがぷんぷんする。中に入っていきなりゾンビが襲ってこないとも限らない。
「……」
ウルスラにもらった拳銃がジーンズのポケットに入っているのを確認した。……ゾンビに襲われても無抵抗で喰われることはない。ただ逆にこれで人間を撃ってしまっては洒落にならない。そう……ここは劇の中ではない。おかしな事件こそ起こってはいるが、あくまで平和な現実の町なのだ。
「……入ってみるか」
そうして結局、俺は屋敷の中に入る決心をした。と言うより、最初からそうするより他に選択肢はなかった。プロットが見える以上、危険を冒してもそちらに進むしかない。それが役者の
――やはり玄関の扉は開いていた。中は完全に真っ暗で、人がいる気配はない。一応、中に向かって「ごめんください」と呼びかけてみる。……返事はない。声は濃い闇の中に吸いこまれ、何の反応も返ってこない。
「大学のサークルの者ですが、――さんに用があって来ました。――さんはご在宅ですか?」
久し振りにペーターの本名を口に出し、激しい違和感と気恥ずかしさを覚えた。だがさすがにここで『ペーターさん』と呼びかけることはできない。複雑な思いに耐えながら何度もその名前を呼んだ。けれどもやはり返事は返ってこない。
「玄関の扉が開いてますよ? 入ってもいいんですか? いいってことですね?」
我ながら無茶なことを言っていると思いつつ、玄関の中に入った。相変わらずばかに広い玄関だった。真っ暗な闇の中に二階の踊り場が浮び、その踊り場にのぼるための階段が左右から延びている。一応、靴を脱いであがろうとして――そういえばこの家は靴を履いたままでいいのだと思い出した。
「……と言うか、いいのか? 俺、こんなことして」
ふと素に返り、すぐに引き返すべきだと思った。純粋に道義的な理由によって、だ。たとえどんなわけがあるにしても、他人の家に無断で侵入することは許されない。どこかの国なら撃ち殺されても文句は言えないのだ。戸が開いていたから入った、というのは身勝手を通り越してほとんど狂人の論理に近い。そう、やはりここは引き返すべきだ。
「……」
……だがここで引き返せばプロットは流れる。そのこともよくわかった。この機会を逃してしまえば、もう二度とこの家の門は開かれないだろう。……どうにでもなればいい。そう思って闇の中に踏み入った。まず向かうべきはペーターの部屋だ。この間来たばかりだから、あいつの部屋がどこにあるかは覚えている。
――そう思って探し始めてはみたものの、ペーターの部屋はなかなか見つからなかった。つい数日前に来たといっても一回きりの話で、しかも真っ暗な邸宅に淡い月明かりを頼りに探すのではそう簡単に見つかるはずもない。いっそ照明を点けてやろうとスイッチを探したが、どこにも見あたらない。部屋の明かりで廊下を照らすことも考えてみたが、どの部屋も鍵がかかっていて中に入ることができない。
それでも、闇の中を長い時間さまよっているうちに目が慣れてきたことで、例の電話台を見つけた。ペーターに介抱された翌朝、キリコさんの携帯に電話をかけた黒電話だ。それを見つけたあとは早かった。記憶の糸をたぐり寄せて、俺はついにその部屋にたどり着いた。
「……」
――扉は開いていた。他の部屋のほとんどに鍵がかかっている中で、ペーターの部屋だけは開け放たれていた。それを見て俺は足を止め、呼吸を整えた。やはりこれはメッセージだ……そう考えるしかない。この先に何が待ち受けているとしても、俺は覚悟を決めて入らなければならない。
開いている扉に軽くノックをして踏み入った。部屋に入ってすぐ、俺は足を止めた。……正確には足が止まった。ペーターは寝台の上にいた。天蓋から垂らされたカーテンの向こう側に、薄い夜具をまとってこちらを見ていた。
「……」
闇の中に表情は見えなかった。だが彼女がこちらを見ていることだけはわかった。見えない眼差しが真っ直ぐこちらに向いている。その眼差しに捕らえられ、金縛りにあったように俺は立ち竦んだ。
「……」
恐怖ではなかった。近づくのを恐れたわけでも、今さら怖じ気づいたわけでもなかった。ただあの嵐の夜に庭園で別れてから初めて――こちらの世界では初めて再会したペーターに、堪らない申し訳なさを感じた。
責めてはいないようだ。寝台の上の彼女はもう俺のことを責めていない。けれど――だからこそ俺はペーターに謝ることさえできない。……そこまで考えて、悟った。これがペーターの見せたかったものなのだとわかった。彼女はもう俺のことを許さない。謝る機会さえ与えてはくれない。近づくことも許さない。言葉を交わすことも、声をかけることさえも。
「……」
寝台の上のペーターは、もう俺の知っている彼女ではなかった。俺には手の届かない別の世界の住人――そうなってしまったことがはっきりとわかった。そう思った途端、自分がどれだけ薄汚く、みすぼらしく、粗野な存在であるかということに気づいた。彼女を徹底的に振り回し、無下にあしらい続けた男。純粋な彼女の心を傷つけ、取り返しがつかないまでに壊し尽くした男……。
「……」
何も言えなかった。舞台のことなど口にできるはずもなかった。ただこの場から逃げ出さないでいるのがやっとだった。ここで逃げ出したら二度とペーターは俺の前に姿を見せない。だが俺にはこれ以上、もうどうすることもできない。
「……!」
そのとき、カーテンの向こう側にペーターの唇が動いたように見えた。何も考えられないまま、俺は彼女に近づこうとした。……と、背後で扉の軋む音がした。反射的に振り返り――
「ギッ……!」
返りきるまえにその銃声と、胸の真ん中に熱く重苦しい痛みを覚えた――
消え入ろうとする意識の中で、扉の向こうにエツミさんと呼ばれていた
◇ ◇ ◇
――我に返ったとき、目の前にはペーターの顔があった。砂にまみれた寝台に跪き、ごく間近に彼女を見下ろしていた。時間遅れの反射のように心臓が早鐘を打ち出し、慌てて頭を跳ねあげた。
「……」
そこは廃墟だった。砂漠に建つあの打ち捨てられた城だった。壁の破れ目からもれこむ月明かりが、煉瓦造りの部屋を淡く照らしていた。――その月明かりの中に小さな羽がゆっくり、ゆっくりと舞い降りていた。その舞い降りてゆく羽を、俺はいつまでもただぼんやりと眺めていた。
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