053 ここだけ時が止まったように静か(7)
ウルスラにもらった物資はひとまず二階の小部屋に隠した。天井が崩れて上まで吹き抜けになっている部屋で、床には瓦礫の山がうずたかく積もっている。その瓦礫の中に毛布やらカロメの箱やらを埋めた。明日来るという訪問者を欺くためには、そうした方がいいと思ったからだ。それに『王の間』に広げておいて万一そいつらに持っていかれたら、見通しが立った今後の生活も御破算になる。
生理用品と薬、それに替えの下着だけを持って『王の間』に戻った。壁の破れ目から
衰えゆく斜陽の中に食事をとった。渇ききって痛みさえ覚える喉に、待望の水はまるで別の飲み物のように甘い味がした。残っていたカロメもどきもすべて食べ尽くした。そうして一日つきまとって離れなかった飢えと渇きを癒したあと、壁際に腰をおろしてペーターが眠りから覚めるのを待った。
――夜の帳がおりてもペーターは起きなかった。藍色の闇に充たされる部屋に、俺はただぼんやりと眠り続ける彼女を眺めていた。そのうちに天井の破れ目から月明かりが射し、その下にペーターは寝返りをうった。……目を覚ましかけているのかも知れない。そう思って俺は寝台に近づき、声をかけ身体を揺すってみた。けれども彼女は起きなかった。俺は小さく溜息をつき、そのまま寝台のへりに腰かけた。
「……そうだ、手当」
部屋の隅に転がっているナプキンの袋を目にして、そのことを思い出した。あれでちゃんと手当をしなければいけない。せっかくウルスラが持ってきてくれたのだ。そう思ってペーターに向き直り、もう一度声をかけて身体を揺さぶった。それでも起きないことを確認したあと、俺は寝台を立ち、彼女の身体を覆う布きれを取った。
月明かりの中に真っ白な肢体があらわになった。できるだけそれを見ないようにしながら、昨夜と同じように下着を脱がしにかかった。二度目ということもあってか最初のときのような抵抗はなく、昨日あれほど苦痛だった経血の臭いもあまり気にならなかった。
下着を脚から抜き取ったあと、ペットボトルの水でその部分を洗った。洗い終えたあと、ウルスラの言った通り少し赤くかぶれているように見えたので、その部分に軟膏を塗りこんだ。それからナプキンを当て、新しい下着をはかせた。一番苦労したのはそのナプキンだった。封を切ってはみたものの使い方がわからず、淡い月明かりの下、パック裏の注意書きに必死で目を凝らさなければならなかった。
使用済の代替品は窓の外に捨てた。血が染みた古いショーツも同じく投げ捨てようとしたが、やはり思い直し、中庭へ降りて泉の水で洗った。月の照らす砂漠のオアシスに経血の染みたショーツを揉み洗いするというおかしな組み合わせに、思わず自嘲の笑いがこぼれた。ただ何となく、それが本当のところなのだと思った。どれほど幻想的で非現実的な舞台を想定したところで、俺たちは結局その中で生活しなければならない。そしてその生活というのは、人の気も知らずに眠り続ける同居人の下着を洗うとか、そうしたことの積み重ねでしかないのだ。
洗濯から戻ってきても、ペーターはまだ眠っていた。これだけ昏々と眠り続けるのは今の身体の状態と関係あるのだろうか。……おそらくそうなのだろう。人によってはそういう症状があるというのをどこかで聞いたことがある気がする。こいつとは数年来つき合ってきて初めての事態だが、そのあたりは誰にも知られないようにずっと隠していたのかも知れない。
頭の側にまわって寝顔を覗きこんだ。うすく開いた唇から温かい寝息がもれている。あどけないその寝顔をしばらくぼんやりと眺めた。考えてみれば毎日顔を合わせていながら、ここへ来るまでこいつの寝顔を見たことはなかった。
そうして俺は、ウルスラが残していったもう一つの置き土産と向かい合うことになった。この舞台で俺が演じるべき新しい役と、その役の目指す先。こいつをこの舞台にちゃんと立たせるために、あちらのあいつを舞台に立たせる必要があること。あちらの世界に戻るための方法。ある条件のもとで可能となる、俺ならばできるという簡単な方法――
「……いい加減にしてくれよ、エロ隊長」
そんな悪態をつかずにはいられなかった。開演早々に生理の手当をさせたのに飽きたらず、今度は寝込みを襲って唇を奪えとのたまう。実際にそう言ったのはウルスラだがその裏で隊長が糸を引いているのは火を見るより明らかだ。すべてを把握しているのはあの人だけだとウルスラも言っていた。……何よりこの舞台の脚本兼舞台監督が彼である以上、この構図はすべて隊長が描いたものに違いないのだ。
「だいたい……そうだ。自分たちばかり面白そうな役」
そのことを思ってむらむらと憤りがこみあげてきた。人にはこんな役を振っておいて、舞台監督であるはずの隊長がちゃっかり舞台に立っているのだ。しかも美人三姉妹を引き連れて軍関係の敵と頭脳戦を繰り広げるなどという、聞くからに面白そうな役で! にわかに燃えあがった嫉妬と焦燥で頭がおかしくなりそうだった。俺だって演技をするために、ただそれだけのためにこの世界へ来たのだ。それなのに――
「いっそ捕まってやろうか、そいつらに」
思いついたまま口に出してみて、悪くないアイデアだと思った。このまま隊長の思惑通りに動くのはどう考えても癪だ。ならば明日来るという軍隊の人間にわざと捕まってやればいい。そうすればとりあえず隊長の描いた構図に風穴を開けることができるし、俺も否応なくその面白そうな戦いの渦中に巻きこまれる。
軍隊に捕縛された俺たちは厳しい尋問を受けるだろう。いや、戦時だから尋問などという生やさしいものではなく拷問だ。爪を剥がされ、全身を切り刻まれるかも知れない。こいつに至ってはもっと酷い。曲がりなりにも……いや、見てくれだけならそこそこ上等の部類に入る女なのだ。戦地で女が受ける扱いは何千年も前から決まっている。この舞台が夢いっぱいのファンタジーでなければ、そうした展開は避けられないだろう。
「……駄目か、結局」
結局、駄目だった。俺だけならまだしも、こいつまでそんなハードボイルドな物語の中に叩きこむことはできない。捕まった俺たちに拷問や陵辱が待っているかどうかは未知数だが、可能性はある。その可能性がある限り、軍隊の連中におめおめと捕まることはできない。
それに、ウルスラのこともある。隊長に背いてまで俺たちのために色々としてくれた彼女のことを思えば、約束は果たさなければならない。黒い見方をすれば彼女がそうしてくれたこと自体、隊長の命令による演技と考えることもできる。だが俺も一応役者の端くれであり、ことこうした展開での嘘なら見抜く自信がある。ウルスラの態度に嘘はなかった。彼女は本当に俺たちのためを思って今日ここに来てくれたのだ。
「……となると、結局そういうことか」
大人しくウルスラの言った役を演じるしかない。こいつをちゃんとこの舞台に立たせるという新しい役。はっきり言って難しい役だが、それだけに
「仕方ない、やるか」
頭を掻きむしりながら、その役に入る覚悟を決めた。同時に、そのために俺がまずしなければならないこと――いったん向こうの世界に戻ることを決意し、振り返って後ろを見た。相変わらず無垢な寝顔で規則正しい寝息を立てる少女の姿があった。その寝顔を見つめ、元の世界に帰るために自分がしなければならないことを思って、何とも言えない複雑な思いが胸に湧きおこるのを覚えた。
「……つか、洒落になってないな、これ」
文字通り、複雑な思いだった。愛しさと申し訳なさ、切なさと悔しさ、羞恥と憤り、そして純粋にその唇に触れたいという衝動がそれぞれ限界まで膨れあがり、出来の悪いモザイクのように心を埋め尽くした。生理の手当よりよほど厄介だと思った。だいたい俺が彼女にキスしたのは、あの夜が最初で最後なのだ。
「……」
その最初で最後の夜のことを思い出した。すべてが始まり、終わった夜。ほんの数日前の出来事を、まるで遠い昔の思い出のように感じた。あの夜、俺はたしかにペーターを愛しいと思った。何の疑いもなく心の底から、ただひたすらに彼女が愛しかった。
……今は違う。あのときのような混じりけのない気持ちは、もうない。流れでウルスラにはああ答えたが、今の自分がペーターに対して抱いている気持ちがそういう名前で呼ばれるものなのか、本当はよくわからない。贖罪の意識か……あるいは身勝手な同情なのかも知れない。それならどのみち帰れない。こいつを愛していることが、元の世界に戻るための条件なのだ。
「……試してみるのもいいな」
愛の存在を証明するために眠り姫にキスする。そう思って吹き出した。今さらのように、この舞台が
「ごめんな」
耳元でそっと囁いたあと、寝台の上に跪いた。しばらくの間、寝顔を見下ろして、それからゆっくりと顔を近づけていった。……と、その前髪に白い小さな鳥の羽がついているのに気づいた。どこから舞いこんできたものだろう。そう思って指にとり、払った。羽は薄闇の中に、月明かりを受けてゆっくりと舞い降りていった。その羽を見つめながら俺はゆっくり、ゆっくりと、息を止めた唇を彼女に近づけていった――
◇ ◇ ◇
「――あ」
陽射しの中に立っていた。容赦なく大地を灼く荒みきった陽射しではない。瑞々しく緑を輝かせる懐かしい陽射しだった。蝉たちが鳴いている。足下からは濃い土の匂い――昨日の雨がまだ乾かずに残る土の湿り気を帯びた匂いが立ちのぼってくる。
「……」
一瞬の出来事だった。ちょうどテレビのチャンネルを替えたときのように、気がつけば俺はここに立っていた。指を唇にあてる……柔らかいものに触れた感覚がほんのかすかに残っていた。――そう、俺は確かにあの砂漠の城にいた。寝台の上に跪き、眠り続ける少女を見ていた。それが今、ここに立っている。力強い初夏の陽射しの中に、
「本当に……戻ってきたのか?」
思わず独り言ち、周囲を見まわした。……ホールの前だった。そこは日曜日に俺たちが公演を行うはずだったホールの前で、時間は正午か――あるいは昼下がりといったあたり。……間違いない、戻ってきたのだ。そのことを確認して、俺はもう一度ホールを見た。
「立て看が出てるよ……」
ホールの正門の前には立て看が出ていた。見覚えのあるその看板に、わけがわからないまま俺は短い階段をのぼり、正門の前に立った。……それは確かに俺たちの看板だった。即興劇団ヒステリカの名を記した――ここで日曜日に行うはずだった舞台の内容を告げる看板。門は閉まっていた。一応、手で引いてみたが鍵がかかっているようで、中に入ることはできなかった。
「――何だ、まだいたのかい」
不意に声がかかり、振り向いた。係の人だった。鍵の受け渡しと簡単な事務を行うアルバイトの人だ。どう応えていいかわからずに黙っていると、係の人は迷惑そうに眉をひそめ、「持って帰っとくれよ」と言った。
「え?」
「そいつのことだよ。早く持って帰っとくれ、終わったんなら」
そう言って係の人は立て看を指差した。それでようやく彼が何を言っているかわかった。……けれども、わからなかった。もう一つ、彼の言っていることで確認しておかなければならないことがあった。
「あの……ええと。ヒステリカの公演は、もう終わったんですか?」
その質問に、係の人は露骨に訝しそうな顔をした。その意味に気づき、慌てて訂正しようとしたところで……なぜだろう、表情を嘲るようなものに変えた彼は、「ああ、終わったよ」と吐き捨てるように言った。
話はそれで終わりだった。それきり一言もなく係の人は建物の裏へ消え、俺は一人、立て看とともに取り残された。日が陰り、蝉の声がわずかに小さくなった。気の抜けたスクーターの音が近づき、姿を見せないままに遠ざかっていった。
――成り行き上、ひとまず立て看を持ち帰らなければならなかった。公演が終わったあとに装置を収容する手はずになっていた倉庫……つまりは俺の小屋にそれを運びこむことにした。予定では裏方の人がトラックを出してくれることになっていたが、どこにもその姿はなかった。俺は仕方なく立て看を脇に抱え、炎天の町を歩いて小屋へ向かった。
「――やっぱりそういうことか」
帰り道、電器屋のショーウィンドウで確認すると日付はあの日曜日だった。俺たちが公演を行うはずだった日曜日の午後四時。遅くとも二時半が終演の目安だったから、ホールで係の人と会ったのがちょうど撤収の予定時間と重なる。やはりあの時点で公演は終わっていたのだ。ここは――あの日曜日の舞台が終わったあとの世界なのだ。
「暑いな……さすがに」
歩きはじめてすぐ汗まみれになった。看板は重く、腕をめいっぱい伸ばして抱えているせいで余計に疲れた。だが、その疲れはあの城の中庭に穴を掘ったときのような救いのないものではなかった。茹だるような暑さも、干涸らびて灼けつくようなあの暑さではなかった。
――夏だった。それは俺たちが迎えようとしていた正しい夏だった。濛々と響き渡る蝉の声。どこか不安を感じさせるほどの空の青。打ち水をしたばかりの小路と、家々から漏れ聞こえるつまらない午後のラジオ。
「……」
……けれども、何かが欠け落ちていた。その夏には、本来そなわっているべき何かがなかった。それはあの一週間に何度も感じた、漠然とした乖離の感覚だった。精緻に描かれた絵画のように遠い景色。非現実の世界に迷いこんでしまったような、曖昧でとらえどころのないぼんやりした不安。それをはっきりした言葉にできないまま、斜陽の町を歩き続けた。
――それが具体的なかたちで俺の目の前に現れたのは、午後も夕暮れに向かいはじめる頃だった。
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