052 ここだけ時が止まったように静か(6)

 そう言ってウルスラはまた視線を俺に戻した。同情でも興味本位でもない、どこまでも真摯な目がじっと俺を見つめた。


 それで俺には、彼女がある程度まで事のいきさつを知っているのだとわかった。……どうやって知り得たのかはわからない。ただウルスラはそれを知っている。それがわかっても、なぜか嫌な気分にはならなかった。そうして気がついたとき、俺は素直な気持ちで返事を返していた。


「……どうなんだろ。よくわからない。愛してるのかな? 俺はあいつのこと」


「あたしに聞かれてもわかりません」


「そうか……うん、そうだよな」


 ウルスラから視線を外し、中庭に向き直った。太陽はまだ地平よりだいぶ上にあったが、大地を焦がしていた陽光はもう見る影もなかった。そんな情景を眺めているうちに、すべてを洗いざらいウルスラに喋ってしまいたい衝動が胸にわきおこるのを覚えた。


 どうして急にそんな衝動を覚えたのかわからない。だがそれは決して弱くない衝動だった。『関係のない人間に何を』と一度はその衝動を抑えつけた。だがどこからか聞こえた『関係のない人間だからこそ』という声に堰が切れ、誰にも話すことはないと思っていたその話をウルスラに語り始めた。


「俺にもわからない。色んなことがありすぎてわからなくなった。いや、そもそも最初からわからなかった。その最初ってのは――」


 ――いったん話し始めたあとは、もう止まらなかった。俺とペーターの間にあったこと――高校二年の春に出会ってから今日ここまでにあったすべてのことを、文字通り洗いざらいウルスラに語って聞かせた。話は途中から支離滅裂になり、自分でも何を喋っているかわからなくなったが、それでもウルスラは黙って最後まで聞いてくれた。


 あの嵐の夜にたどり着いたとき、話しながら少しだけ涙がこぼれた。あのときのことで泣けたのはこれが初めてだった。涙を流してみて初めて、その話をこうして誰かに聞いてもらうことを、自分が心の奥で強く願っていたのだということを理解した。聞いてくれたウルスラに感謝し、それが理由でまた涙が出た。不思議と恥ずかしさはなかった。すべてを話し終えたあと、何も聞かないでいてくれるウルスラの隣で、俺はしばらく声もなく涙を流し続けた。


「……愛してるってことなんだろ、まあ」


 しゃくりあげる声が治まったあと、最初の質問を思い出してそう答えた。……結局そういうことになるのだろうと思った。事情が複雑になり過ぎてどうなっているのかわからない。あいつの感情などわかるはずもないし、自分のそれさえはっきり言ってわからない。だが結局、そういうことになるのだろうと思う。だいたい初対面に近い人の前でこんな無様な姿を晒しているのだから、そんなのはもう言葉にするまでもない。


「よくわからないけど、たぶんそういうことなんだと思う」


「貴方のせいではありません」


「え?」


「さっきのお話ですが、ハイジさんのせいではありません。そういうめぐり合わせだったのです。ご自分を責めることはありません」


 ウルスラが言っているのが土曜日の夜の事件であることがわかった。その慰めに俺は何も答えを返せなかった。彼女の言っている通りだと思ったからだ。ペーターがずっと俺に隠し続けてきたもの――長く俺たちを結びつけ、同時に隔ててきた歪んだ絆を思えば、あの夜のことは必然だった。


 ……だからといって自責の思いが消えることはない。どんな理由であれ、壊したのは俺だ。たとえそれが避けて通れないものだったとしても、すべてが壊れてしまった夜のことを俺は悔やみ続けるだろう。粉々に砕けたグラスを元通りにすることはできない。誰のせいか、などどうでもいい。今はただ、それが壊れてしまったことが――壊してしまったことが悔しくてならない。


「一つの役割を提案します」


「え?」


「この舞台において、ハイジさんが果たすべき役割です」


 そう言ってウルスラは顔をこちらに向けた。地平線にかかろうとする西日が逆光になり、表情はよく見えない。大気はいつの間にかすっかり冷め、肌寒いほどになっている。俺たちが座るここも、もう木洩れ日の射す木陰ではない。


「それは?」


「この舞台に、ちゃんとあの方を立たせることです」


「あの方?」


 俺がそう言うとウルスラはまた城の頂を仰ぎ見た。西日に照らされる城は刻一刻とその赤みを増しつつある。それで俺には、ウルスラが誰のことを言っているのかわかった。


「――あいつを、か」


「そうです。この舞台において今、あの方はとても一つの役を演じているとは言えません。違いますか?」


「その通りだ」


「そこで提案です。ハイジさんがまだこの舞台に立ち、演じ続ける気持ちを捨てきれないのであれば。あの方をちゃんとこの舞台に立たせる。それが貴方の新しい役割ということでどうでしょう?」


「……難しい役だな」


 自然とそんな呟きがこぼれた。かなり難しい役だと思った。……いや、かなりどころではない、凄まじく難しい。あいつをこの舞台に立たせるということは、あの常軌を逸した振る舞いそのものをどうにかするということだ。だが果たしてそんなことが可能だろうか? 俺の心中を察したように「難しい役です」と、ウルスラが言葉を継いだ。


「どうすればいいんだろ」


「それを考えるのが貴方の役割です」


「そうか……そうだよな」


「ただ一つ、不確かながら方法を示唆することならできます」


「……それは?」


「あちら側の彼女を、ちゃんと舞台に立たせることです」


「あちら?」


「ええ、あちら側。ハイジさんがさっき口にされていた元の世界です」


「……」


 一瞬、言葉を失った。ウルスラが何を言っているか理解できなかった。こちら側のあいつを舞台に立たせるために、まずあちら側のあいつを舞台に立たせる。筋が通っているようで通っていない。なぜならこの舞台はもうとっくに始まっているのだ。それに、どうやってそんなことを……。そんな俺に構わず、ウルスラはなおもその突拍子もない話を続けた。


「もし可能性があるとすれば、その方法しかないでしょう」


「どうしてそんなこと……」


「詳しくはお話できません。と言うより、詳しいことはあたしにもわからないのです。すべてを把握しているのはお父さま――貴方が隊長と呼んでいらしたあの人だけです」


「……」


「ですから、この提案も確実なものではありません。あくまで不確かな方法です。……ですが、その方法しかないというのがあたしの――あたしと姉の結論です」


 そこでウルスラはいったん区切った。小さくうつむき、何かを躊躇うようにしばらく押し黙ったあと、おもむろに頭をあげて一息に言った。


「こちらにいるあの方と、あちらにいるあの方とは分かちがたく結びついています」


「……」


「あの方にとって、二つの世界の間に境はありません。こちらに顔を覗かせているのはあちらのあの方の一部であり、あちらでハイジさんが見ていたのはこちらのあの方の一部なのです。回りくどい表現になりますが、そういうことです。おわかりになりますでしょうか?」


「……わかる気がする」


 途方もない話に変わりはなかったが、ウルスラの言うそれは妙に理解できた。を行ったり来たりするのはあいつの持病であり、俺が意識し続けた役者としてのあいつの特性でもある。一昨日からのあれがそういう絡繰りによるものだと言われれば、なるほどと頷くことができなくもない。


「二つの世界にまたがって、何人もの彼女が無秩序に遍在しているようなものです。その遍在を解消して秩序を回復するためには、あの方を一つの役割におさめてあちら側の舞台に立たせることです。それが叶えば、こちら側の彼女も同じようにこの舞台に立つことでしょう」


「できるのか? そんなこと」


「それはハイジさん次第です」


「……そうだった。でも、その役を引き受けるには片づけておかないといけない問題がある」


「どんな問題でしょう?」


「まず基本的なところなんだが、どうやって元の世界に帰ればいいんだ?」


「その方法をこれからお教えします」


 そこでまたウルスラはしばらく沈黙した。金色の西日を受ける城の頂を見上げ、そこをじっと眺めていたが、やがてこちらに向き直り、言った。


「手段は幾つかありますが、ハイジさんならば最も簡単な方法であちらに戻れるはずです」


「その方法というのは?」


「口づけです」


「は?」


「要するにキスです」


「……キス?」


「そうです。キスするだけで」


「その……ウルスラに?」


「ち、違います! あたしにではありません、あの方にです」


 ウルスラは真っ赤になって城の頂を指差した。「ああ、あいつに」と呟きながら、俺の方では赤くなっている余裕もなかった。必死で頭を回転させても、彼女の言っていることがよく理解できない。俺は元の世界に戻るための方法について説明を受けていたはずだ。それなのに――


「何で……あいつにキスして向こうへ戻れるんだ?」


「お答えできません。ただそれが最も簡単で――ここでは唯一の方法であるということしか」


「……本当に、それで元の世界へ戻れるのか?」


「さきほどハイジさんが口にされた言葉が本当であれば」


「言葉?」


「あの方を愛しているという言葉です」


「……」


「その言葉に、嘘偽りがなければ」


 俺はそこで落ちた。完全に話についていけなくなった。あいつにキスすることで元の世界に戻れる……とにかくそういうことのようだ。そしてそれがここでは唯一の方法ということのようだ。ウルスラがそう言うなら信じて受け入れるしかない。いずれにしても俺は彼女の言う通りにするしかないのだ。


「他には」


「え?」


「問題というのは、他にも?」


「ああ、うん。ええと……そうだ。明日の午前中に誰か来るとか言ってただろ」


「軍隊の者ですか?」


「そう、それ。となると、そいつが来るまでに帰ってこないといけないと思うんだけど、向こうで何日か過ごした場合、やっぱこっちでも同じだけ時間が進むんだろうか?」


「いいえ、進みません」


「ということは、時間の進み方に違いがあるってこと?」


「違います。時間は進まないのです」


「……?」


「あちらで何日過ごそうとも、こちらでは一切時間は経過しないということです」


「……」


 そこでまたわからなくなった。時間が進まないというのはどういう意味だろう? いや……たぶん言葉通りの意味だ。向こうで何日過ごそうともこちらでは一切時間が経過しない。その言葉がすべてだ。つまり、明日来る訪問者のために早めに切りあげて戻ってくる必要はない。そういうことだ。とりあえず今はそれだけわかればいい。


「ただし、一日だけです」


「え?」


「時間にして一日以上はあちらに留まらないでください。それがタイムリミットです」


「ええと……向こうでの時間?」


「もちろんです」


「一日ってのは、一分超えても駄目とか、そういう厳密な時間?」


「目安です。だいたいそのくらいでこちらへ戻って来られますように」


「ちなみに……その時間を守らないと、どうなるんだろ?」


「お答えできません。ただ、あたしの心からの忠告と思ってお聞き届けください」


「……わかった」


「他に問題は?」


「うん……あと一つだけ。向こうへ戻れたとして、それからまたこっちに戻ってくるにはどうしたらいい?」


「最初にこちらへ来たときと同じ方法で結構です」


「最初に来たとき――」


 ――瞬間、その最初にこちらへ来たときの方法が脳裏に蘇った。そうだった……あの日曜日のホールで俺は拳銃を口にくわえ、そのトリガーを引いてこちらへ来たのだった。そのときの何とも言えない感覚を思ってげんなりした。だがそれしか方法がないというのならまたあれをやるしかない。


「……けど、まだ残ってるかな」


「何がですか?」


「いや、ウルスラにもらったあの銃がまだホールに残ってるかと思って」


「いえ、それならここに」


 そう言ってウルスラは袂に手を差し入れ、そこから黒い筒を取り出した。――ピースメイカーだった。あの金曜日の庭園でそうしたように、ウルスラが両手で恭しく差し出すその銃を、俺は受け取った。


「二度目だな」


「そうですね」


「また自分に向けて撃てばいいのか?」


「そうです。頭か心臓を」


「わかった」


「あと、その銃はこちらでも使えます」


「え?」


「こちらでも、その銃は弾なしで撃てます」


「……」


「そのためにお渡しするものでもあります。その銃で貴方自身と、あの方を守ってください」


「――誰かと」


「え?」


「誰かと戦っているんだな、ウルスラたちは」


 俺の質問に、ウルスラは穏やかな微笑みを浮かべた。あの日の庭園で見たのと同じ……だがどこか寂しそうな笑顔。「そうです」とその唇が告げるまで、俺はただぼんやりとその端整な顔を見つめていた。


「その戦いには、俺たちも関わっているんだな」


「そうです」


「明日の芝居がうまくいけば、俺たちはその戦いから降りられる」


「そうです」


「その戦いの中で俺は、ウルスラたちを味方と信じてもいいんだな?」


 その最後の質問にウルスラは笑みを消し、黙った。そのままじっと地面を見つめ、やがておもむろに頭をあげこちらを見て、言った。


「残念ながら違います。はハイジさんの味方とは言えません。お察しの通り、今日あたしはここに情報を受け取りに……そして貴方たちを利用して敵を欺くために来たのです」


「……」


「ですが、は貴方の味方です」


「……そうか」


「たとえあの人に背いても、あたしは貴方の――ハイジさんたち二人の味方です」


「信じるよ」


 俺がそう言うとウルスラはまた優しく微笑んだ。それから空を見上げ、またこちらに向き直って「そろそろおいとまを」と言った。既に夕暮れだった。地平に沈もうとする太陽の光が、地平に赤々と長い線を引いている。


「ごめん。ずいぶん引き留めたな」


「いいえ。お話できて嬉しかったです」


 そう言ってウルスラは髪をまとめ、無骨なヘルメットにそれを押しこんだ。軍用のバイクにまたがりエンジンをかけようとし――だがその手を止めて、思い出したように言った。


「静かですね、ここは」


「え?」


「本当に、ここだけ時が止まったように静か」


 その静寂は、けれどもすぐエンジンの音に掻き消された。両手をハンドルにかけたまま軽く頭を下げると、ウルスラは轟音とともに去っていった。俺はそのまま歩いて門をくぐり、荒野に小さくなってゆく黒い影を見送った。


 エンジンの音はすぐに聞こえなくなった。荒野を行く影も、やがて空と大地とを分かつ線に溶けて見えなくなった。あとには黄昏の砂漠と、彼女が残していった言葉通り、まるで時が止まったような濃く深い静寂だけが残った。

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