051 ここだけ時が止まったように静か(5)
「隊長の指示?」
「え?」
「こうして色々と持ってきてくれたのは隊長――お兄さんの指示?」
「いえ、あたしの独断です」
「なんだ、やっぱいるんだ」
「……」
「隊長は、もう舞台に立ってるんだろ?」
俺の質問にウルスラは少し驚いたような顔をしたあと、しばらくうつむいて地面を眺めた。ややあって頭をおこすと、こちらを見ないまま独り言のように「ええ、います」と静かに呟いた。
「確かに、舞台に立っています」
「会えないかな?」
「無理です」
「聞きたいことが沢山あるんだ。さっきので通信するとか、そういうのは?」
「それも無理です」
「じゃあ、ウルスラが知ってることだけでもいい。教えてくれないか、ここは――」
「申し訳ありませんが、あたしからの情報の提示は一切禁止されています。ここへこれらの物資を持ってくるのも、本来なら許されない行為なのです」
厳しい言葉とは裏腹に、心底申し訳なさそうな声でウルスラは言った。沈痛な面持ちで地面を見つめる様子からも、彼女が本心からそう思っていることがわかった。それで俺はもう何も言えなくなった。
そう、贅沢は言えない。彼女のおかげでとりあえず生存の危機は脱したのだ。あとのこと――行く先の見えない舞台については自分でどうにかするしかない。……それに考えるまでもなく、ウルスラにヒントを求めるのはお門違いだ。そもそもそれは、舞台に立つ俺自身が頭を絞って考えるべきことなのだ。
「……ところで」
「ん?」
「もう不自由はないと言われましたが、本当にそうですか?」
横目でちらちらとこちらを伺いながら、言いにくそうにウルスラはそう尋ねてきた。さっきと同じ質問だったが、彼女の様子はまるで違っていた。その理由がわからないまま少しだけ考え、「どうだろ」ともう一度同じ答えを返した。
「不自由なことが多すぎて、何から言えばいいかわからないってところかな。正直」
「その……こうしたものは必要ありませんか?」
俺の回答には応えず、ウルスラは梱包の底から薄緑色のパックを取り出した。木漏れ日の下に差し出されたパックに描かれたロゴに一瞬、頭に疑問符が浮かび――だがすぐにそれが何かわかって、危うく「ぶっ」と吹き出すところだった。
「……必要ありませんか?」
「……あります」
取り出されたそれは生理用品だった。男の俺でも知っている銘柄のナプキン。それは確かに今の俺にとって何より必要なものだった。……俺というか、あいつにとって。わずかに震える手で差し出されるそのナプキンを、同じように震える手で俺は受け取った。こちらを見ないウルスラの横顔が赤らんでいるのがわかる。おそらく俺も同じように……いや、彼女とは比べものにならないほど真っ赤に顔を染めているのだろう……。
「あ……あと、こんなものも必要かと思いまして」
「……これは?」
次に差し出されたのはチューブ入りの薬剤だった。裏の注意書きを見てみると、適用の症状は「あせも、かぶれ、湿疹など」とある。……ごく普通の軟膏のようだ。隣を見るとウルスラは相変わらず真っ赤な顔でうつむいている。その理由がまたわからなくなり、俺は黙って彼女の言葉を待った。
「そ……そのですね」
「はい」
「姉が言うには、ハイジさんはありあわせのもので済ませたのではないかと」
「……はい?」
「それみたいにちゃんとした製品の代わりにありあわせのものを……その、ナプキンとして使ったのではないかと」
「ああ、はい。……はい」
「そうゆうことするとですね、かぶれるんですよ」
「……はい?」
「当てた部分がかぶれるんです。人によっては酷く」
「……」
「……そういうわけですが、よろしいでしょうか」
「……はい」
「……あと、これも」
最後にウルスラが取り出したのはショーツだった。真新しい純白のショーツが2枚。ほとんど思考停止のままそれを受け取って、眩しい陽光の中にある中庭に目を移した。傾きかけた太陽の光を乱反射する水面を眺めながら、どんな劇だと思った。……色々と教えてくれないのはまあ我慢するとして隊長、あんたの理想だっていうこれは、いったいどんな素晴らしい劇だ?
「一つ、お聞き届けいただきたいことがあります」
ウルスラがそう切り出したのはかなりの時間が経ってからだった。陽はもう西の空に傾きかけ、あれほど激しかった熱気も潮が引くようにやわらぎつつある。
「それが、ここにあたしが来た本来の目的です」
「何でもするよ、俺にできることなら」
口に出した通り、どんなことでも聞こうと思った。ウルスラが持ってきてくれた物資のおかげで俺たちは当面この世界で生き延びることができる。そして、ここまでの会話を思い返してみれば、どうやらそれは隊長の許可を得てのことではなく、彼女の厚意からもたらされたものらしい。それには本当に、いくら感謝しても感謝しきれない。
気負った俺の返事にウルスラは軽い笑みを浮かべ、「そんな大袈裟なことではありません」と言った。だがすぐにその笑みを消して真剣な表情をつくり、「それに」と言った。
「これからお願いすることはあたしのためばかりではありません。むしろ、ハイジさんたちのために聞いていただきたいことです」
「……と言うと?」
「明日の、早ければ昼前に、この城に招かれざる訪問者があるでしょう」
「訪問者?」
「軍隊の人間です。おそらく銃器で武装しています。彼らは、ハイジさんたちを連れ去るためにここを訪れるのです」
「……」
いきなり現実に引き戻された気がした。いや……違う。いきなり劇の中に引き戻された。俺の与り知らないところで劇は予定通り進行していたらしい。俺たちを連れ去るというのは当然、俺とあいつをということなのだろう。ただそれにしても、武装した軍部の人間が連れ去りに来るというのは穏やかじゃない。
「どうして俺たちを浚いに来るんだ? そいつらは」
「……申し訳ありませんが」
「そうか。……で、俺たちはどうすればいいの?」
「見つからないように身を隠していてください。それから、目につきやすい場所にこれを」
ウルスラはそう言って袂から小さなビニール袋を取り出した。差し出されるままに受け取ってすぐ、俺は短い悲鳴をあげてその袋を取り落とした。
「な……何だよこれ!?」
「切断した人間の指です」
「そんなの見りゃわかる! 何だってこんなもの――」
「彼らを欺くための小道具です」
「……」
「ハイジさんたちを、今日ここであたしが連れ去ったと信じこませるための」
ウルスラはそう言いながら指の入ったビニール袋を拾い上げ、もう一度それを俺に差し出した。よくわけがわからないまま、仕方なく受け取った。黄昏ゆく陽射しのなか掌に載せたそれ――そのビニール袋の中の指は、ひんやりと冷たかった。
「あと、これを指の周りに撒いてください」
そう言ってウルスラはまた袂に手を差し入れ、生々しい赤褐色の液体が詰まったパックを取り出した。見たところ輸血用の血液パックだった。それを受け取って、なるほどと思った。ウルスラがどうやってその招かれざる訪問者を欺こうとしているか、何となくその筋が見えた。
「芸が細かいな」
「そのあたりじゃありませんか? お芝居で大切なのは」
「その通りだ」
得意気に微笑んで見せるウルスラに苦笑で返した。一本とられた思いだった。その通り、芝居で大切なのはそこなのだ。微笑みを浮かべたままウルスラは「それがうまくいけば終わりです」と言った。
「何が?」
「そのお芝居がうまくいけば、ハイジさんたち二人はこの舞台から降りられるでしょう」
「……」
その一言に俺は絶句した。直後、激しい寂しさが全身を突き抜けていくのを感じた。……やれやれだ、と思った。まったく世話はない。あれだけ文句を並べながら、俺はやはりこの舞台にこだわっていたのだ。決定的な一言にこうして声も出なくなるほど。
「どうかしましたか?」
「いや……ええとだな」
気持ちが顔に出ていたのか、ウルスラは心配そうな表情で尋ねてきた。だが俺の方では何と返していいかわからなかった。軍隊の人間をやり過ごすために一芝居打てと彼女は言う。その芝居が成功すれば俺たちは――俺とペーターはこの舞台から降りられるのだと言う……。
「……降りるべきなのかな」
「え?」
「俺たちは、もうこの舞台から降りるべきなのかな?」
思い詰めた声になってしまうのを避けられなかった。ウルスラからの返事はなかった。ただ何だろう、表情の消えた顔でじっとこちらを見ている。矢も楯もたまらず、俺は次の質問を口にしていた。
「この舞台で、俺たちに他の役割は?」
その質問にウルスラは無言で首を横に振った。そうしてまた表情のない顔でじっと俺を見つめた。その顔がすべてを物語っていると思った。……結局、そういうことだ。彼女の言う最後の芝居を打って、俺たちはもうこの舞台から降りるべきということなのだ。
「……そっか。そんなら潔く帰るかなあ」
「え?」
そこで初めてウルスラの顔に表情が生まれた。意外なことを言われたというような驚きの表情だった。俺の方では、なぜ彼女がそんな顔をするのかわからなかった。ややあってその表情のまま、「どこへですか?」とウルスラは言った。
「ん?」
「帰るって、どこへ帰られるんですか?」
「いや、元の世界にだけど?」
「……」
「もう用なしってことならあっちに帰るよ。正直、何しに来たかわからないし、まだこの劇の中の世界に未練はあるけど」
「……またあの人は」
絞り出すような声でそう言ったあと、ウルスラはわなわなと肩を震わせ始めた。いつの間にかその顔には、はっきりそれとわかる怒りの表情がのぼっていた。何のために現れた表情かわからず、かといってどうすることもできず、俺はしばらく呆然とそんな彼女を見守った。
やがてウルスラは背筋をのばすと、大きく一つ息を
「え?」
「ハイジさんは、元の世界に帰りたいんですか?」
「……」
そう言われて俺はまた考えこんだ。こちらへ来てからというもの考えることが多すぎて忘れていたが、あちらの世界はあちらの世界で問題が山積みだった。ぼろぼろになったヒステリカのこと。そして何よりもあいつとのこと。日曜日のホールで隊長に言われて躊躇せずこちらに来たのもある意味、すべてを置き去りにして逃げてきたようなものだ。
「……あんまり帰りたくないかも」
「どうしてですか?」
「こんな中途半端で舞台を降りるのは嫌だ。それにヒステリカがああいうことになって、帰っても何すればいいかわからない。それに――」
その先は言えなかった。元の世界に帰りたくない一番の理由、それはとりもなおさずあいつのことだった。これから帰る元の世界で、あいつが俺にどんな態度をとってくるかわからない。いや……おそらくもう口も聞いてくれないだろう。あの嵐の夜に、ぜんぶ壊れたとペーターは言った。あいつがそう言う以上、俺たちの間にあったものはもうぜんぶ壊れてしまったのだ。
そこまで考えて、俺はこの劇の中の世界にあって、あいつとのどたばたを意外に楽しんでいたことに気づいた。そう……俺はそれを楽しんでいた。歯車の噛み合わない会話とはいえ、あいつは俺の言葉に返事を返してくれた。狂態を演じて逃げまわっても、最後は俺の手の届くあの寝台の上にいてくれた。それを思えば、何もかも壊れて終わってしまった元の世界へ帰るより、壊れながらも続いているこの世界にいる方が俺は幸せなのかも知れない――
「愛しているんですか?」
「え?」
唐突な問いかけに頭を跳ねあげた俺を、真摯そのものの双眸が迎えた。反応できないでいる俺を一頻り見つめたあと、ウルスラは視線を城の頂に移して、もう一度その質問を繰り返した。
「愛しているんですか? あの方を」
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