050 ここだけ時が止まったように静か(4)
「クララも、こっちへ来てたんだな」
「……」
「そういえば前に会ったときクララは――」
「クララではありません」
「え?」
「あたしはクララではありません。ウルスラといいます」
思わずまじまじと見つめる俺に彼女はちらりと視線を返した。そうして心なし拗ねたような表情で、「クララは妹です」と告げた。
「クララは妹で、あたしはウルスラといいます。以後、お間違えのないように」
「……ええと、そっか。姉妹か」
「三姉妹です。あたしの上にもう一人、ベロニカという姉がいます」
「……そうなんだ。うん、わかった」
それだけ言うとウルスラはこちらに向けていた頭を元に戻した。木洩れ日を受ける黒髪が流れる。……どう見てもクララだった。記憶に曖昧な部分があることを差し引いても、俺にはまったく見分けがつかない。
「なら、初めてか」
「え?」
「ウルスラ……と会うのはこれが初めて、ってことになるのかな?」
「いいえ、二度目です」
「二度目?」
「金曜日に大学の広場でお会いしました。もうお忘れですか? 銃をお渡ししたときのこと」
「えっと……あれウルスラだったのか。俺はてっきり……」
「クララと間違えてらっしゃったのはわかってます。何度もその名前で呼ばれましたから」
「ああ……うん、ごめん」
「あのときお会いしたのはあたしです。クララではなく。ですから、ハイジさんとお会いするのはこれが初めてではありません」
「そうか……わかった」
口ではそう言いながら、俺は全然わかった気がしなかった。いきなり降ってわいた突拍子もない情報にまったくついていけない。一人だと信じきっていた隊長の妹は三人いて、そうとは知らずに俺は会って話しさえしていたのだという。クララにウルスラ、それにベロニカ。……名前のことはまあいいとしても、突っこみ所が多すぎる。しかもどこからどう突っこんでいいものか見当がつかない。
「……そうだ。隊長は?」
ふと思いついたことを口にした。どうしてウルスラがこちらの世界に来ているのかわからない。だが彼女がこうしてここにいる以上、隊長が同じように来ていてもおかしくない。そう思ったからだ。
「ここにウルスラがいるってことは、ひょっとして隊長――お兄さんもこっちに来ていたりする?」
そういうことなら話は早い。このままでは芝居にならない実情を訴え、
ウルスラは、けれどもそんな俺の質問には答えず、何かを考えるようにじっと陽光の降り注ぐ木立の外を眺めていた。やがて思い出したように口を開くと、よく通る穏やかな声で「あれを飲まれましたか?」と言った。
「え?」
「ハイジさんは、もうあの水を飲まれましたか?」
ウルスラの視線の先には泉の水面が、激しい午後の陽光の下さんざめく輝きを見せていた。それで俺は彼女が何のことを言っているかわかった。
「いや、まだ飲んでないけど。なんで?」
「人体に害となる重金属がふんだんに含まれています。少量なら問題ありませんが、継続的な摂取は命に関わりますので、お気をつけください」
「……わかった」
ついさっき自分がしかけていたことを思い出して、冷水を浴びせかけられたような気持ちになった。最初に危惧した通りあれは毒の水だったのだ。しかもたちの悪いことに遅効性の猛毒だ。あのまま飲んでみてとりあえず問題ないとみたら、俺はそれをペーターにも飲ませていただろう。……その結末を想像して全身の毛が逆立った。すんでのところで取り返しのつかないことをするところだったと、内心に激しく自分を責めた。
「けど……どうすればいいんだろ」
「え?」
「変なこと聞くけどウルスラは、ここから俺たちを連れ出しに来てくれたのか?」
「違います」
「……だよな。けど、それならどうすればいいのかと思って。飲み水がもうなくなりそうなんだよ。と言うか、食べ物も。水はここにあるけど、どうも飲んだらいけないってことのようだし……」
言いながらまったく筋違いのことを喋っていると思った。こんなことをウルスラに言ってどうなるというのだろう。だが俺が言い終わるか終わらないかのところでウルスラはすっと立ち上がり、バイクに歩み寄った。そして荷台にかけられていたロープを外し、そこにくくりつけられていた荷物を降ろしてこちらへ運んできた。
「それは?」
質問に答える代わりにウルスラは手際よくその荷物の梱包を解き、封を開いてその中に手を差し入れた。中からまず出てきたのは真新しい毛布だった。黄土色をしたいかにも救援物資といった感じの、だがここでは実に使い勝手の良さそうな毛布が二枚。その次にウルスラが取り出したものを目にしたとき、俺は思わずそれを指さして叫んだ。
「それ!」
「……?」
「それだよそれ! それが欲しかったんだ!」
ウルスラが取り出したのは透明なポリ袋だった。ちょうど30枚入りのゴミ袋といったように、何枚ものそれが未開封の小さなビニール袋に詰まっている。それこそ、そのポリ袋こそ俺が心の底から欲しいと願っていたものだった。それさえあれば穴に水が溜められる。蒸発した水をペットボトルの口に滴らせることも簡単にできる!
「頼む、ウルスラ。そのポリ袋を何枚か譲ってもらえないかな? お願いだ、どうしても必要なんだ」
「元よりそのつもりです」
「え?」
「この荷物は、ハイジさんたちに差し上げるためにあたしが基地から持ち出してきたものです」
思いもしなかった天の恵みのような申し出に呆然とする俺の前で、封の開いた梱包からウルスラは次に大振りの箱を取り出した。
「カロメか」
「カロメです」
荷物のかさの大半を占めていたのはカロメだった。50箱入りと書いてある段ボールが3つ、それぞれ味が違う。製造元の住所までプリントされた本物だ。これだけあれば当座はしのげる。少なくとも飢えて死ぬことはない。
次にウルスラが取り出したのはテニスボール大の黄色い岩の塊のようなものだった。
「それは?」
「岩塩です」
「おお! 岩塩!」
涙が出そうだった。これで水、食料、それに塩と、渇望していたものが一挙に揃ったことになる。感動のあまり声も出せないでいる俺を知ってか知らずか、ウルスラは梱包から次々と物資を取り出していった。
ビタミン剤のボトル。風邪薬。ガムテープ。タオル。カッターナイフ。ライターにトイレットペーパー。ドラッグストアのカウンターよろしくそれらの物資を並べたあと、ウルスラはおもむろに「水はできますね?」と言った。
「え?」
「このポリエチレンの袋があれば、水はできますね?」
ウルスラの目は、俺が必死になって掘った蒸留装置に向けられていた。正確には未完成の蒸留装置だ。あの穴の底にポリ袋を敷くことで、俺が心血を注いだ蒸留装置は完成の日の目を見る。
「ああ、できる。ありがとう、本当に助かった」
「他に何か不自由なことはありますか?」
「……と言うと?」
「ここで暮らしてゆく上で、何か他に不自由なことはありますか?」
そう言われて俺は考えこんだ。水の調達に腐心していたせいで頭にのぼらなかったが、不自由なことはありすぎるほどある。……と言うより、基本的に不自由なことしかない。だがこうして改めて問われてみると返答に困る。塩と水が手に入った今、どうしても解決しておきたいことといえば――
「あれが採りたいんだけど」
頭上のナツメヤシの実の房を指さして言った。そう言ってから、それはたしかに重要な課題だったと思い出した。さっき確認した通り、それはここで自給できる唯一の食物だ。糖分の多い高カロリー食品で、生の果実からは水分も採れる。何より、たわわに実っているのを眺めながらそれを手にできないのは精神衛生のためにも良くない。
ウルスラは顎をあげ、俺の指さす先を眺めていたが、やがてバイクの荷台に荷物をくくりつけていたロープを手に取り、「このロープを使ってはどうでしょう?」と言った。
「ああ……やっぱそれで登るのか。できるかなあ、俺にそんな芸当」
「いえ、そうではありません」
「登れってことじゃないの?」
「ロープも使いようです」
そう言ってウルスラは立ち上がると周囲を見まわした。何を探しているのだろう、と思うより早く目的のものを見つけたようで、地面から小さめの細長い岩を拾いあげた。俺が穴を掘るために使っていた岩だった。それをロープの先に結わえ、引き締める。
岩が外れないか確認したあと、ウルスラはそのロープを手にヤシの木の根元より少し離れた場所に立った。岩の重りをつけた先を右手に提げ、一頻りそれを振り回したあと頭上に放り投げる。……見事な
「すごい!」
思わず拍手していた。人間は道具を使う生き物だということを教えられた思いだった。そんな俺の拍手に、ウルスラは照れたような顔つきでナツメヤシの実の房をカロメの箱の上に載せた。それからこちらに戻ってきて元のように俺の隣に腰をおろした。
「他に何か不自由なことは?」
「どうだろ。何かあったかな」
ここで片付けておきたいことに再び頭をまわし始め、けれども思索はすぐにその矛先を変えた。唐突にウルスラが登場した混乱から覚め、当面の生存が約束されたことで、根源的な疑問――自分が今ここに立っている存在理由に関する疑問が、むくむくと鎌首をもたげてくるのがわかった。
ここがどこかということ。俺が――俺たちがなぜここにいるかということ。どうしても片づけておきたい問題があるとすればそれだ。こんな何もない所に放り出され、わけもわからないまま演技をしろと言われても困る。曲がりなりにも舞台に立つ役者の権利として、あるいは義務としても、そのあたりはぜひとも
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