049 ここだけ時が止まったように静か(3)

 視線をゆっくり周囲にめぐらせ、起き抜けのかすれ声で独り言のようにペーターは言った。俺が答えないでいると彼女はもう一度こちらに向き直り、さっきより幾分真摯な目で俺を見つめ、呟いた。


「どこですか? ここ」


「……砂漠の真ん中だ」


「どうして私がそんなところに……ハイジさんと一緒にいるんですか?」


「知るかよ。こっちが聞きたいくらいだ」


 力なく吐き捨てた。……目覚めたのはどうやらペーターのようだ。口調や表情からして、昨日、入れ替わり立ち替わり現れたどの彼女とも違う。まるで多重人格者だ。これがこの劇での《愚者》ということなのだろうか。


 ペーターはしばらくゆっくりと部屋の中を眺めまわしていたが、やがて頭を巡らすのをやめ、元通り横になって布きれを引きあげると、抑揚のない声で「埃っぽいですね、ここ」と呟いた。


「我慢してくれ。掃除したんだ、これでも」


「……ハイジさんがしたんですか?」


「当たり前だろ。他に誰がいるんだ」


「他は誰もいないんですか? ここ」


「どうやらそうみたいだな」


「……そうですか」


「喉、渇いてないか?」


「……いいえ」


「食べ物は?」


「いりません」


 それきり会話は途絶えた。寝台に横になったペーターはややあって、かすかな寝息をたて始めた。……この上まだ眠るらしい。いったいどれだけ眠れば気が済むのだろう。正面に向き直り、窓の外を見た。容赦のない陽射しに灼かれる赤茶けた大地を、眺めるともなく眺めた。


 ――ふと、さっき目を覚ましたのは本人だったのではないかと思った。何もつくっていない素のままの彼女。ちょうど一昨日の俺のように周囲を見まわし、自分がどこにいるかもわからない……そんな感じだった。けれどもすぐ、軽い溜息をついてその考えを追いやった。さっき、あいつは俺のことをハイジと呼んだ。ペーター本人なら、何があっても俺をその名では呼ばないはずだ。


 そうして部屋には空虚な昼下がりだけが残った。さっきまであれほど吹き荒んでいた風の音も、もうない。かすかなペーターの寝息の他に、耳に届く音はない。どこまでも虚ろな、空っぽの時間だった。そんな時間の移ろいの中に、気がつけば俺は激しい気怠さを覚えていた。……魂を抜かれたような、指一本動かすのも面倒なほどの気怠さだった。もう何もしたくない、何も考えたくない。けれどもそんな思いとは裏腹に、ペーターが起きる前に自分が何をしようとしていたか、不意にそのことを思い出した。


「そうだ……水」


 飲める水をつくるために俺は中庭へ降りようとしていた。成功する見こみのない、おそらく徒労に終わるだろう方法を試すために。……気は進まなかった。すべてを置き去りにしてここで気怠く過ごしていたいと思った。いっそこのまま横になり、いい気に眠りこけるこいつと同じように、夢の中へ逃げこんでしまいたい……。


 ――それでも俺は立ちあがり、部屋の隅に転がっていた空のペットボトルを手に取った。それからまた寝台に戻り、寝息をたてる少女の寝顔を少しだけ眺めたあと、廊下に出た。


◇ ◇ ◇


 午後の中庭に、陽射しはまだかなり強かった。気怠さを引きずりながら、まずヤシの葉を採取するところから始めた。蒸気をこもらせるためには青い葉の方がいいのだろうが、それをとるためには樹のてっぺんまで登らなければならない。仕方なく俺は箒のときと同じように、手の届く場所にうなだれる枯れた葉を折りとっていった。


 ただ、さっきほどの苦労はなかった。あそこで試行錯誤したことでだいぶが掴めていて、割と要領よく葉を幹から引き剥がすことができた。それでも、穴の上に隙間なく敷き詰めるのに充分な量の葉を集めるのには骨が折れた。顎の先から滴る汗が地面に落ちるはしから、染みをつくる間もなく蒸発してゆく。服の下にもだらだらと汗が流れているのがわかる。……まったく、これでうまくいかなかったら、文字通り無駄に汗を流したことになる。


 試練は葉をとって終わりではなかった。……むしろ、そこからが本当の試練だった。葉の採取に続いて穴を掘る作業にかかった。それほど深い穴は必要ないので簡単に掘れると高をくくっていたのだが、その希望的観測は掘り始めてすぐにうち砕かれた。土だとばかり思っていた地面は岩盤だったのだ。手で掘ろうとして数秒で諦め、道具に考えを巡らせた。結局、石しかなかった。周囲を歩きまわって先の尖った大ぶりの石を拾い、それを地面に叩きつけて穴を掘った……と言うより削岩した。


 過酷な作業は続いた。さすがに炎天下は避けて木陰から、できるだけ陽の当たる場所に穴を掘ったが、いずれにしても悲惨な重労働だった。破片が目に入るのを防ぎながら力任せに石を地面に叩きつけ、先が駄目になるとまた別の石を探した。全身汗まみれになり、ほとんど自棄やけになって狂ったように石を打ちつけた。予定していた深さになる頃には既に陽はかげり始めていた。大地の熱が急速に失われてゆくのを感じて、今日はもう蒸留を試せないだろうと思い――それでも俺は掘る手を休めなかった。


 最後の方は無心で、苦行に耐える修行者のように穴を掘った。陽射しが弱まったことで作業はしやすかった。仕上げに水受けを収めるためのくぼみを中央に掘り下げる。そこにどうにかペットボトルが嵌るようになったところで、俺は石を置いた。


「うああ……」


 思わず呻き声がもれた。一つの仕事をやり終えたという充実感があった。――だが問題はここからだ。そう思って俺は跳ね起き、ペットボトルを手に泉へ向かった。温かい水の中にペットボトルを沈め、いっぱいに汲む。そうしてまた元の場所に戻り、祈るような気持ちで穴に水を流しこんだ。


「……というお話でした」


 水は溜まらなかった。しゅわしゅわと音を立てて浸みてゆき、すぐになくなった。三回まで泉に足を運び、ペットボトルに汲んだ水を繰り返し流しこんでみたが、やはり駄目だった。ざるに水を溜めようとしているようなものだ。……ばかにもほどがある。なぜこれを最初に確認しておかなかったのだろう。水が溜まらないとわかっていれば、こんな死ぬような思いまでして穴など掘らなかった。


 どっかりとその場にへたりこんだ。もう溜息をつく気力もなかった。少し息が苦しいのは脱水症の兆候だろうか。あれだけ汗をかいたのだから、たぶんそうだろう。早く水を補給しないといけない気がするが、『王の間』は遠い。それにたったいま水との戦いに負けた俺に、その水を口にする資格などありはしない。


 全身疲れきっていた。おそらく明日には激しい筋肉痛が待っている。だが、そんなことはもうどうでもいい。明日のことなど考えたくもない。


 ……もうあれを飲もう。あの泉の水をそのまま。それしかない……もうそれしか。飲めない水だったらそれまでだ。どうせこのままいけば数日で死ぬのだ。最後にいちかばちか挑戦してみるのもいい。そう決意し、早くも鈍痛を覚えはじめた重い腰をあげた。


「……ん?」


 泉に向かい木陰を出かけたところで、ブゥン、と羽虫の唸るような小さな音が耳に届いた。この砂漠の真ん中に虫がいたのか、そう思って驚き、周囲を見まわしたが虫はどこにもいなかった。だが羽音はどんどん大きくなってくる。幻聴だろうか……いや、違う。それがエンジンの音だと気づくのとほぼ同時に、城壁の門をくぐり一台のバイクが中庭に乗りこんできた。


「……!」


 一瞬、身を隠すべきか迷った。入城してきたバイクが煤けたモスグリーンの、誰が見てもわかる明らかな軍用のものだったからだ。あまつさえ、搭乗者はどこかの民族衣装のような服に軍用ヘルメットという奇妙ないでたちで、一見して普通でないことだけはわかった。だがその異様さに見とれてしまったことで、俺は身を隠すチャンスを失った。


 あちらでも俺の姿を認めたらしく、バイクは真っ直ぐこちらに走ってきた。俺の目の前まで来ると停車し、エンジンを止めた。……どうやら女のようだ。どうしていいかわからず立ち尽くす俺の前で女はバイクを降り、ヘルメットに手をかけた。軽くのけぞってそれを頭から外すと、眩しい陽光のもとにつややかな長い黒髪がこぼれ出た。


「……クララ?」


 ヘルメットの下に現れた顔に唖然として呟いた。砂埃を浴びてはいるが抜けるように白い肌と端正な顔立ちは、見覚えのある隊長の妹、クララのものだった。突然現れた得体の知れない人物がクララだったことに二度驚き、うまく言葉が出せないでいる俺に、挨拶もないまま出し抜けにクララは告げた。


「申し訳ありません、つかぬことを伺いますが」


「え?」


「鳥はもう飛び立ちましたか?」


「鳥……?」


「ええ、鳥です」


 最初は何のことかわからなかった。だが少し考えてひらめくものがあった。昨日、この中庭から見上げた城の頂から、黄昏の空に飛び立っていった二つの黒い影を思い出した。


「……ああ、あれか」


「飛び立ちましたか」


「昨日のあれがそうなら」


「そうですか」


 少しトーンの落ちた声で呟くと、クララはウエストバッグを開き、中から小さめのトランシーバーのようなものを取り出した。慣れた手つきでボタンを押し、それを耳にあてる。そうして聞きとれるか聞きとれないかの声で、どこかと通信らしきものを始めた。


「……」


 周囲を見まわし、アンテナが立っていないことを確認した。携帯電話と見まがう小さなトランシーバーには小指の先ほどのアンテナしかない。この荒野の真ん中に、あんな玩具のようなアンテナでいったいどこと、どんな仕組みで通信をおこなっているのだろう? 


 そんな素朴な疑問を思い浮かべたところで、クララは早々に通信を打ちきった。トランシーバーをバッグにしまい、バイクに戻る。そのまま立ち去ってしまうのかと思ったがそうはせず、跨らずにハンドルに手をかけ、バイクを押して木陰に入れた。そうしてこちらに向き直り、いつかのように恭しく一礼した。


「失礼しました。挨拶もせず不躾にものをお聞きしたりしまして。どうもお久し振りです」


 そう言ってクララは静かにその場に腰をおろした。木洩れ日の光彩が黒い髪にまばゆい宝飾をほどこす。大学の庭園で彼女と会ったときのことを思い出した。あのときもこうしてクララがベンチに座り、その隣に俺が腰かけて話をした。違いがあるとすれば、ここにベンチがないことくらいだ。そう思い、乾ききった地面の上に彼女と並んで腰をおろした。

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