048 ここだけ時が止まったように静か(2)

 『王の間』に戻ると、ペーターはまだ眠っていた。さすがに暑いのか、額にうっすらと汗をかいている。それでも俺がかけた布きれはそのままに、下着だけの無防備な身体を覆い隠してくれていた。そのことを確認して俺は床に腰をおろし、寝台のへりに背もたれた。折からの風は窓の外に吹き荒んでいる。時たまにではあるが、砂混じりの風がこの部屋の中にまで吹きこんでくる。


 人心地ついたところで、忘れていた空腹が舞い戻ってきた。部屋の真ん中に目をやり、まだ数のあるカロメもどきの袋をしばらく眺めたあと、中庭で拾ってきたデーツをポケットから取り出して二つ、三つ囓った。……塩分のことを考えれば、あれはまだ残しておいた方がいい。とにかく大切にしなければならないのは塩と水だ。


 それでもデーツを幾つか囓ったあと、二本だけ残されたペットボトルの一本を開け、少しだけ水を飲んだ。飲むのを惜しんで脱水症になっては元も子もない。この暑い中に汗という形で水はどんどん奪われてゆく。それは同時に塩分も奪われるということだが、人間の生物としての身体の営みなのだからどうすることもできない。


「……と言うか、本当にどうにかしないと」


 悠長に構えている余裕はなかった。ペットボトルの水はあと一本と半分。遅くとも明日には飲み干してしまう。カロメもどきも、まだ残っているといったところで数は知れている。塩と水の問題は、俺たちの生死に関わる『今そこにある危機』以外の何ものでもない。


 ……もっとも塩と水に関しては、いざとなったら最後の手段がないわけではない。平和なあの国ではあまり知られていないが、非常事態の危険がある場所では誰もが知っている古典的な手段。いわゆるリサイクルによって塩と水を体内に摂りこむ方法で、聞くところによれば細菌に触れるのを避けるために、排泄されたものを直接飲むのがいいらしい。幸いここには二人の人間がいる。ウロボロスの蛇よろしく生命の循環を形づくることができないわけではない。


「……」


 振り返ってペーターの寝顔を眺め、頭を元に戻して、力なくかぶりを振った。……こいつとそんなことをできるわけがない。と言うよりも、そんなことをしてまで生き延びたくない。どこかで聞いた格言だが、山羊の糞を食べてでも生き延びるのが筋金入りの傭兵だという。俺はそんな筋金入りではない。……小便をすすり合ってまで生き延びたいとは思わない。せいぜいできることと言えば、地面に落ちたナツメヤシの実の埃を払って食べることくらいだ。そう思いながらまた一つポケットの中のデーツを取り出して囓った。


「うわ……っぷ」


 不意に、たっぷりと砂を含んだ風が吹きこんできた。デーツを囓ろうと半開きになっていた口の中にまで細かい砂粒が入ってくるのに、堪らず俺は噛みかけのデーツもろともそれを床に吐き出した。第二陣に備えて口を閉じ、目を細くして身構えたが、なかなか来なかった。どうやらそれが一過性のものだったとわかって、俺は構えを解き、口の中に残ったものをもう一度床に吐いた。


「……人の住むとこじゃないよな、ここ」


 自分が床に吐き出してしまったものを見て、思わずそう呟いた。ただそんなものを見るまでもなく、ここが人の住む場所でないことはわかりきっていた。雨は降らないからいいとしても、風さえしのげないのでは野宿と変わらない。雨は降らなくともこうして砂は降ってくるのだ。こんな一面砂まみれの床では、今夜もまともに眠れそうにない。


 壁の外から風のうなる声が聞こえた。……それでもこのれ壁のおかげである程度は風の侵入を防ぐことができているようだ。考えてみれば城にはこの部屋ばかりではない、窓が少なく破れもないな壁を持つ部屋が幾つもある。いっそどこかの部屋に移ればいい。この部屋にこだわる理由はどこにも……そこまで考えて、自分が腰かけている寝台の存在に思い至った。


「……こいつがあるからか」


 結局、そういうことだった。寝台があるからこそここは俺たちの――と言うよりペーターの居室として選ばれたのだ。運び出すことができれば話は違ってくるのだろうが、あの小さな出口から出すのに、ましてあの狭い廊下を運んでゆくのにこの寝台は大きすぎる。そもそもどうやってこの部屋に運び入れたのだろうと思いかけ、どうでもいいことだとその考えを追いやった。どうあれ、この寝台を別の部屋に移すのは無理だ。そうである以上、当面この『王の間』を居室として生活してゆくしかない。


「……とりあえず、砂だな」


 何を置いても、とりあえずこの砂だけはどうにかしたい。これではおちおち食事もとれない。壁の穴をぜんぶ塞いでしまうのが一番だが、それは不可能だ。つまり閉鎖系を構築することはできない。ならば開放系のままエントロピーを低下させるための手段を講じなければならない。


ほうきでもあれば――」


 そこでふと、中庭の光景が頭に浮かんだ。泉のまわりに生い茂るナツメヤシ。その幹に枯れた葉が垂れ下がっていたのを思い出した。てっぺんの実には手が届かなかったが、あれならどうにかなりそうだ。そこまで考えて、俺は再び中庭に降りるべく部屋を出た。


 ――ヤシの葉を折りとるのは思ったほど簡単ではなかった。どの樹にも手の届く高さに何枚もの葉が折り重なっていたが、枯れて褐色に乾ききったその茎は強靱な繊維によって幹にしがみつき、引いても叩いてもびくともしなかった。砂風の吹き荒むなか俺はその葉を相手に苦闘し、落ちている石や靴底や、考えられるありとあらゆるものを使ってどうにか数本のそれを幹から引き剥がすことに成功した。


 戦利品を手に『王の間』に戻った俺は、早速それで床を掃きはじめた。四本の葉の茎を細い葉で束ねて柄にしたその箒は思いのほか使い勝手が良く、床に広がる大小の砂礫を能率よく掻き集めてくれた。折りとるときに苦労させられた茎のがここでは役に立った。このがなければ砂粒はともかく、大きめの礫までこう上手く掃きとることはできなかっただろう。


 ただその能率のいい箒をもってしても、広い部屋を一通り掃ききるのには時間がかかった。真昼の太陽にあぶられた砂漠の熱は、厚い土壁を越してこの部屋にまで届く。その暑いさなかに、できるだけ汗をかかないように休憩をはさみながら掃除を続けた。砂礫は出口の近くに集めてそこから廊下に掃き出したので、そのうち出口には砂利の山ができた。さすがにそれを廊下の端まで掃いてゆく気にはなれず、足をとられない程度に適当に掃き散らかした。


「……ふう」


 それでも、小一時間も掃き続けると部屋の中はだいぶ綺麗になった。靴の底で床を摺ってみて、砂を噛む音がしないことに思わずほくそ笑んだ。表面の砂利を取り払ってみれば足下の煉瓦は意外に滑らかで、時を経て摩耗したその床には風格のようなものさえ感じられる。これで『王の間』にそれらしい格好がつく。俺は満足して箒を置き、寝台に腰を降ろした。


「……う!」


 盛大な砂風に顔面を襲われ、反射的に目を閉じた。再び目を開けたとき、床は元通り砂まみれになっていた。……まるで賽の河原だった。どっと疲れが来て、そのまま寝台に仰向けに寝ころんだ。


「ん……」


 頭の上でかすかに呻くペーターの声が聞こえた。のけぞって様子を窺う……まだ起きないようだ。いったいこいつはいつまでこうして寝ているのだろう。あるいはもうこのまま目を覚まさないのだろうか? もしそうだとしたら……それはそれで悪くないのかも知れない。


「……てか、ここも人の寝るとこじゃねえよ」


 頭の裏でざりっと音が鳴るのを聞いて跳ね起きた。見れば寝台の上にもかなりの砂が降り積もっている。ペーターの身体にかかった布きれの上にも、彼女自身の顔にも。溜息をついて立ちあがり、ペーターの頭の側へまわった。そうして彼女の顔についた砂を指の先で払い落としにかかった。


「……んん」


 汗で張りついた砂はなかなか落ちなかった。それでも俺はペーターを起こさないようにゆっくり時間をかけ、丁寧に砂を落としていった。途中、何度か顔をしかめたが結局ペーターは起きなかった。彼女の顔の砂を落とし終えたあと、今度は寝台の上を掃くため、床に転がしてあったヤシの箒を取った。


 寝台の上に降り積もっていた砂を掃き落とし、もう一度床を掃き終えた頃には、外の風はだいぶ収まっていた。風がなくなったせいかひときわ激しさを増した熱気の中、俺はよろけるように寝台に腰を降ろした。喉がからからに渇いていた。掃除したての部屋の真ん中に置かれたペットボトルを見て、立ちあがろうと腰を浮かせ――また腰を降ろした。


「……掃除とかしてる場合じゃなかった」


 そう呟いて、いつの間にかかいていた顔の汗を拭った。拭った手の甲から一滴、二滴と汗の雫が床に落ち、染みこんでゆくのを見る。そう……最も重要な問題はだ。刻一刻と失われてゆくこそが、今すぐに何とかしなければならない最優先の課題だ。そして何と言っても――


「水だ。とにかく水」


 ――とにかく水だった。水をどうにかしなければ数日を待たずに俺たちは干涸らびる。それはまったく確かなことで、疑念を差し挟む余地のない現実以外の何物でもない。もう何度繰り返したかわからないそのことをもう一度頭にのぼらせ、両手の指を組んで顔を覆い、鼻から大きく息を吐いた。


「……煮るのは駄目だな」


 飲める水を得るための手段。まず考えられるのは煮沸だが、今回のケースでは危険が残る。無機毒物が含まれていた場合、煮沸ではどうにもならないからだ。何よりここには鍋がない。木の摩擦でどうにか火を熾せたとしても、煮る鍋がないのではどうしようもない。


「……となると」


 そうなるともう蒸留しかない。……というより、最初からそれしかない。蒸留ならば有機、無機に関係なく毒になりうる含有物を除去して真水をつくることができる。水自体はある、熱も充分すぎるほどある。あとはどうやって蒸留すればいいか、それだけが問題になってくる。


「ヤシの葉……かなあ」


 唯一使えそうなのがヤシの葉だった。あれを使えば、あるいはどうにかなるかも知れない。地面に穴を掘り、真ん中にペットボトルを埋めてその周りに水を溜める。その上をヤシの葉で覆い、凝縮した水滴がペットボトルに落ちるような仕掛けをつくる。あの中庭の炎天下なら充分な蒸発量が見こめるし、厚くヤシの葉を敷き詰めればどうにか水蒸気を逃さず、雫にして落とすことも……。


「……無理だろ」


 ……無理な気がする。いや、明らかに無理だ。ヤシの葉からペットボトルに水滴が落ちるようにするのがまず難しい。それ以前に、あの地面に穴を掘ったところで水を溜めることができないだろう。あんな乾ききった大地では、水を流しこむはしから浸みていってしまうのがだ。そんなのはもう目に見えている。試す前から失敗することなどわかりきっている。


「……いや、わからない」


 あえて反対の言葉を口にして、けれどもその通りだと思った。何事もやってみなければわからない。このまま手をこまねいていても木乃伊になる日が近づくだけだ。とにかく試してみよう。まずは試してみて、駄目だったら次の方法を考える。そのスタンスでいくしかない。そう思って立ちあがりかけ――そこで背中にかすかな衣擦れの音を聞いた。


 振り返ると寝台の上にペーターが身体を起こしたところだった。はだけかけた布きれを引きあげて裸の肩を隠す。それからしばらくぼんやりした目を前向に向けていたが、やがておもむろにこちらに向き直った。


「……」


 虚ろな眼差しが俺をとらえた。ペーターはそのまま言葉もなく、ぼんやりとこちらを見つめ続けた。その眼差しを、俺は心配していたほどの動揺もなく、むしろいつも通りに受け止めることができた。なるようになればいい、そう思ってペーターの出方を待った。長い沈黙があって、やっと夢から覚めたようにペーターは唇を開いた。


「……ここ、どこ?」

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