047 ここだけ時が止まったように静か(1)

 目が覚めたとき、部屋の中はすっかり明るかった。


 瞼をあける前から頬のあたりに硬くざらついた嫌な感触があった。……またこの床の上にじかに寝てしまったのだ。そう思って身体を起こしたあとも、頬の嫌な感触は消えなかった。指をのばしてみるはしから、そこに貼りついていた小石がぽろぽろと落ちた。煉瓦の欠片とも、外から舞いこんできたものともわからない小さな石。床に落ちたその小石を眺めるともなく眺め、それから向かいの壁に目を移した。


 壁に穿たれたまどの外に、太陽はもうかなり高くまでのぼっていた。ここの緯度がわからないので何とも言えないが朝の九時か、あるいは十時といったところだろうか。気温はまだ上がりきっていないとみえ、暑くもなく寒くもない。嵐のあとを思わせる平和な朝だった。――だがその穴の隣、壁にかけられたドレスに昨夜の嵐を思い出し、起き抜けのぼんやりした余韻は一気に吹き飛んだ。


「……」


 頭だけまわして後ろを振り返った。この高さからは見あげたようになる寝台のへりから、小さな二つの裸足がこちらに向けられているのが見えた。立ち上がり、今度は寝台を見下ろす。ぼろぼろの布きれにくるまって眠り続けるペーターの姿がそこにあった。


「……」


 寝息さえ立てずに昏々とペーターは眠っていた。あどけないその寝顔をしばらく眺めたあと、俺は小さく溜息をつき、寝台のはしに腰かけた。ぎしり、と軋む音が立ったが、ペーターは起きる気配を見せなかった。それを確認して俺は腿の上に肘を立てて眼前に指を組み、腹の底から大きく一つ溜息をついた。


「……やっちまったんだな」


 思わず力のない独り言がもれた。……そんな独り言をもらしたくもなる。昨日のは救いようのない事件だった。俺にとっても、こいつにとっても。これから目を覚まして、が出てくるかはまだわからない。けれどもどのペーターが出てきたところで、その顔をまともに見られる自信が、今の俺にはない。


 やり場のない思いを抱えて壁のドレスを眺めているうち、問題をさらにややこしくする要素があることに思い当たった。昨夜の有様から考えるに、おそらくこいつはあの一連の出来事を覚えてはいないだろう。つまりペーターにしてみれば、鬼ごっこを終えてこの部屋に戻り、眠くなってこのベッドに横になったところで記憶が終わっているのだ。そんな彼女がいま起きて、裸に近い格好で布きれにくるまっていることに気づいたらどうなるだろう? あまつさえショーツの内側にあてがってあるに気がついたら……。


「……」


 振り返って後ろを見た。ペーターは相変わらず無垢そのものの寝顔で惰眠を貪っていた。向かいの壁に向き直ってドレスを見た。そのドレスを、彼女が起きる前に身に着けさせることを考えて――だがすぐに頭を振ってその考えを追いやった。裸の手を取り足を取り着せている間にもし彼女が起きでもしたら、それこそ目も当てられないことになる。……それにいずれにしたところで、だけはどうすることもできない。この明るい中でショーツを降ろして、血塗れのを取り除くことはできない。俺のためにも、当然こいつのためにも。


「……どうでもいいや。もう」


 つらつらと思いあぐんでいるうちに、いい加減ばかばかしくなってきた。どう繕おうとも、やってしまったことを帳消しにはできない。それに、俺はあの状況で最善を尽くした。必死に考えて自分にできる限りのことをやったのだ。それがなぜこんな下らないことで悩まなければいけない? あとはもうどうにでもなればいい。どの道それは、俺とこいつの間の問題でしかないのだ。


「……そうだよな、結局」


 そこまで考えて、少し気が楽になった。……俺とペーターの関係についていえば、もう完全に壊れているからだ。昨日一日を思い返してみても、まともな会話は一つとしてなかった。どう転んだところで、これ以上悪くなりようがないのだ。


 それよりもこれからどうするか、それを考えるべきだと思った。そう、実際のところこいつが目を覚まして持ち上がってくるのは、まずそっちだ。目を覚ましたペーターにどうやってあのドレスを着せるか。……どう言ってを新しいものに取り替えさせるか。予想もつかない気持ちの問題に思いを巡らすより、現実問題としてそのあたりをどうするか、色々なケースを想定してうまくことを運ぶための計画を練っておいた方がいい――


『……グゥ』


「ん……」


 ――不意に腹が鳴った。そういえば昨日の夜は城の中をさんざん走り回ったあげくにあの騒ぎで、何も口にしていなかった。部屋の真ん中に目をやる。二本残ったペットボトルとカロメもどきは昨日のままそこにあった。……これで今日一日は保つとしても、明日からはどうすればいいのだろう?


 と、ペットボトルの隣に小さな黒い筒が転がっているのに気づいた。昨日のデリンジャーだった。寝台を立って拾い上げ、また元の場所に腰をおろす。精巧な象眼の施されたそれには見覚えがあった。あの模型屋で店主の老人からもらったモデルガン――二度までも俺を撃ち、最後に彼女自身を撃った因縁の銃だった。しばらく眺めたあと、俺はそれをジーンズのポケットに収めた。そうしてまた腿の上に肘を立て、組んだ指の合間から深い溜息をこぼした。


 ……考えなければならないことは山積みだった。下らないことで悩んでいるような暇は今の俺にはない。刻一刻と強くなってゆく陽射しと、それにつれて上がりゆく気温を肌に感じながら、とりあえずあの中庭にデーツを拾いに行こうと、ふとそう思いついた。


 この廃城で唯一、自給自足の可能性があるものといえばあのデーツだ。それにあのデーツはいざというときにペーターを懐柔するための道具になりうる。そう思い立ちあがったところで、またベッドがぎしりと鳴った。後ろを振り向いてペーターを見る。けれどもその天使のような寝顔に、眠りから覚める様子は微塵も見えなかった。


◇ ◇ ◇


 ――中庭は思った以上に暑かった。炎天のもとに地面は灼けるようで、何より陽射しそのものがそこに立ち止まることを許してはくれない。それでも、小走りに駆けこんだナツメヤシの木陰はまだ朝の涼しさをわずかに残していた。降り注ぐ木洩れ陽に目を細めたあと、足下に目を落として、そこに落ちる乾いた実を拾い集める作業に移った。


 昨日あれだけ拾ったにもかかわらず、デーツは至るところに落ちていた。もっともその半分は見るからに傷んでいたり、指で触れると崩れるほど完全に乾ききっていたりと、口にできる類のものではなかった。俺は地面に落ちている実を拾いあげ、一つ一つ丹念に品定めをした。そうして状態の良いものだけをポケットに入れ、選外品は二度と拾わないように林の外へ放り投げた。


 状態の良いデーツはナツメヤシの根本に多かった。逆に根元から離れた場所にはかちかちに萎びきったものばかり落ちていた。生い茂る葉のひさしを出ればそこはオーブンの中なのだから、当然といえば当然だった。幹の根元には丈の短い草が草むらをつくっているところもある。ただそれが親の足下に芽吹いたナツメヤシの若木なのか、それともちゃっかり間借りした別の植物なのか、そこまではわからなかった。


「……ふう」


 ポケットがいっぱいになったところで俺は実を拾うのをやめ、泉のはたにひときわ大きく葉を茂らせるナツメヤシの根元に腰をおろした。ずっと身をかがめていたせいで腰に鈍い痛みがあった。狭い林といってもこうして這い回るには充分に広い。そこに落ちている実を拾い尽くすにはまだ何日かかかりそうだ。


 風が出てきていた。頭の上に葉々のそよぐ音が聞こえ、木洩れ日が地面に描く光彩が忙しなくその姿を変える。それに呼応するように泉の水面が細かく波立った。水面に映る陽光が踊り、乱反射する輝きがきらきらとまばゆい。


 そんな情景を眺めながら、もう何度繰り返したかわからない疑問がまたぼんやりと心に浮かんだ。……ここは一体どこなのだろう。なぜ俺はこんなところにいるのだろう。答えが出るとも思えない疑問は、けれどもすぐに鳴りをひそめ、代わりに別の問題――答えを出さなければならない差し迫った問題で頭がいっぱいになった。


「……どうすりゃいいんだろうな、本当ほんと


 考えるのは、この廃城でただ一人生活をともにする少女のことだった。隊長に共演を義務づけられた相棒としての《愚者》。そうでなくともこの狭い世界で否応なく向き合わなければならない相手。その相手とどう向き合っていけばいいのか――昨日一日で、俺はその方向を完全に見失ってしまった。


 もう劇も何もない。そう思って深い溜息をついた。ややもすれば忘れてしまいそうになるがここは劇の中、舞台の上ということらしい。そうわかってはいても、俺には演技を意識することはおろか、まともに立ち振る舞うことさえできない。物語の筋も演出の意図も、自分の役も相手の役も、何一つ見えない。……そんな状況で劇も何もない。れと言う方がどうかしているのだ。


『もしそれができなければどうなるか。君にはわかるはずだ』


「……壊れればいいだろ、勝手に」


 投げやりな気持ちで吐き捨てた。世界が崩壊するというのなら、勝手に崩壊すればいい。俺がことでそうなるなら、今すぐそのさまを見せてほしい。一瞬、本気で期待した俺の気持ちとは裏腹に、目の前の光景は微動だにしなかった。……当然の話だった。役者が落ちることで劇の世界が壊れるというのは、ただの比喩だ。実際にはありえない。俺一人演技を放棄したところで、世界が音を立てて崩れ落ちるなどということが起きるわけがない。


「……いずれにしたって」


 結局、当面の問題に戻る。劇のことはともかく、とりあえず何とかしなければならない問題が二つある。一つはあいつのこと。そしてもう一つは水と食糧の問題だ。


 ……現実を考えればそっちの方がはるかに深刻かも知れない。ここに落ちているこれでしばらく飢えをしのげたとしても、果物からは塩分が摂れない。塩分が摂れなければいずれ身体に不調をきたすのは目に見えている。何より水。水をどうにかできなければ数日で死ぬのが、生物としての俺たち人間にとっての動かしがたい現実なのだ。


「ないわけじゃないんだけどな、水も」


 眩しい輝きの踊る水面を眺めて、そう独り言ちた。水はここにある。だが、このままでは飲めない。いや、正確には飲めるかどうかわからない。この飲めるかどうかわからない水を安心して飲める水に変える方法。あいつと揃って木乃伊ミイラになる前に、それを何とかして考え出さなければならない。


 そこでふと、昨日もこうして泉を眺めながら同じことを考えていたのを思い出した。道具のない中で蒸留の方法に思いを巡らせ、諦めて帰ってみればペーターがペットボトルの水をごくごくと飲んでいた。


 ……あいつはいったいどこからあれを持って来たのだろう。昨日のあれで全部なのだろうか、それともまだ残りがあるのであろうか。残りがまだあるとして、どうすればその在処ありかを聞き出せるだろうか。……その前にとにもかくにも目を覚ましたあいつにドレスを着せ――に関する話も、場合によっては避けて通るわけにはいかない……。


「……何でこんなことになってんだろ」


 本当に、なぜこんなことになっているのだろう。つい先日まで俺はあの町で理想の舞台を胸に、必死になって練習していた。それが今、こんな砂漠の真ん中で飲み水と女の生理という夢も希望もない問題に頭を抱えている。……しかもその間に矛盾はない。状況を総合するに、こここそが練習で目指していた場所――隊長の言葉を借りれば、俺がかねてより望んでいた劇の中の世界で、今のこれが俺の理想としていた、その世界に完全に没入できる演技ということなのだから……。


「……暑いな」


 額からの汗が頬を伝い、首筋に流れていった。気がつけば本格的に暑くなっていた。木洩れ日が地面に描く斑模様も、いつの間にか燃え立つほどに濃く、深くなっている。そろそろ引きあげる頃合いだった。デーツという目的はとげたのだし、もうこれ以上ここにいる意味はない。


 ――そうしてまた振り出しに戻る。あの部屋に、あるいはもう目を覚ましているかも知れないペーターの問題に帰る。再び堂々めぐりをはじめようとする頭を振って、俺はその考えを追いやった。……考えてもどうにもならない。正面から向きあって、あとはあいつの出方に合わせる。俺にできるのはそれだけだ。その先はなるようにしかならない。


「……それでいいだろ」


 どれだけ悩んだところで、どうせなるようにしかならない。それなら何も考えずに、成りゆき任せでいった方がいい。……それでいいと思った。どうにでもなればいい。どの道それは、俺とあいつの間の問題でしかない。演出にどんな意図があってか、今この舞台に立っているのは俺とあいつだけなのだし、俺とあいつの関係はもう、ずっと昔に壊れているのだ。


 そう思って立ちあがる俺の髪を、一陣の風が掻き撫でていった。にわかにさんざめく水面の光彩が目を射た。瞼を閉じかけたところに二度目の、今度は砂混じりの強い風が吹いた。口の中にまで入ってこようとするそれをどうにかやり過ごし、興をそがれた思いで城の中に逃れた。

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