046 愚者と兵隊(5)

 ……何が起きたのかわからなかった。ただ何か熱いものが右頬をかすめていったことを他人事のように感じた。


 ペーターの顔からは表情が消えていた。ぼんやりとした表情のない顔のまま、デリンジャーの銃口が彼女自身に向けられようとするのを見た――


「……っ!」


 反射的に飛び出した。彼女の細い指が剥き出しのトリガーを引き絞る直前に、その小さな銃をもぎ取って床に投げ捨てた。拾い上げようと身をかがめる彼女の腕を掴み、背を立たせた。空いている方の手で頬を張ろうとして――どうにかそれだけは思い留まった。


「……どうして」


「あ?」


「……どうしてですか?」


「どうして!? どうしてもこうしてもあるか!」


 思わず大きな声が出た。腕を掴まれたままの彼女は、俺の前で小さく身を竦ませた。そんな彼女に構わず、俺はなおも続けた。


「ふざけるのもいい加減にしろ! いったいどういうつもりだ! こんな銃だって当たり所が悪けりゃ死ぬんだぞ! ましてさっきみたいに自分に向けて至近距離で撃ったりしたら!」


 彼女はただ黙っている。俺の剣幕におびえているのかも知れない。けれども口をついて出る言葉を抑えることはできなかった。堪えていたものをすべて吐き出すように、大声で俺は捲し立てた。


「俺は《兵隊》なんだろ? おまえを守るための! だったら何で俺に向けて撃ったりするんだ! 何で俺の前で自分を撃とうとするんだ! おまえがやってることは滅茶苦茶だ! それともひょっとして当てつけか? そうだろ、とまるで一緒だったもんな! いいか、この際だから言っておくがな、のことなら逃げも隠れもしない! だから回りくどいことせずにはっきりそう――」


 そこまで言ってしまってから、自分が感情に任せて言ってはならないことまで口にしてしまったことに気づいた。そう……それは何があっても口にしてはならないことだった。愕然としてペーターを見た。彼女は腕を掴まれたまま、きょとんとした不思議そうな表情でじっと俺を見ていた。


「ごめん、俺……」


「したいんですか?」


「え?」


「したいんですね?」


「……」


「私の中に入りたいんですね?」


 あどけない表情のまま小首を傾げ、ペーターはそう言った。その拍子に俺は手を放してしまった。刹那、ペーターは俺の手を振り払って逃れ、少し離れたところに立ちこちらに向き直った。


「ずっとわかっていましたよ、あなたが僕をそうしたがっていることは」


「……」


「あなたはずっと僕をそういう目で見ていましたものね。うわべは取り澄ましたように、いかにも興味のなさそうな顔をして、けれども心の中ではいつも僕をそういう目で見ていた」


「……」


「気づいていないとでも思いましたか? あなたがいつもこのドレスの下にあるものを思い描いていたことを。気づいていないとでも思いましたか? あなたがこのドレスを引き裂いて僕のことを欲しいままにしたくて堪らないでいたことを。そんなことはずっと前からわかっていました。そう、初めてあなたにお会いしたときから」


「……ペーター」


「すればいいじゃないですか、回りくどいことをせずに。逃げも隠れもしませんよ、どうせ咎める者とていないんです。思う存分そうすればいい。この僕の身体をほしいままに貪ればいい。さあ、どうしたんですか? 今さらになって怖じ気づいたんですか?」


「ペーター」


「ほら、何を躊躇っているんですか。どうせあなたはそうするんです。賭けたっていい。あなたはすぐに逆上して僕に襲いかかるんだ。叫んで逃げ惑う僕を追いかけて、この服をみんな脱がして、そうして生まれたままの姿になった僕の身体を――」


「ペーター!」


 堪らずに叫んだ。びくっ、と小さく身体を竦ませてペーターは喋るのをやめた。そうして憑き物が落ちたような表情でこちらを見た。ゆっくりと腕があがった。右手の人差し指をこちらに向けて、おもむろにその名前を告げた。


「ハイジ」


「え?」


「あなたはハイジ、ですね?」


「……」


「ハイジ、ハイジだ。あなたはハイジですね!」


 それだけ言うとペーターは唐突に笑いはじめた。不意に、昨日の記憶が脳裏に蘇った。俺の名前を呼び、笑いながら部屋を逃げまわる彼女の姿がありありと思い浮かんだ。そして――目の前の光景がその記憶をなぞった。


「あはっ、ハイジ。あははっ、ハイジハイジ!」


 笑いながら部屋の中を駆け回るペーターを呆然と見守った。俺はもう何もわからなかった。目の前で何が起こっているのかまったくわからなかった。


 ――なぜ俺のことを《兵隊》などと呼んだのかわからなかった。なぜ俺に向けて銃を撃ったのかわからなかった。なぜ情欲を煽るようなことを口にしたのかわからなかった。……なぜまたこうなってしまったのかまるでわからなかった。


「あははっ、ハイジ! あはははっ、ハイジ! ハイジハイジ!」


 完全に昨日の焼き直しだった。ここへきて時間が一日分巻き戻された、そんな感じだった。実際に時間は巻き戻されているのかも知れない。真面目にそう思えてしまうほど、目の前のペーターは昨日の彼女そのものだった。


 走っては立ち止まり、思い出したように俺を見てハイジと呼んで笑う。そしてまた走り出し、立ち止まってはまた走る。その繰り返しだった。そんな気狂いじみた振る舞いを、ただ延々とペーターは繰り返した。さっき整然とした言葉で俺を諭したときの面影はもうそこにはなかった。俺を《兵隊》と呼んだ彼女も、おいしそうにデーツを囓る彼女も、もうそこにはいなかった。


「……ペーター」


「あはははっ! ハイジ! あはははっ! ハイジハイジ!」


「……っ! ペーター!」


 そこで俺はついに感情の手綱を手放した。こみあげてくる衝動のままペーターに向かい駆け出した。だが彼女はまるで俺がそうすることをわかっていたように身をかわし、手の届かないところまで逃げてまた俺を指差して笑う。


「ハイジ! あはっ! ハイジハーイジ! あはははっ!」


「くそっ! 待て、ペーター!」


「あはっ! あはっ! あはははっ!」


 螺子が外れたように笑いながらペーターは逃げる。俺の手が触れるすれすれのところをくぐり抜け、寝台に飛び乗り土埃をまき散らして、踊るように逃げる。むきになって追いかけるほどペーターは笑い、その笑い声を聞くほどに俺は一層むきになった。なぜ自分がそんなばかげたことをしているかわからなかった。わからないまま息を切らして、必死になってペーターを追いかけた。


「あはははっ! ハイジ! ハイジハイジハーイジ!」


「くそっ! いい加減にしろ!」


 気がつけば俺たちは『王の間』を出ていた。光の届かない回廊。一歩先も見えない真っ暗闇のそこに、また昨日と同じ不毛な鬼ごっこをはじめていた。自分がどこにいるのかわからなかった。何のためにこの闇の中を駆け回っているのかわからなかった。ただ一つ漠然とわかったのは、たとえどれだけ追いかけようと俺がペーターを捕まえることはできないということで、それでも俺は歯車が外れたように、大きくなり、また小さくなる彼女の声を追って、漆黒の回廊を闇雲に走り続けた――


◇ ◇ ◇


 ――ペーターの声が聞こえなくなったあとも、俺は鬼ごっこをやめなかった。立て続けに彼女の名前を呼びながら夜の城を駆け巡った。城壁をまわり、中庭をまわり、昼間に歩いてまわったすべての場所を汗まみれになって走り続けた。そのうちさすがに疲れ切って歩きはじめたが、なおも諦めずにペーターを捜し続けた。


 我に返ったのは真夜中だった。崩れた天井から覗く月の位置でそれをたしかめ、鬼ごっこはもうとっくの昔に終わっていたことを知った。その場に倒れこんでしまいたいほど全身疲れ切っていた。ばかなことをしたという後悔を噛み締めながら、とぼとぼと覚束ない足取りで『王の間』に向かった。


「……いい気なもんだな、まったく」


 『王の間』に戻ると、ペーターは寝台で眠りに就いていた。一瞬、絞め殺したい衝動に駆られたが、そうする代わりに俺はその場にへたりこんだ。喉がからからに渇いていた。けれどもペットボトルのところまで這っていく、その気力さえ俺にはなかった。


 不思議と気分はすっきりしていた。さっきまで俺を駆り立てていた苛立ちは綺麗に消えていた。全力で走りまわったためだろうか。それとも、疲れ果てて何も考えられないだけかも知れない。……たぶんそっちだろう、実際、俺は立ち上がれないほど疲れ切っている。もう何も考えたくない。今はただ泥のように眠りたい。


「で……どこで寝るんだ?」


 ……考えなければいけないことが一つだけ残っていた。正直、このままここで眠ってしまいたい気分だが、明日の朝、後悔するに決まっている。昨日のように布きれを敷いて寝ようか……それともいっそ寝台の隅にでも寝かせてもらおうか。そう、それがいいかも知れない。あれだけ広い寝台なら、もう一人くらい横になったところで何の問題も――


「……ないわけないだろ」


 ……そんなことができるわけがない。仕方がない、また昨日のように布きれを敷いて寝よう。そう思い立ち上がった。寝台に近づいてその上に丸まっている布きれをつまみあげようとし――そこではじめてペーターの異変に気づいた。


「……?」


 眉間にしわを寄せ、頬を紅潮させてペーターは喘いでいた。薄闇の中にも、その顔が苦痛に歪んでいるのがはっきりと見てとれた。明らかに様子がおかしかった。


「ペーター」


 呼びかけに返事はなかった。はやる気持ちを抑え、かがみこんで額に手を当てた。熱はない……平熱よりほんの少し高いくらいだろうか。


「……!」


 そのとき、鼻をついた臭いに全身の毛が逆立った。どこか生臭い濃厚な鉄の臭い――それは紛れもなく血液の臭いだった。


 俺の頭に、再び舞い戻ってくる映像があった。


「……っ! ペーター!」


 矢も楯もたまらずその身体を抱きかかえた。胸に血は……染みていない。……他のどこにもそれらしき血の痕はない。けれどもたしかに血の臭いはする。いったいどこから……。訝しく思いながらひとまずペーターを寝台に横たえた。その身体と寝台の間から腕を抜いて――ぬるりとした感触があった。


「……?」


 腕を顔に近づけて見た……暗くてよくわからない。その腕を高く掲げ、月明かりに晒してみた――赤かった。天井の破れ目から漏れる月明かりの下に、赤黒い血にまみれた自分の左腕を見た。


「なんだ……これ」


 ――前ではなく背中。思ったが早かった。仰向けに寝ていたペーターの身体を転がし、うつぶせにさせた。……そこで俺は固まった。息さえも止めてその染みに見入った。血痕はあった……ドレスの、ちょうど脚のつけ根にあたる部分に。


「……」


 何かがとはまった気がした。それと同時に冷たい汗が一筋、すっと背筋を流れていくのを感じた。なぜ血の臭いがするのかわかった。……なぜそんな場所に染みができているのか、わかりたくないがわかった。


「……ペーター。おい、ペーター」


 身体を仰向けに戻して呼びかけた。軽くその頬を叩いてもみた。けれども彼女は目を開けない。苦しげに眉をしかめ、熱っぽい吐息を漏らしているだけだ。


「……」


 ……冷や汗がだらだらと垂れてきた。このままにしておくのはまずい気がする。だからといって何をどうすればいいのか全然わからない。てっとり早いのはこいつの目を開けさせることだ。そう思い、頬を張るために大きく右手を振りかぶった……。


「……けど」


 けれども――駄目だ。今のこいつが目を覚ましたところでまともな会話になるはずがない。だとしたらここは俺がどうにかするしかない。たしかこういうときの手当てというのは清潔にして、薬局で売ってるああいうのを当てて……。


「……」


 ……まただらだらと冷や汗が垂れた。やっぱり起こそうと肩を揺すり、二度、三度呼びかけてもペーターは起きなかった。いや――駄目だ。そう、起こしては駄目なんだ。慌てて肩から手を放して、そこでまた固まった。


「……放っておいてもいいんじゃないか?」


 ふと思い浮かんだことをあえて言葉にした。……だがそうすることで、逆に放っておいてはならないことを理解した。とりあえず服は脱がすしかない。こんな小汚いドレスでも代えのない一張羅の衣装なのだ。下着にしても……履いているのならどうにかするしかない。血で汚れた身体もそのままにしておくわけにはいかない。……やるしかない。結局、俺がそれをやるしかない。


「ああ……くそっ!」


 乱暴に頭を掻きむしり、どうするべきか考えた。まずは服を脱がすこと。次に、を清潔にすることだ。病原菌が入ったりすると厄介なことになるとの授業で習った。この不潔な環境では何が起きてもおかしくない。まずそれだけはどうにかしないといけない。


 それからに何かを当てること。せっかく洗ってもまた垂れ落ちてきたのでは意味がない。だがここには薬局もコンビニもないから間に合わせで何とかするしかない。ここにあるもので使えそうなものと言えば――


「……」


 床に散らばっていたカロメの空き袋を拾い上げた。ごわついた厚手の生地はそれなりに水を吸ってくれそうだ。……その袋を力いっぱい握りしめ、腹の底から深い溜息をついた。


 寝台に向き直り、立ち膝で乗った。そのまますり足で近づき、ドレスの裾に手をかけた。目を閉じて歯を食いしばり――薄目を開けてゆっくりとまくりあげた。月明かりを遮るドレスの陰……両脚の間の翳りに、赤黒い色に染まった下着が覗いた。


 嗅ぎなれない臭いがむっと鼻をついた。もう一度、俺は目を閉じて歯を食いしばった。それからまた一つ溜息をつき、目を開いて薄汚れたそのドレスを脱がしにかかった。


◇ ◇ ◇


 ――小一時間後。俺はぼろ雑巾のように寝台に持たれかかっていた。壁にかかったドレスが水滴を落としながら月明かりに揺れている。当の姫君は布きれにくるまって、だいぶ落ち着いた寝息を響かせている。


 ドレスは中庭の泉で洗った。……血塗れの下着も同じところで洗った。汚れた身体――その部分を洗うのにはペットボトルの水を使った。清潔な水といえばそれしかなかったからだ。それで一本使い切り、ペットボトルは残り二本になった。だが……どうでもいい。そんなことはどうでもいい。


 生理用品は、結局カロメの空き袋を使った。両手で丹念に揉みほぐし、何枚も重ねてその部分に当てた。その上から洗いたての下着をかぶせて、それでとりあえずどうにか形になった。……正しい処置だったのかわからない。それが俺の精一杯だった。


「ん……ハイジ」


「……」


 寝言で俺を呼ぶ声が聞こえた。……そんなのはもうどうでも良かった。思わず頭を抱えようとして――手に残る経血の臭いにぐったり腕を降ろした。……もうどうでもいい。何も考えたくない。


「隊長」


 かすかな恨みをこめてその名前を呟いた。恨みと、やり場のない疑問の答えを求めて。……もしここが本当に劇の中の世界だとするなら、隊長。あんたはいったい何を思って俺にこんな泣きたくなるような演技をさせるんだ――

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