045 愚者と兵隊(4)
「……さすがに暑いな」
陽の光が浸み入る回廊を歩きながら、俺は思わず呟いた。
ペットボトルの蓋を開け、中の水を少し口に含む。影の長さからすると時刻は午後二時か三時といったところで、暑いのも当然だった。中庭で太陽の照りつける中に感じたような暑さではないが、それでも歩いているだけで汗が滲んでくる。滲むだけでたれてこないのは量が少ないからではなく、乾燥した大気の中にはしから蒸発していってしまうからだ。
――噛み合わないペーターとの会話を切り上げたあと、俺は城をまわってみようと思い立った。昨夜と今朝とで中庭に出るまでの経路は把握したが、逆に言えばそこしか把握できていない。これからどれだけ過ごすことになるかわからないが、いずれにしてもこの城を知っておいて損はない。……場合によっては、また夜に駆け回るはめにならないとも限らないのだ。
ペーターは『王の間』に残った。一応、ついてくるかと尋ねたのだが、「仕事がある」と言って動かなかった。……ここで彼女にいったいどんな仕事があるというのだろう。聞いてみたい気もしたが、結局そうせずにそのまま部屋をあとにした。
飲みかけのペットボトルを片手に廃城の中を巡った。激しさを増した太陽の光のもとに、城の内部はようやくはっきりとその容貌を晒していた。そんな中、俺は壁に目印をつけることもせず、ただ闇雲に歩いてまわった。時間だけは充分にあるし、何となくそうしてみたかったのだ。
――城はわずかに小高くなった丘の上に建っている。その丘を取り巻くように城壁が巡らされ、落ち窪んだところにナツメヤシの茂る中庭がある。城壁の全周は1キロか2キロ程度。この手の城塞の規模として大きいのか小さいのか、そのへんまではわからない。
城は荒野に孤立していて、周りには何もない。住居がまったくなく城だけぽつんとあるというのは不自然にも思えるが、軍事上の理由でどうしてもここに城が必要だったということなのかも知れない。城の周りには本当に何もない。ただどこまでも果てしなく荒涼とした大地が広がっているだけだ。
城は煉瓦で作られている。壁から天井まですべて同じ煉瓦でできている。やはり
部屋は幾つあるかわからない。と言うよりも、幾つあるか数えることができない。廊下と部屋の間にはっきりとした区切りがなく、全体が大きな一つの部屋であるとも言えるし、長い廊下であるとも言える。その中にあってあそこだけは例外的に部屋としての体裁をとっていることを考えれば、『王の間』というのもあながち間違いではないのかも知れない。
壁はあちこちで崩れ、風化が進んでいる。崩れた煉瓦に道が塞がっているところや、天井が落ちて瓦礫の山になっているところもある。いつの時代の遺跡なのかはわからないが、保存する価値はないということなのだろうか。もっとも、もしここが本当に劇の中の世界だとすれば、保存する価値も何もないような気もするが――
「……ふう」
どれくらいそうして歩きまわっただろう。一通り巡り終えたと思えたところで、俺は中庭に足を向けた。すでに夕暮れだった。遙かな地平に連なる西の空が、その裾からゆっくりと豪奢な
「……綺麗だな」
思わずそんな言葉が漏れた。淡く染まりゆく空を背に、ナツメヤシの林は粛然と夜の訪れを待っているように見えた。気温は急速に下がりはじめていた。もうあの椰子の下に日陰を求める必要はない。
「……」
空はゆっくりと赤みを深めていき、ナツメヤシの濃緑は次第に黒く、まるで影そのもののような色に変わっていく。
「……」
俺はなぜここにいるのだろう。――光と影に彩られる砂漠の黄昏を眺めながら、ふとそんなことを思った。なぜこんなところにいるのだろう。何のために俺はここにいるのだろう……。
――その答えはわかっている。俺は演劇をするためにここにいるのだ。隊長が口にしていた『残酷演劇』という舞台。ここはその舞台のために用意された装置で、俺はその舞台に送りこまれた役者だ。信じられない話だが、信じるしかない。どういう絡繰りになっているかわからないが、実際にこうして俺はその装置の上にいるのだ……。
「……演じろったって」
何をどう演じればいいかわからない。それが率直な気持ちだった。これが舞台の中の世界だとすれば、俺はもうそこで演技をはじめているということになる。けれども俺には自分の役がまったく掴めていない。この空っぽの世界でどんな役を演じればいいか、その小さなヒントすら見えてこない。
『今の説明で私は君に、素のままの演技でいいと言った。しかしそれはあくまで最初だけだ。舞台の幕が開いたら君は否応なく演じ始める。そうして一度演じ始めたら、君はその役割を最後まで演じ切らねばならない』
「……最初っていつまでだよ、隊長」
虚しい問いかけは黄昏の薄闇に溶けた。演じはじめるも何も、ここにあるのはこの城と砂漠、あとはペーターくらいなものだ。
『その彼女に対して、君には保護者を演じてもらう。ただ一人の理解者であるとともに、降りかかるすべてのものから彼女を守る騎士である、そうした役割を演じてもらいたい』
「……そう言われてもな」
そこまで考えて、一番心にかかっているのがそれなのだということに気づいた。この世界で《愚者》に――ペーターにどう接していいのかわからない。自分の役割がわからないのと同じように、あいつがどんな役割をもって演じているのか、まるでわからない。ましてやあんなことがあったあとに――
そうして俺の脳裏に、あの嵐の夜の出来事が再びフラッシュバックする。
「……」
――どうやらあのときのことは忘れた方が良さそうだ。いや、何としても忘れなければいけない。今朝ペーターと話してみて実際わからないことだらけだったが、ただ一つわかったのは、あいつの方ではもうそれを引きずっていないということだ。向こうの記憶がないのか、それともあるのにない振りをしているのか、そのあたりはわからない。どちらにしてもあいつは土曜日のことなどなかったように、まっさらな気持ちでこの舞台に臨んでいる。そんな彼女に俺の方で水を差すことはできない。
「……それにしたって」
演技の方向が見えない。あのペーターと二人では間が持たない。あの部屋を出てきたことにしても、城の中を見てまわるという建前こそあったが、体よく逃げ出してきたようなものだ。あいつの演じる《愚者》との掛け合いは数え切れないほど繰り返してきたが、それはあくまで他の二人がいることを前提にしてのものだ。……そもそも《愚者》の演技は秩序ある流れを無秩序で乱すアクセントであって、単独で成立しうるものではない。そんなことはシェイクスピアを読むまでもなく、戯曲の何たるかを考えればすぐにわかることだ……。
「……まあ、けど」
いずれにしても
「……戻ろう」
自分に言い聞かせるように呟いて立ちあがった。空は地平に一本の紅い帯を残して深い藍色に変わっていた。また夜が来る。ここへ来てからもう一日が経とうとしている。そう言えば昨日の夜、この中庭から仰ぎ見たあの部屋の窓に、ペーターが顔を出していたのだった。そんなことを思い出して、俺はまた同じように『王の間』を振り仰いだ。
――城の頂から二羽の鳥が競うように飛び立っていくのが見えた。
鳥たちは消え入ろうとする地平線に向かい真っ直ぐに羽ばたいていき、すぐに見えなくなった。
「……鳥?」
時間遅れの反射のように独り呟いた。狐につままれたようにしばらく動けなかった。『王の間』の窓にペーターの姿はなかった。薄闇の中に立ち尽くす俺を、黒々とした廃城が無言で見下ろしていた。
◇ ◇ ◇
『王の間』にペーターはいなかった。ただ星の瞬きはじめた夜空が壁の破れ目から覗いているだけだった。寝台の傍には俺がデーツと引き替えに手に入れたものがそのまま残されていた。空のペットボトルもカロメの空き袋も、俺が出ていったときのままだった。
「どこ行ったんだよ……ったく」
にわかにこみあげてきた苛立ちに任せて、寝台に身体を投げた。ばふっ、と音がして濛々と土埃があがった。咳が出そうになるのを堪えて埃が落ち着くまで待った。……いったい何てところで寝てるんだあいつは。そんなことを思いながら、頭の下に両
「……」
昼の暑さが嘘のように、ひんやりと肌寒かった。――あいつはどこへ行ったんだろう。心の中でもう一度そう思った。夜の帳はもうすっかり降りている。窓のない廊下は一歩先も見えないほど真っ暗な闇の中にある。そんな闇の中でペーターが何をしているのか、しきりにそれが気になった。
昨夜のことを考えれば心配はいらない。その闇の中を自由に駆け回れるほど、あいつはこの城に慣れている。……そう思ってみても苛立ちは消えなかった。その苛立ちがどこから来るのか考えて――考えるまでもなく答えはそこにあった。
「……」
ペーターが何を考えているかわからない。言葉にしてしまえば、ただそれだけだった。……ただそれだけのことが、今の俺にとってはどこまでも重く苦しかった。
「あいつが何考えてるかわからないんじゃ、演技のしようがない」
喉から絞り出すように声にした呟きは、けれども嘘だった。俺が苛立っているのは、この舞台でどう演技していいかわからないからではない。ただペーターが何を考えているかわからない。それだけが理由で俺はこうして苛立っているのだ。
「……」
そうして苛立ちはその矛先を俺自身に向ける。結局、俺は引きずっている。『あちら側の世界』のことを忘れることができないでいる。何を考えているかわからないから――それは言葉を変えれば、すれ違っているから、ということだ。どこかで噛み合っていないから、これまでと何かが違ってしまっているから。突き詰めていけば、苛立ちの根っこにあるものはそれだった。
「……」
……そして結局はあの夜に行き着く。あの嵐の夜にペーターを損なってしまったことを、俺は思い切ることができないでいる。……思い切ることなどできるはずがない。
「……っ!」
まるで昨日の焼き直しだ。そう思って俺は寝台から跳ね起きた。……この寝台に寝ころんで思索に耽って、こうして跳ね起きるところまで一緒だ。たしか昨日はこのあと、入り口を見たところで――
「……」
――そこに、彼女はいた。通路の暗闇と部屋の薄明かりとの境。ちょうど部屋に入るか入らないかの場所に、ぼんやりとした表情のペーターが立っていた。……本当に昨日の焼き直しだ。そう思って口を開きかけた俺の耳に、昨日と同じ彼女の声が届いた。
「誰ですか?」
「……!」
「あなたは、誰ですか?」
「……っ」
……まただ。また昨日と同じだ。
折からの苛立ちが一気に膨張し……だがすぐ急速にしぼんでいった。ここで俺が爆発したら完全に昨日の焼き直しだ。また彼女を追いかけてあの闇の廊下を駆け回ることになる。そんなのはまっぴらだった。
「……ハイジだ」
「え?」
「俺はハイジだ」
そう言って身構えた。どんな反応が返ってきても受け止めようと思った。昨日の二の舞にだけはしたくなかった。――だがペーターから返ってきたのは、まったく予想もしなかった答えだった。
「違いますよ」
「え?」
「あなたはハイジじゃありません」
「……」
「あなたはハイジじゃありません。なのに、どうしてそんなことを言うんですか?」
薄闇に覗くペーターの顔はいつの間にか真摯なものに変わっていた。その真摯な表情で、断定するようにペーターは告げた。あなたはハイジじゃありません。なのに、どうしてそんなことを言うんですか?
「じゃあ……俺は何だ?」
ほとんど茫然自失のまま口が動いた。そんな間の抜けた俺の返事に、慈しむような笑みを浮かべてペーターは言った。
「私のための《兵隊》です。違いますか?」
「……!」
「あなたは《兵隊》です、私を守るための」
「……」
「そのはずじゃないですか。違いますか?」
「そう……だった」
金槌で頭を殴られた気分だった。ペーターの言う通り、俺はハイジではなく《兵隊》だった。あの日曜のホールで隊長にその役を与えられ、言い含められてここへ送られてきたのだ。そこで俺は《兵隊》を演じるのだと……廃城に孤独に暮らす少女を守るための保護者であり、騎士である《兵隊》を演じるのだと。
「……そうだった。俺は《兵隊》だった」
「そうです。あなたは私のための《兵隊》です」
「そうだ……俺は君のための《兵隊》だ」
「その通りです。どうしたのかと思いましたよ。いきなりあなたが変なことを言い出すものだから」
そう言いながら彼女は部屋の中に入ってくる。その言葉は滑らかで、まるで俺を諭すように理路整然としている。昨日ここで狂態を演じたのと同じ人間とは思えない。それとも、こちらが本当の彼女ということなのだろうか……。
「ああ……申し訳なかった。来たばかりで混乱していたんだ」
「ほら、またそんなことを言いはじめる!」
「え?」
「どこから来たと言うんですか? あなたは私とずっとこのお城にいたのに」
「……」
「ずっと一緒にこのお城にいましたよ? そんなあなたが、いったいどこから来たと言うんですか?」
説教めかして指を立ててそう言う。それで俺はまたわけがわからなくなった。……ただ、これはたしか昼間にも聞いた。俺はずっと一緒にこの城にいたと彼女はそう言っていた。ここは話を合わせておいた方が良さそうだ。そう判断して慎重に言葉を選んだ。
「そう……そうだったな。いったい俺はどうしたんだろう。この暑さでやられたのかも知れないな」
「しっかりして下さい。私にはあなたの他に頼れる人なんていないんですから」
「……ああ、わかっている」
「鳥は飛ばしましたよ」
「え?」
「鳥はさきほど飛ばしました。私は次に何をすればいいんですか?」
「……」
そこで、俺は完全に落ちた。どう答えていいのかまったくわからなかった。鳥? さっき中庭で見た鳥のことだろうか? それがいったいどうしたというのだろうか? 彼女は俺に何を聞きたがっているのだろうか?
「さあ、教えて下さい。次に私は何をすればいいんですか?」
「……」
真剣な表情で問いかけてくる彼女に、何の答えも返せなかった。何を聞かれているのかさえ、まったくわからなかった。……これはもう駄目だ。投げるしかない。そう思った刹那、日曜のホールで隊長にかけられた言葉が脳裏に蘇った。
『もしそれができなければどうなるか。君にはわかるはずだ』
「……!」
全身の毛が逆立った。ここで投げてはいけない。たとえどんなことがあっても、この舞台で演技を投げてはいけない。そう思って必死に台詞を探した。どうにか見つかったそれを一息に吐いた。
「俺にもわからないんだ」
「え?」
「次に君が何をすべきか、俺にもよくわからない」
「……」
「この先のことは聞いていないんだ。だから次に君がなにをすればいいか、そのあたりは俺にもよくわからない」
今度は彼女が黙る番だった。しばらく考える素振りを見せたあと、ゆっくりと頭をあげて彼女は言った。
「つまり、私の仕事はもうぜんぶ済んでしまったということですか?」
「……そういうことになるのかも知れない」
「……そうですか」
「俺にもよくわからない。けど――」
「私の仕事は、これでもう終わりですか」
そう言ってペーターは懐から何かを取り出し、腕をもたげ真っ直ぐ俺に向けた。
――ぱん、と乾いた音ががらんどうの部屋に響いた。
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