044 愚者と兵隊(3)

 声のした方に目を向けると、ペーターがじっとこちらを見ていた。さっきまでとは明らかに違う興味津々といった表情で「何ですか、それ」と、もう一度繰り返した。


「それって、どれだ?」


「それ」


「ああ、これのことか」


「そう。ハイジがいま食べた、それ」


「これか。これはだな――」


 そう言って俺は言葉を切り、ゆっくりと間を持たせた。ペーターの反応に思いつくところがあったからだ。食べかけのデーツを真剣な目で見つめ、一口囓った。そうしていかにも美味いものを食べたという表情をつくったあと、会話に戻った。


「これは生命いのちの木の実だ」


「……」


「そういう名前で呼ばれてる食べ物だ。すごく甘くて、おいしい」


 そう言ってまた俺は一口囓り、その甘みをにおいしくて堪えられないといった演技をした。それを見るとペーターは対抗するかのようにカロメを囓った。だがそんなことで俺が組んだプロットを流すことはできない。


「甘くておいしくて、栄養がある。聞いた話じゃ、世界で一番価値がある食べ物ってことだ。これさえあれば、俺は他に何もいらないな」


「……もうないじゃないですか」


「ん?」


「それ食べたら、もうないじゃないですか」


 思い詰めたような顔でペーターはそう言い、まだ中身の入っているカロメの袋を両手で抱えあげる。――うまく針にかかった。俺は内心にほくそ笑みながらジーンズのポケットをまさぐり、そこから三粒のデーツを取り出した。


「残りは……あとこれだけか。ゆっくり大事に食べないとな。一粒一粒味わって。次はいつ手に入るかわからないんだし、この美味しさを口の中に残しておかないと」


 そう言って大切なものを惜しむ目でデーツを眺める演技。充分に溜めたところで、その実をおもむろに口に運ぶ――


「これ!」


「……」


「これ、あげます! だから下さい、それ!」


 見事にかかった。こちらに向けて突き出されたペーターの手にはカロメの袋が握られている。だが、それじゃない。今、俺が本当にほしいものはそっちじゃない。


「交換ってことか? けどなあ、見ての通りこれあと三つしかないんだよ。もう手に入らないかも知れないし、俺としては――」


「じゃあみんなあげますから、これ!」


「……!」


 突然、ペーターが勢いよく立ちあがり、叫んだ。驚いて反応できないでいると、ペーターは思い詰めたような表情で周りのものを次々と指差し、「これも! これも!」と捲し立てた。


「これあげます、みんな! みんなあげますから! あげますから! だから――」


「わかった! わかったから!」


 ペーターの表情の変化に気づき、慌てて締めに入った。不意にそれまでの表情が消え、ぼんやりとした無表情に変わっていくそれは、よく見慣れた『発作』の前兆だった。こんなところで『発作』を起こされたら堪らない。それこそ何もかも台無しになってしまう。


「やるから。ほら、取りに来い」


 投げやりにそう言ってデーツをのせた手を差し出した。ペーターはしばらく動かなかったが、やがて思い出したように駆け寄ると、俺の手にあったものを引ったくってまた元の場所に戻った。それから一粒の実を目の前に持ってきて、宝石でも見るようにじっと眺めている。……完全にハマったようだ。計画通りにはいかなかったが、展開が自分の思い描いたものになったことが何となく満足だった。


「中に種が入ってるから気をつけろよ」


「……」


 そう言うとペーターは弾かれたように俺を見て、それからまたデーツに視線を戻した。そうしてしばらく眺めていたあと、おもむろに口に運び、囓った。神妙に味わう表情、はっとした驚きの表情、目を細めた満足の表情が代わる代わるその顔に浮かんだ。それを見て、俺は思わず吹き出しそうになった。それが中庭に落ちていたものだと知ったら、いったいこいつはどんな顔をするのだろう。


 俺の眺めている前で、ペーターは三つの実を瞬く間に食べてしまった。よほど俺の演技が効いたのか、食べ終わっても満足そうな表情は消えず、ちらちらと何度もこちらの様子をうかがってきた。まだ欲しいといった顔だ。そう理解して俺は次のプロットを練りはじめた。


 さっきはああ言ったが、ポケットの中にはまだ幾つかデーツが入っている。これをうまく使えば、あのペットボトルの一本や二本どうにかなるはずだ。ただ問題はあの三粒で終わりだと言ってしまったことだ。そこを適当にごまかして、これを水と交換するような展開にし向けるためには――


「いらないんですか?」


「ん?」


 不意にペーターから声がかかった。目をやると彼女はきょとんとした不思議そうな表情で俺を見ていた。目が合ってもさっきのように視線を逸らすことはしない。とらえどころのない表情でもう一度「いらないんですか?」と、ペーターは繰り返した。


「いらないって、何が?」


「これですよ。これみんなです」


「……」


「いらないなら、また私のものになります」


「いや! いる、いる!」


 ……新しい筋を考える必要はなかったようだ。さっきのあれで全部うまくいっていたのだ。立ちあがり、近づいてもペーターは昨日のようには逃げず、神妙な目でじっと俺を見つめている。相変わらず何を考えているのかわからないが、無視と警戒が消えた分だけ進歩したということなのだろう。


「じゃ、遠慮なくもらうからな」


 そう言ってペーターの隣に座るや、一番近くにあった飲みかけのペットボトルを掴んだ。本当はさっき見せつけられているときから飲みたくて気が狂いそうだったのだ。思った通り中身はミネラルウォーターだったが、そんなことはもうどうでもよかった。口の端からこぼれた水がシャツの中に入ってくるのも構わず、大振りのペットボトルに半分以上残っていたそれを貪るように一息に飲み干した。


 ペットボトルを口から離して、大きく息をいた。喉に流し入れた水がゆっくりと身体の隅々まで浸みこんでいくのを感じた。ふと我に返ると、すぐ隣から興味深そうにこちらを見るペーターの顔があった。


「おいしかったですか?」


「え?」


「ハイジは、おいしかったですか?」


「……ああ、おいしかった」


 俺がそう返すと、それをどうとったのかペーターは目を逸らし、ぼんやりとした視線をがらんどうの部屋に向けた。それきり何も言ってこない。……いまいち流れが掴めない。そんなことを思いながら俺は二本目のペットボトルに手を伸ばした。


「そっちこそ、どうだった?」


「……?」


「ペーターはさっきのあれ、おいしかったか?」


「はい! おいしかったです!」


 持ちあげかけていたペットボトルから思わず手を離すほど、溌剌とした声だった。そう言ってまたこちらに向けられたペーターの顔には、本当においしかったと訴えるような無邪気そのものの表情があった。にわかに罪悪感が胸にこみあげてくるのを覚えた。それが中庭に落ちていたものだと知ったら、いったいこいつはどんな顔をするのだろう……。


「……あ、まだあった」


 ポケットに手を入れ、わざとらしくまさぐってから、中に残っていた二粒のデーツを取り出した。そうしてそれをそのままそれをペーターに差し出した。


「え?」


「やる」


「でも――」


「いいから」


 そう言って俺はペーターの手を取り、デーツをそこに握らせた。彼女は最初のうちきょとんとした表情でその手と俺の顔とを見比べていたが、やがて嬉しそうに顔を綻ばせてその実を食べはじめた。さっきよりも時間をかけ、愛おしむように味わって食べるペーターを眺めて、それをどこで手に入れたかは金輪際秘密にしておこうと決心した。


「――これ、どこから持ってきたんだ?」


 デーツに夢中になっているペーターの横で紙袋をひとつ空にしたあと、俺はその質問を切り出した。


「え?」


「こいつらだよ。朝にはなかっただろ」


 紙袋に入っていたのはやはり穀粉でできた固形食品だった。カロメとは違いプレーンな塩味で、流行はやりの全粒粉入りということなのかやたらと香ばしい味がした。――もっとも、それが塩味で良かったことに、食べ終えたあと気づいた。水も重要だが、こうしてただ座っていても汗をかく環境にあって、塩は人が生きていくために水と同じくらい重要なのだ。


「どこから持ってきたんだよ、こんなの」


「ありましたよ」


「え?」


「ここにありました」


 床を指差してペーターはそう言った。……床か、あるいは目の前に置かれたものを指差しているようにも見える。はじめからここにあった、という意味だろうか。だが朝に見た限りでは、この部屋にそれらしいものはなかった。


「隠してあったのか?」


「え?」


「この部屋のどこかに」


「……?」


 小首を傾げるだけでペーターから返事は返ってこない。教えたくないということなのかも知れない。俺は聞き出すのを諦めて、もうひとつ固形食品の袋を開けた。これで残り八袋。ペットボトルは三本と半分。……二人で分け合うなら一日分あるかないかだ。これで終わりだとしたら真剣にその先のことを考えなければいけない。


「いつからここにいるんだ?」


「え?」


「ペーターはいつからこの城にいるんだ?」


「はじめからですよ」


「……はじめから?」


「はい、はじめから」


 相変わらずきょとんとした表情でペーターはそう言った。なぜわざわざそんなことを聞くのか、という声が聞こえてくるようだ。だが、『はじめから』とはどういうことだろう。……あるいは質問の意味を取り違えているのだろうか。


「どれくらいか、ってこと」


「え?」


「この城に住みはじめてどれくらい経ったか、ってこと」


 俺の質問にペーターは少しだけ考えるような表情をつくった。やがてその表情を穏やかな笑みに変えると、また首を傾けて一言「さあ?」と告げた。


「そんなことはもう覚えてません」


「そんなに前から、ってことか?」


「はい。ずっとここにいますから」


「そうか」


「もう覚えてませんね、そんなことは。気がついたらここにいて、それからずっとここにいるんです」


「なるほど」


 なるほど、それだけ聞けば俺の場合と一緒だ。気がついたらここにいて、それからずっとここにいる。今の話を聞いた限りではだいぶ前からということのようだ。きっかけが土曜日の庭園でのだとすれば計算が合わないが、昨夜のことといい目の前のこれといい、彼女がもう何日もこの城で過ごしているというのは信じて良さそうだ。だが――


「……その前のことは覚えてないのか?」


「前?」


「ここへ来る前のこと」


「わかりません」


「わからない?」


「はい、わからないです。最初からここにいたのに、どうしてその前があるんですか?」


「……そうか。ならいいんだ」


 このペーターにあちら側の記憶はない。……もっとも、もしあればこんな風に普通に話すことはできないだろう。そう考えてどこかほっとする気持ちと――胸を掻きむしられるような寂しさが同時に浮かんで、消えた。


「ハイジもそうじゃないですか」


「え?」


「ハイジも、ずっとここにいたじゃないですか」


「俺が……ここにか?」


「はい、ずっと一緒に。最初からずっとここにいました。なのに、どうしてその前があるんですか?」


 そう言ってペーターは不思議なものを見るような目で俺を見つめた。それで俺はまたわけがわからなくなった。詳しく聞こうと口を開きかけて――やはり止めた。それを聞いたところでどうせ混乱を深めるのがオチだ。


「ずっと一緒に過ごしてきたんだな、この城で」


「はい、そうです」


 そんなやりとりで要領を得ない会話を締めた。昨日に比べればかなりピントが合ってきたが、深いところで決定的にずれている気がする。ただ、これが劇という前提に立てば、こいつが演じる《愚者》はいつもこんな感じなのだが――

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