318 テンペスト(11)
アジトに帰り着く頃には、左肩の痛みはほとんど耐え難いものになっていた。
アイネも見かねてか、辛いなら負ぶってゆくと言ってくれたが、つまらない意地もあって結局、最後まで自分の足で歩いた。激痛と疲労に混濁する意識の中で、アジトに着き次第倒れ込もうと、そればかりを考えていた。
だがようやく目的のビルに辿り着き、アイネに連れられて向かった先はいつもの部屋ではなく、一昨日の帰投後と同じ疲れ切った男たちが
一昨日との違いがあるとすれば、彼らの間に漂う疲労の色が一様にそのときよりも濃いことだった。壁を背にうずくまっている者、傷が痛むのか寝ころんで脇腹のあたりを押さえている男もいる。
人数も少なかった……ざっと数えた限り10人に満たない。そうしてよく見まわすまでもなく、そんな部屋の中にあの男の姿がないことはすぐにわかった。
気遣ってくれているのだろう、広間に入ってからもアイネはいつものように離れていかない。俺のすぐ傍に立ち、横目でしきりにこちらの様子を窺っているのがわかる。
そんな彼女の隣で、俺はどうにか倒れ込まず立ち続けているのがやっとだった。ここへ辿り着くまでの苦難の道のりを思えば遙かにましだったが、痛みのせいでまともに頭が動かないことに変わりはなかった。
リカとカラスが連れ立って入ってきたのを最後に広間への人の
知った顔で残っているのはゴライアスにラビット……あとは名前が出てこない。オズの姿が見えた気がしたが、よくわからない。ノーマはさっき俺が殺した。ただこのままいくと、俺もそのうちノーマのあとを追うことにもなりかねない。
窓の外がだいぶ明るくなり、互いの表情が朧気にわかるまでになってもDJは戻ってこなかった。
その男の帰還を部屋の中の敗残兵すべてが待ちわびていたことは、彼らの沈黙が何より雄弁に物語っていた。そうしてその帰還を今ここに至って彼らが諦め始めたことを、やはり彼らの声ならぬ声が伝え合っているように思えた。
それでも誰一人喋ろうとしない広間にあって、やがてその重苦しい沈黙を破ったのは、ラビットだった。
「……で、どうすんだアイネ」
「……」
「指示出せ。ここからおめが隊長だろ」
「……できない」
「はあ? なに言てんだ。隊長の命令だろが」
「わたしにはできない」
強い調子でアイネはそう返した。その言葉にラビットが眉をひそめるのが見えた。
……もっとも、俺にはこうなることがわかっていた。あそこでアイネができないと言った以上それは本当にできないことで、まわりが何を言ってもそれを覆すことなどできないのだ。
「じゃ、どうすんだ。いずれにしたて誰かが隊長やらねことには――」
「ハイジに」
「……あ?」
「その役は……新しい隊長の役は、ハイジに任せる」
その一言に、広間の面々はまたさっきまでと同じように押し黙った。
肩の痛みにぼんやりしていた頭にも、その沈黙の理由はよく理解できた。……と言うより予想だにしなかったその言葉に、俺本人も何を言われたのかまだはっきりと把握できない。
そんな俺を含め一同の気持ちを代表するように、カラスが静かに反論の口火を切った。
「認められると思いますか? そんなことが」
……ただひとつわからないのは、その反論は俺に向けられたものだった。アイネではなく俺の目を見据え、はっきりと俺に向けてカラスはその言葉を吐いていた。
俺じゃなくアイネに言ってくれ――思わずそう言いかけ、だがそれよりも早くカラスは俺への糾弾を再開した。
「いったいなぜそういうことになるのか僕には理解できない。ほんの数日前部隊に入ったばかりの人間に隊長を任せられるわけがない。ハイジさんはそう思いませんか? 僕の言ってること、間違ってますか?」
「……なら、どうするんだ」
何の考えもなしにそんな返事を返す俺に、カラスは無言で右腕をあげ、その先に構える銃の口を俺に向けた。それと時を同じくして、素早く俺の眼前に飛び出してくる背中があった。
最初、俺はそれをアイネのものだと思った。だがその背中はアイネにしてはやけに大きく、俺の視界を完全に覆うほど広い――
「……どういうことですか?」
黒い背中の向こうで不審そうなカラスの声が響いた。
その背中は、ゴライアスのものだった。モーゼルに似た銃を小脇に構え、その銃口を真っ直ぐカラスに向けている。
俺を守ろうとしてくれていることは疑いようもなかった。……けれどもなぜ守ってくれているのか、カラスと同じようにそれが俺にもわからない。
「答えてください。なぜ僕に銃を向けるんですか?」
「……おまえが隊長に銃を向けるからだ」
「隊長? ばか言わないでください。誰もそんなこと――」
「隊長はアイネに任せた」
「……」
「アイネはハイジに任せた。俺はそれに従う」
普段無口なゴライアスとは思えない、滑らかで力強い宣言だった。
カラスの反論はなかった。けれどもまだ銃をおろしていないことは、俺の目の前からゴライアスが動こうとしないことでわかる。
他の誰からも声はかからない――この場面を収束させられる人間がいるとしたら、それはたぶん一人しかいない。
「ゴライアス、もういい」
「……」
「銃をおろして、下がって」
その言葉にゴライアスは何も言わず俺の前から退いた。広い背中の陰から現れたカラスは、やはりまだこちらに銃口を向けていた。
それを確認したあと、そちらに目を向けないまま俺は、「アイネもおろせ」とつけ加えた。
短い
「カラスの言ってること、わかるよ」
「……」
「ほんの数日前紛れこんできたようなやつに隊長なんて任せられない。正直、俺もそう思う。お前の言ってることは間違ってない」
「……で、どうするんです?」
「だから、撃ちたいなら撃て」
「……」
「抵抗はしない。アイネもゴライアスも撃つな。カラスのしたいようにさせろ」
銃を持つカラスの手が一瞬、小さく震えるのが見えた。だがその手はおろされない、トリガーにかかった指が外されることもない。
その指がゆっくりとトリガーを引こうとしているのがわかった。けれどもそれが完全に引かれる直前に、俺は用意してあったその一言を口に出した。
「ただ、そうするならお前が隊長をやれ」
その言葉でカラスがトリガーを引く指の動きが止まった。それを見届けてから、俺はなおも俺は続けた。
「アイネは自分じゃ隊長がやれないってことだ。だから俺にその役を押しつけた」
「……」
「その俺を殺すってんなら、責任とってお前が隊長をやれ。それで何もかもうまくいくだろ。間違ってるか? 俺の言ってること」
激痛にぼんやりする意識で、半ば投げやりに俺はそう言った。
もしそれでカラスが俺を撃つのなら、それはそれでいいと思った。ただその一方で、その言葉を受けてカラスが俺を撃つことは絶対にないという確信があった。
高校演劇最後の年、打倒学院の志を胸に俺が演出に名乗りを挙げたとき、やはりカラスはこうして俺の前に立ちはだかった。そのとき俺とカラスとの間に、ちょうどこれとそっくりの遣り取りがあったのだ。
『俺が演出になることを認められないなら、代わりにお前が演出をやれ』
そんな俺の言葉に対して、あのときカラスが見せた反応は――
果たしてカラスは無言で銃をおろし、そのまま足早に通路へ消えていった。認めるとも認めないとも言わない、そんなところまであのときと一緒だ。
場違いな感慨を抱いて苦笑しかけ――だが痛みをぶり返す左肩の傷に、その笑いも立ち消えになる。
……とにかく一番の危険は切り抜けた、あとはこの場を締めるだけだ。そう思ったところへ、示し合わせたように部屋の隅から疲れ切ったリカの声がかかった。
「それで、新隊長最初のご命令は?」
「寝ろ」
言下に返した。今、俺に下すことのできる命令はそれ以外にない。
「しっかりと寝て、あとのことはそれからでいい。日が昇って、暮れたらまたここに集まって。詳しいことはそこで話す。だから、とりあえずは寝ろ」
その俺の命令に対して、広間からはまばらに肯定とも否定ともつかない声があがった。その後、まずリカが通路に消え、一人、また一人と男たちは重い足取りで部屋を出ていった。
最後に残ったのは俺とアイネだった。彼らの足音が聞こえなくなったところでアイネは断りもなく俺の右腕を掴み、その下に自分の頭を入れて担ぎあげた。
そうしてこちらに拒む時間を与えないまま、半分俺を引きずるようにして誰もいない広間をあとにした。
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