319 テンペスト(12)

 部屋に帰り着いたところで、たまらず俺はその場に崩れ落ちた。


 気遣わしげな表情で覗き込んでくるアイネを手で制し、左肩を押さえてうずくまった。焼けるように痛い……ここへきてまた痛みが増したようだ。……もっとも銃で撃たれたのだから、これくらいの痛みがあって当然なのかも知れない。


「……ぎっ」


 左腕をあげようとして、だが痛みに震えるその腕は肩より上にあがってくれない。筋が切れているためにあがらないのか、それとも単に痛みのためなのか、そこまではわからない。


 最悪、肩の骨が砕けていることもあり得る。シャツをはだけて傷口を確かめる――銃創の口はひとつしかない。後ろまでは貫通していないようだ。……となれば、撃ちこまれた弾丸はまだこの中に入っている可能性が高い。


「……そうだ」


 とりあえず傷口を洗おうと水を探しかけ、そこでふと、自分の荷物の中にウイスキーのボトルがあったことを思い出した。


 ウイスキーならアルコール度数は充分に高い。今さら消毒しても遅いのかも知れないが、このまま何もしないでおくよりずっといいはずだ。


 帆布袋をまさぐると瓶はすぐに出てきた。蓋を開けてわずかに口に含む。それを肩の傷に吹きつけようとして――だがそこでどうもうまくいきそうにないことに気づいた。


「……く」


 ……首が回らないのだ。肩口に開いた銃創はどうにか目で確認できるが、どんなに唇を曲げてもそこに口の中のものを吹きつけることはできない。


 しばらく無駄な努力を続けたあと、諦めてそのウイスキーを飲み下した。喉を伝いおりてゆく熱い感覚を味わいながら、どうしたものかと考え始めた。そこへ、アイネの声がかかった。


「ねえ」


「あ?」


「手伝える?」


「……」


「わたしに手伝えることがあったら言って」


 一瞬、断りかけ――だが思い詰めたようなアイネの表情にそうするのをやめた。


 ここは素直に協力してもらって何の問題もない。そう思い直して、蓋を開けたままのボトルを取りあげ、差し出されるアイネの手にそれを渡した。


「その中身、少し口に含んで。そしたら、それをここに……っ!」


 そこまで言って、にわかにまた激しくなった傷の痛みに言葉が出なくなった。そんな俺を見てアイネはわかったと言うように頷き、ボトルに口をつけそれを傾けた。


 水とは違う味のためだろう、一瞬露骨に顔をしかめ、だが吐き出すことなくその口を俺の肩に近づけた。


 それを傷口に吹きつけてくれ――俺がそう説明する前に、アイネは何を思ったのかその唇を俺の剥き出しの肩に押しつけた。


「ぎっ……!」


 そうしてアイネは口の中のものを傷に流しこんできた。そればかりか傷口に舌を挿し入れ、丹念に塗りつけてくる。


 ……めさせたくともあまりの激痛に言葉を吐くことはおろか口を開くことさえできない。噛みしめた歯の間から間断なく呻きをもらしながら、全身を硬直させて俺はその荒療治に耐えた。


「……何か入ってる」


 永遠とも思える苦痛に充ちた時間のあと、唇からこぼれるものを袖で拭いあげてアイネは言った。


 拷問から解放されたばかりの俺には最初、その言葉の意味がわからなかった。おそらく憔悴しきった表情をはりつける顔を向けた俺に、アイネはもう一度「中に何か入ってる」と繰り返した。


「……え?」


「舌の先に硬い物が触った。何か入ってるんだと思う」


 そこまで聞いてようやく、アイネの言っているそれが銃弾であることに思い当たった。やはり中に入ったままになっているのだ。


 ……けれども舌を伸ばして届くのなら、案外簡単に摘出できるかも知れない。ウイスキーの香りが立つ傷口を見つめて手を伸ばしかけ……だが自らそこに指を突き入れるのには怖じ気づく情けない自分がいた。


「……取れそうか?」


「何が?」


「その、中に入ってる硬いの」


「舌で?」


「いや、指で」


「指でなら、たぶん取れる」


「ああ、ちょっと待て――」


 そう言って早くも傷口に手を伸ばしてくるアイネに、指先の消毒を指示した。俺の言いつけ通り再びウイスキーを口に含み、それを指に吹きつけるアイネを横目に見ながら、避けて通れない激甚な痛みを思い、俺は覚悟を決めた。


 その覚悟もあってか、アイネの指が傷の中を掻き回し始めたあともどうにか悲鳴をあげずに、呻き声だけで済んだ。……それでもやがてアイネが自分の目の前に血塗ちまみれの小さな弾をかざしたときには、ほっとするあまり危うく涙がこぼれるところだった。


「……何これ?」


 そんな俺の思いも知らず、取り出したばかりの弾をしげしげと眺めながら興味深げにアイネは呟いた。


 答えられないでいる俺に回答を促すようにこちらへ目を向けてくる。その弾をつまむ指にはまだ生乾きの血が照っている。


 俺がなおも答えないでいると、「これ何?」ともう一度アイネはその質問を口にした。


「……弾だろ」


「弾?」


「……見たことあるだろ」


「こんなの見たことない」


「……そうか。まあ、ありがと」


 どうにかそれだけ返して俺は口をつぐみ、襲い来る激痛に耐えるためにまた身を固くした。えぐり返された傷の痛みはさっきまでの比ではない。どうやら熱も持ち始めているようだ。


 ……あるいは弾など取り出さない方がよかったのかも知れない。ただせめてこの何もない砂漠の廃墟において、消毒に使えるアルコールが手元にあったのは幸運だった……。


「……ぐ」


 凄まじい痛みに視界さえかすんで見える。たとえでも何でもなく、赤熱した火箸を突き立てられている感覚そのものだ。


 心臓の鼓動に合わせて、神経の一本一本を焼き切るようなパルスが身体中を駆けめぐる。全身を硬直させ、奥歯を噛みしめて必死に耐え続けても、その灼熱の痛みは一向に衰える兆しを見せない。


 ――劇の中の世界ではない。何の前触れもなく、ふとそんな声が脳裏をよぎった。


 激痛に浮かされて朦朧とする意識。その中でかろうじて醒めた部分から発せられたその声は簡単には消えず、逆にみるみる大きくなって怒号のように連呼し始める。……ここは劇の中の世界ではない。劇の中の世界などと、そんなものが実際にありうるはずがない。


「ぐ……ぐぐ」


 そう……ここは劇の中の世界などではない。想像を絶する激痛の中にその前提――ようやく掴みかけたこの舞台に立つ役者としての前提が大きく揺らぎ始めるのを感じた。


 残酷演劇という思想によって構築された、実際に手で触れることのできる仮初めの世界。隊長の口から聞いたその抽象的な説明を前に、いま俺が感じているこの痛みはあまりにもだった。


 この全身を引き裂かれるような痛みが現実でないはずがない……ここが劇の中の世界などと、この痛みの中にそんなことを信じられるはずがない……。


「……っ!」


 ――と、襤褸をめくりあげた下に覗いた自分の死に顔が閃光のように蘇り、頭の中に鳴り響いていた声のボリュームは一瞬でゼロになる。


 激戦の末にこの手で撃ち殺した『蟻』。……その襤褸の下に見た血塗れの死に顔。それを思い出して身震いする。そうしてその死に顔がさっきまでとは逆の――ちょうど正反対の声をしきりに投げかけてくる。


 ――あれが現実であったはずがない。ここが劇の中の世界でなくていったいどこだというのだ?


 そう信じるしかない。ここが劇の中の世界だと信じなければ、俺はすぐにでも精神の平衡を失いかねない……。


『君にはもうわかっている。君がわからないと言っているそれについて、何もかも。そうではないかな?』


「……何がだ。くそ」


 あのとき答えられなかった隊長の質問に、今さらのように力なく悪態で返した。


 何がわかったというのだ……これでまた何もわからなくなった。もう何もわからない……何ひとつ俺にはわからない。


 わかりかけたと思ったこの世界のことも、そこに立つ自分自身のことも、この先なにをどうすればいいのかも……何もかも俺にはわからない。


「……何でわたしなの?」


 唐突な一言に、思わずアイネを見た。部屋の隅に膝を抱え、こちらに目を向けないままアイネはもう一度小さな声でその質問を繰り返した。


「何でわたしなの?」


「……知るかよ。そんなこと」


「……」


「だいたいその役を人に押しつけといて今さら何言ってんだ。死ぬとこだったぞ、こっちに何の断りもなく」


「……そんなこと聞いてるんじゃない」


「じゃあ何だよ。いったい何の話だ?」


 その質問にアイネは応えなかった。俺はそれ以上追及せず、会話はそれで途絶えた。


 ……ただそのあたりについて一言、文句を言っておきたかったのは確かだ。そうするならそうするで事前に相談のひとつでもあれば、わざわざあんな身体を張った茶番を演じなくて済んだかも知れないのだ。


 ――だがその一方で、そのアイネののおかげで予言は現実のものとなった。あのときキリコさんが口にしていた予言……その言葉通りDJは失脚し、その後釜に俺がおさまった。


 急坂を転げ落ちるような展開にまだよく実感できない。けれども、実際にそれが起こったということ――何もかもキリコさんの予言通りに進んでいるという事実を認めないわけにはいかない。


 ……だとすれば、この廃墟の滅亡が時間の問題だというキリコさんの話を信じなければならない。俺を新しい隊長と認めてくれた仲間たち――まだそう認めてくれない連中も含めて、彼らがこの廃墟と運命を共にするのを何とかして阻止しなければならない。


 隊長としての俺に与えられた、それが唯一にして絶対の責務だ。仲間たちを引き連れ、この廃墟を取り巻く砂のうみを航破する。その果てにある彼らの知らない世界へ、想像もつかないような長い長い旅路を越えて――


「――犯されるのは嫌」


「……は?」


 脈絡のない一言に、反射的に聞き返した。


 膝を抱え床に目を落としたまま、アイネはしばらく何も言わなかった。窓からの光を避けるように柱の陰にうずくまる俯いた顔に、その表情はよくわからない。


 反応できずに待っていると、やがてアイネは独り言のようにもう一度そのわけのわからない言葉を呟いた。


「犯されるのは嫌」


「……なに言ってんだ、いきなり」


「命懸けで守ってくれた」


「あ?」


「ハイジはわたしのこと、命懸けで守ってくれた。全然信じてなかったけど、ハイジの言ってたことが本当なんだってわかった」


「……」


「本当にハイジは、自分よりわたしの方が大事なんだってわかった。それはハイジがわたしのことを『愛して』いるからなんだよね?」


 そこで初めてアイネは頭をあげ、俺の方に目を向けた。柱の陰からこちらを見る曖昧な表情に、俺は返事を返すことができなかった。


「けど、わたしは犯されたくない」


「……」


「ハイジには……ううん、ハイジにも犯されたくない。そうされるのが怖い……すごく怖い」


「……」


「いくら命懸けで守ってくれても、わたしは応えられない。ハイジの言ってたこと……ハイジの望んでいるようなことはできない」


「……そんな理由で守ったんじゃない」


 苦々しい気持ちで吐き捨てた。アイネが真剣にそれを言っているのだとわかって、遣りきれない思いはなおも募った。


 そんな下心があってあの捨て身の行為に出たのだと思われては堪らない。胸の中に渦巻くその声を聞きつけたように、それまでより強い調子で「わかってる」とアイネは言った。


「そんなことわかってる。わたしは自分が許せないだけ」


「……」


「隊長のことだってあんな無理矢理に任せて。……けど、ハイジならできると思ったから」


「……」


「わたしに隊長はできない。けど、ハイジならできる。冷静な判断ができて……反対が出たのもすぐ納得させて……あんなの、他の誰にもできない。ハイジにしかできない」


「……納得なんてしてねえよ、あいつは」


 カラスは納得などしてない。あれであいつを納得させられたなどとは間違っても思わない。俺はただあいつがああ言えば引くということを知っていただけだ。それがわかっていたからこそ、俺はあんな危険な賭けに出たのだ。


 だがそんな俺の述懐に構わず、アイネはなおもその話を続けた。


「ハイジなら隊長ができる。きっとハイジにならみんなついてく」


「……」


「ハイジ以外の誰にも隊長はできない……そんな気がする。入隊してからの時間なんて関係ない。できるかできないか、それだけ。ハイジにはできると思った。だから、わたしはハイジに任せた」


「……」


「勝手なこと言ってるのはわかってる。何度も危ないとこ助けてもらって、隊長まで押しつけて。なのにわたしは何もしないで。……ハイジがそうしたがってるのに、犯されもしないで」


「だからそんな理由で――」


「だから、わたしはハイジに『忠誠』を誓う」


 俺の言葉を遮り、凛然とした声でアイネは宣言した。


 その目はもう俺を見ない、真っ直ぐに窓の外を見つめている。窓からの陽光はその顔に届かない。それでもアイネの目は、激しい情念を宿したように煌々と輝いている。


「わたしはハイジに『忠誠』を誓う。ハイジがわたしを命懸けで守ってくれたように、わたしもハイジを命懸けで守る」


「……」


「今度はハイジの代わりにわたしが撃たれる。ハイジの代わりにわたしが死ぬ。わたしの命を懸けて、すべてと引き替えにしてでもハイジのことを守る。……だから、それで許して」


 そんなことはしなくていい――口にしかけたその言葉を呑みこんだ。俺にとってではなく、それがアイネにとって必要なことだとわかったからだ。


 それがアイネという人間だということを、俺はよく知っている。……意固地で融通が利かない、不器用なほど生真面目なその性格については。


 ……その誓いをアイネは守るだろう。我が身を顧みず俺を守り、俺が今日彼女を庇って撃たれたように、いつか彼女は俺を庇い被弾するだろう。


 それはともすれば命にかかわるものになるかも知れない。俺の代わりにアイネが死ぬ……彼女が口にした通り、そんな未来が実際に俺たちを待ち受けているのかも知れない。


 言葉が口から出たがっていた。いったんは呑みこんだその言葉――彼女の誓いを撤回させるための言葉が。


 その言葉を口にすればアイネは助けられる。少なくとも無闇に俺を守って命を危険に晒す、それだけは避けられる。


「……好きにしろ」


 だが再びその言葉を呑みこんで、俺は一言そう告げた。柱の陰にアイネが小さく頷くのが見えた。それを確認して俺は彼女から視線を外し、窓の外に目を移した。


 ――また風が吹き始めていた。砂礫を巻きあげ、ごうごうと音を立て吹き荒ぶ風。その風に煽られるように、左肩の痛みがまたぶり返してくるのを覚えた。


 ……とりあえず今は、この痛みに耐えて疲れ切った身体を休めるしかない。そう思い、毛布にくるまって目を閉じた。視界の閉ざされた意識に、折からの風の音がにわかに大きくなった。


 今となっては聞き慣れた荒寥たる大地の声。けれども寝つこうとする俺の耳に、その風の音はどこまでも遠かった。

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