320 巡礼者のキャラバン(1)

「――ジ、――ハイジ」


 耳元で俺の名を呼ぶ誰かの声が聞こえる。


 誰かの声――というか、アイネの声だ。少しだけハスキーに嗄れた、耳の奥を内側からくすぐるような、俺の好きな声。……けれども今朝に限って、その声は俺の耳に快く響かない。


「――イジ、――ハイジ」


 アイネの声が途切れる度に大きくなる耳障りなBGMと、唾液が一滴も残っていない口の中に砂が貼りついているような感覚……そして何より、ずきりずきりと、肩のあたりから微睡まどろんだ意識に送られ続けるそこだけはっきりとした痛みのパルスが、惚れた女の声にいざなわれての甘やかな寝覚めを妨げた。


「――ハイジ、ハイジ起きて」


「う……」


 瞼を持ちあげると、真上からアイネの顔が見下ろしていた。息がかかるほど間近に迫っていたその顔は、俺が目を覚ましたのを確認すると、すっと後ろに退かれる。


「……っ!」


 直後に、ごうっという耳鳴りが来た。……起き抜けで耳が変になっているのだろうか。そう思い、頭を振りながら上体を起こす。けれどもすぐに、それが耳鳴りでないことがわかった。


「……」


 窓の外を見る。普段であれば容赦のない日射しに灼かれているそこには、まるで視界を覆い隠すように黄土色の靄がかかっていた。間断なく耳に届く地響きのような唸りと、ばらばらと部屋の中に吹き込んでくる砂礫――この廃墟が今、激しい砂嵐のただ中にあることを、俺は理解した。


んでる」


「え?」


「ハイジのこと、喚んでる」


 そう言ってアイネは廊下に通じる扉を見た。


 ……扉の向こうに誰かがいるということなのだろうか。まだはっきりしない頭で漠然とそう考える俺を、急き立てるような目でアイネがめつけた。


 やはりそういうことのようだ。俺は立ち上がり、よろよろと歩いて行ってその扉を開けた。


 扉の向こうにはゴライアスが立っていた。俺が扉をひらききらないうちに、緊急の用件であることを言外に告げる張り詰めた声でゴライアスは言った。


「ヒダリテのやつが――」


 それだけ言ってゴライアスは駆け出した。……何日か前にもこんなことがあった、と既視感を覚えながら、一応振り返ってアイネを見た。その頭が頷くのを見届けた後、俺は扉を抜けゴライアスのあとを追った。


 ゴライアスに連れてこられた先では、吹き溜まりのような部屋の隅で男が死にかけていた。


「……ぁ、あぁ、新隊長……さまの……お出ましかぁ……」


 コンクリートの床に仰臥し、既にか細くなりかけている苦しげな息の中に俺を迎えたその男は、左手の手首から先がなかった。それで俺にはその男が、キリコさんが訪ねてきたあの日、DJあいつの言いつけで共に捕虜の死体を探したヒダリテだとわかった。


 俺がヒダリテと絡むのは、あの日以来二度目だった。それが理由で、ゴライアスから名前を聞いただけではそのときのことを思い出せなかったのだ。そのときに続く二度目の接点がこんな終局的な場面であることに、俺はわけもない苛立ちを覚えた。


 今朝、帰投した面子がたむろする中に、床に寝転んで腹を押さえている男の姿があった。おそらく、あれがヒダリテだったのだろう。あのとき何かしらの措置をしていれば、と思いかけ――だがいずれにしろ同じことだったと思い直した。


 きずを塞ぐ薬があるならとっくに使っている。それがもういたからあの日ルードは死ななければならなかったのだし、俺は今こうして肩の痛みに脂汗を流しているのだ。


「服、脱がしていいか?」


「……いぃに……決まってん……だろ……」


 俺はヒダリテのシャツの釦を外し、前を開いた。充分に血を吸い、既に乾きかけたそれによってごわつく腹のあたりをめくりあげると、肋骨の下の、ちょうど肝臓がおさまっているあたりに、親指の先ほどもある大きな穴がぽっかりと口を開けていた。


 血はもう吹き出していない。もうあらかた外に流れ出してしまったのかも知れない。……いずれにしても手の施しようがなかった。ヒダリテがもう助からないことは、医者でも何でもない俺にもはっきりとわかった。


『そうなっちまった以上、とどめを刺してやるのが仲間としてせめてものつとめだ』


 あのときのDJの言葉が耳の奥に蘇った。その翌日、二人で話したときにぽつりと漏らした、本来であればそれは隊長の仕事だ、という言葉と共に。


「ゴライアス」


「……」


「少し、外してくれ」


「……わかった」


 扉が閉まる音がし、ゴライアスが部屋を出ていったのがわかった。


 ゴライアスがいたのではやりにくい、ということではなかった。……ただ何となく、これからヒダリテにすることになる話を、ゴライアスに聞かれたくなかった。


 ルードを送ったときと同じように、俺がいたあの場所についての話を、身罷みまかりゆく男に語って聞かせることになる――それがわかったからだ。


 この部隊の隊長としてはじめてするその仕事に、けれども俺は後ろ暗さを拭い去ることができなかった。部屋を出て、扉の向こうで待っているであろうゴライアスさえいなければ、このまますべてを投げ出して敵前逃亡してしまいそうだ――


「ヒダリテ」


「……ぁ……なんだ……」


「苦しいか?」


「……見りゃ……わかんだ……ろ……」


とどめ、刺して欲しいか?」


 俺のその質問に、苦しげに荒い息をくだけだったヒダリテの顔に表情が生まれた。恐怖の表情にも、あるいは困惑のそれのようにも見える、複雑な表情だった。


「……オレは……もう……助から……ねぇか……」


「ああ、助からない」


「……そっか……死ぬ……しか……ねぇのか……」


 そう言ってヒダリテは苦しげに顔を歪ませ、もはやどこを見ているかわからない虚ろな目を薄闇の中に泳がせた。それから観念したように瞼をおろし、それまでよりも小さな、ほとんど消え入るような声で呟いた。


「……ルードの……気持ちが……わかったぜ……」


「……」


「……怖ぇなあ……ったく……消えて……なくなっちまう……のが……怖ぇ……」


 弱々しいなかにも震えていることがはっきりとわかる声で、独り言のようにヒダリテは続けた。震える声は死が近いからだろうか……いや、それだけではないのだろう。そんなことを思いながら、俺は慎重に言葉を選んだ。


「俺がルードにした話、聞いてたか?」


「……聞いてた……けどよ……オレには……信じられ……ねぇ……」


「どうして信じられないんだ?」


「……そりゃ……逆に……どうやったら……信じられる……ってんだ……そんな……話……」


「俺が嘘やでたらめ言ってるように見えるか」


「……見えねぇ……けどよ……」


「だいたい俺がお前に嘘ついたって何の得もないだろ」


「……まぁ……何の得も……ねえわな……」


「ただな、ルードにはあのときああ言ったけど、お前たちが死んだあと俺が元いた所に行くかどうか、本当はわからないんだ」


「……あ?」


「だって俺、向こうでお前たちの顔、見たことないし」


「……なんだ……そりゃ……話が……違うじゃ……ねえか……」


 愕然とした目をこちらに向け、さっきまでとはまた違う震えを孕んだ声でヒダリテは言った。その声と表情には彼の内側に生じたであろう感情――怒りとも絶望ともつかない負の感情がはっきりと見て取れた。


 それを確認して、俺はふうと息を吐いた。そうして精一杯真剣な表情をつくり、真っすぐにヒダリテを見て、言った。


「けど、俺は死んだら向こうに戻る。それだけははっきりしている」


「ぁ……?」


「アイネも戻る。昨日の出撃でいなくなっちまった隊長も、カラスやリカも戻る。あと、キリコ先生もな」


「……」


「そうやって戻ることが決まってるやつらがいるのに、お前たちが戻らないってのはおかしいだろ」


「……」


「だから、お前たちも死んだら俺が元いた所に戻るんだよ。たぶん――というか絶対」


「……おめぇ……人のせんの……うめえな……なんだか……そんな……気がして……きたぜ……」


 そう言ってヒダリテは口許にぎこちない笑みを浮かべた。


 気持ちが伝わった――そう思った。俺なりにぎりぎりの綱渡りをしながらその中に込めた精一杯の誠意を、この死にゆく男は正確に汲み取ってくれた。それがわかって、俺は内心に小さな安堵を覚えた。


「のせてんじゃなくて、全部本当のことなんだけどな」


「……そこの話……聞かせて……くれ……ルードのとき……みてぇに……よ……」


「いいよ。何についての話がいい?」


「……そうだな……面白ぇ……話が……いい……」


「面白い話って俺、苦手なんだけどな」


 素でそう返しながら思わず苦笑いしたあと、俺は改めてヒダリテを見た。


 気息奄々といった状態もはや過ぎ去ったようで、今は眠りに落ちる寸前のように静かで穏やかな呼気が、だらしなく垂れ下がった唇のあたりから漏れているばかりだ。もはやその目はこちらを見ていない。半分白目を剥いたその双眸はもう、ここではないどこか別のところを見ている。


 ……どうやらそう長くはたないようだ。そう思って俺は、のっけからほとんど必死になって、ヒダリテの希望する面白い話を頭の中に求めた。


「――だったら、こういうのはどうだ」


 卒然、俺の頭に思い浮かんだのはひとつの童話だった。この状況でそれをヒダリテに聞かせることの是非をよく考えもしないまま、俺はその物語を語りはじめていた。


「ある部隊にな、着てるものに気を遣う隊長がいたんだ」


「……着てるもん……つうと……これか?」


 ヒダリテはそう言って自分の服を指さそうとする。けれどもその腕はもう上がらず、震える指先が目的の場所を指し示すこともない。


 それでも俺は「そうだ」と言い、話の続きを口にのぼらせた。


「その隊長はいつもビシッとした、格好いい服を着てるってのが自慢だった。部隊の連中にいつも言ってたんだ。『俺ほど格好いい服を着てるやつはいない』ってな」


「……へぇ……そんで……」


「あるとき、その部隊に一人の男がふらっとやってきた。そんでその隊長に言うのさ。『あなたのために最高に格好いい服を持って参りました』ってな。で、その服ってのを広げて見せた」


「……んで……?」


「ところが、その男は服を持っていなかった。だから隊長は言ったんだ。『おい、どこに服があるんだ?』って。そしたらその男はこう言って反論した。『え? ちゃんとあるじゃないですか。ただ、この服には秘密がありましてね。それってのも、バカには見えない服なんですよ』」


「……で……?」


「それで、隊長は慌てて言い直した。『おお、こりゃ最高に格好いい服じゃねえか、気に入った』ってな。何でかって言うと、その服が見えないんだったらバカってことになっちまうだろ? だからその隊長は服なんか見えないくせに、見えたっていう嘘をついたんだ」


「……へぇ……」


「隊長はその男からその服を買った。ああ、買ったってのは……そうだな、その服をもらう替わりに、水と食料をしこたまその男にくれてやったんだ。そんで、実際は見えないその服を着て、部隊の連中の前に姿を見せた。驚いたのは部隊の連中だ」


「……あぁ……」


「なにせ、隊長がいきなり素っ裸で現れたもんだからな。『いったいどうしちまったんです?』みたいに聞いてくる部隊の連中を前に、隊長はふんぞり返って言うのさ。『お? お前らにもこの服が見えるのか? バカには見えない服なんだぞ。格好いいだろ』って」


「……」


「そうなると部隊の連中もその服が見えないとは言えない。『確かにこんな服、今まで見たことねえ。こりゃ最高に格好いい服だ』と口々に褒めそやす。それでまた隊長はいい気になって、いっちょこの服をよそのやつらにも見せてやろうってんで、部隊の連中を引き連れてアジトを出たんだ。で、意気揚々と通りを練り歩いてると、そこに――」


 そこでふと、こちらに顔を向けたまま動かなくなっているヒダリテに気付いた。


「ヒダリテ」


 と、声をかける――返事は返ってこない。


 俺は立ち上がり、ヒダリテに歩み寄った。その鼻の前に手をかざして息をしていないことを確かめ、それから大きくひとつ溜息をついた。


「……最後まで聞けよ。ここからが面白いとこなんだぞ」


 呟いて、鼻の前にかざしていた手でヒダリテの目を撫で、開いたままになっていた瞼をおろしてやった。


「ハイジ」


 背中から声がかかった。ゴライアスが入ってきたのだ。何となく返事をする気になれず、あとは任せるつもりでそのまま立ち上がった。


 そこへ、またゴライアスの声がかかった。


「――最後」


「え?」


「さっきの話の最後が聞きたい」


「ああ……」


 結局、外に出そうが出すまいがゴライアスには聞かれていたのだ。思い返してみればルードのときもそうだった。


 ……確かにあんな尻切れ蜻蛉で終わったのではゴライアスも気になってしまうだろう。そう思って、ヒダリテに聞かせることができなかったその話の結末を、俺は口にのぼらせた。


「隊長が自慢の服を見せびらかしてやろうってアジトを出たとこまでは話したよな。部隊の連中を引き連れて大通りを練り歩いていると、そこに子供たちがいたんだ。子供たちは先頭に立って歩いてる隊長を指さして『変なの! あの人、裸んぼで歩いてる!』って言って笑うんだ」


「……」


「そこで隊長は、本当は自分が服なんか着てなくて裸だったってことに気づいて、急に恥ずかしくなってアジトに逃げ帰った――って話。オリジナルの物語は『裸の王様』って言うんだけど、ここの人たちは王様を知らないから、少しアレンジしてみたんだ」


 言いながら俺は、いつかの話の中で王制について説明していたから、聞き手がゴライアスであればはじめから王様で話していても良かったのかも知れないと思った。だがヒダリテは、おそらく王様の何たるかを知らなかった。そのあたりを踏まえ、この廃墟にある材料だけで組み立てることができたわけだから、モチーフの選択としては間違っていなかったはずだ。


「どう、面白かった?」


 そう思い、期待を込めてゴライアスに振った。けれどもゴライアスから返ってきたのは何とも言えない、ちょうど滑った話を聞かされたときのような微妙な表情だった。その表情のまま、ゴライアスは言った。


「『子供』というのを見たことがないから、それがどう面白いのかわからない」


「……そうか」


 ゴライアスの感想は率直だった。率直過ぎて、俺はショックを感じることもできなかった。


 ……そうか、子供を見たことがなかったのか。そういうことであれば、『裸の王様』の面白さがわかるはずもない。純粋無垢な子供の目というファクターを抜きにして、この物語の解釈は成り立つべくもないからだ。


 ヒダリテには悪いが、最後まで聞かずに逝ってくれて良かった。最後まで聞いた上で、「済まねえ、どこが面白いか全然わからねえ」と言って事切れる――なるほど、これではとても立ち直れない。ヒダリテではなく、俺が。……あるいは俺の心を折らないために、ヒダリテは死期を早めてくれたのかも知れない。


 そんな不謹慎なことを考えながら、俺は堪らずその場をあとにしようとした。そこへ、またゴライアスの声がかかった。


「ハイジ」


「え?」


「俺も――俺が死ぬときも、ハイジに見送って欲しい」


 いわおのような巨体から、ふたつの目が俺を見下ろしていた。子供のように純粋な曇りのない眼差し――


 この目に、俺の姿はどう映っているのか。この人が笑わないでいてくれるのなら、俺が着ているこの服は本物なのか……そんな思いの中に、俺は耐え切れず目を逸らした。


「……約束はできない」


 俺の返答に、にわかに戸惑いの表情を浮かべるゴライアスの脇をすり抜け、俺は足早に部屋を出た。

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