283 魔弾の射手(1)
「う……」
寝覚めはひどく気怠かった。
壁に背もたれて眠っていたようで、身体の節々が痛い。起き抜けの視界には鼠色の部屋――壁に空いた穴から力強い陽光が射しこむ、無機的ながらんどうの石室が映っていた。
ひりつくような暑さだった。けれどもその暑さは、これまで自分が感じてきたそれとはどこか違っていて……その違いが何かわからないまま、身体にまとわりつく毛布を取り除け、額のあたりで既に乾きかけていた汗を拭った。
「起きた?」
声のした方に目をやると、俺が背もたれている壁から隣の壁に続くちょうど角あたりに、俺と同じような格好で座るアイネの姿があった。
「……起きた」
力のない声でそう返したが、頭も身体もまだ半分眠っていた。……というより、あまり眠った気がしない。束の間のうたた寝から目覚めたときのように、怠くて眠い。
そんな俺に構うことなく、アイネは手にした鳶色の紙袋からカロメのようなものを口に運び、音もなく咀嚼していた。傍らにはミネラルウォーターだろうか、見慣れないラベルのペットボトルが置かれている。
「お腹、空いてる?」
「……空いてる」
身体は怠かったが腹は空いていた。……あるいは空腹だから怠いのかも知れない。俺がそう答えるとアイネは上着のポケットから鳶色の袋を取り出し、それをこちらに投げてよこした。ぱさりと音を立てて、それは俺の手に収まった。
「それで我慢して。あと、水はこれしかないから」
「……ああいや、俺の分ならある」
ペットボトルの蓋を閉め、それもこちらに投げようとしていたアイネを手で制して、俺は自分のすぐ隣にだらしなく横たわっていた帆布袋を引き寄せた。
……昨日、中身をあらためたとき、たしかそれらしいものが入っていた気がする。そんな記憶をあてに探ると、案の定それは出てきた。チョコレート味の、こちらは本物のカロメ。それからこの暑さの中にすっかり
「……何それ」
「え?」
袋からカロメの箱を取り出し、そのミシン目に指を突き立てたところでアイネから声がかかった。反射的に頭をあげると彼女はペットボトルを持つ手を中途半端な高さにもたげたまま、不思議なものを見るような目でこちらを見つめていた。
「それ……って、どれ?」
「いま手に持ってるそれ」
その言葉通り、アイネの視線は真っ直ぐ俺の手に注がれていた。その手がいま持っているものといえば……封を切りかけのカロメしかない。
「……カロメだけど」
「カロメ?」
「見たことない?」
「ない、そんなの。見たことも聞いたことも」
どこか怒ったような口調でアイネはそう言った。
そんな彼女の様子に、なるほどと思いつくところがあった。……そう言えばここは別の世界だった。鮮やかな黄色の箱と、アイネが投げてよこした鳶色の紙袋を見比べ、その紙袋の代わりに箱の方を彼女へ投げ返した。
「たぶん、こいつと似たようなもんだよ」
アイネが受け止めるのを見届け、俺は彼女がくれた鳶色の紙袋を手に取った。校庭に白線を引くための石灰を入れておく袋に似たごわごわした厚い紙――口が凧糸のように太い糸で縫われた無骨な袋だった。ラベルは貼られておらず、銘柄はおろか賞味期限もわからない。
まるで軍隊の糧秣のようだと思いながら袋の口を開け、中身をつまみ出した。少し色が濃く小さめではあるが、細長いブロック状のそれはやはりカロメに似ている。囓ってみるとプレーンな塩味だった。全粒粉入りなのか香ばしい素朴な味がする。……やはり何のことはない、普通の健康補助食品だった。
「こっちの方が美味いかも。俺の好みだと」
そう言いながら視線を起こし、俺はそこで口の中のものを吹き出しそうになった。
アイネはまるで使い方がわからない玩具を渡された子供のように、両手に掴んだカロメの黄色い箱をただじっと見つめていた。その顔がおもむろにこちらを見た。真剣なその表情に俺はどうにか笑いを堪えつつ、「食べてみろって」と促した。
「……」
俺の言葉にアイネはいかにも恐る恐るといった手つきで箱を開け、その中から銀色の袋を取り出した。そこでまたこちらを見る。俺がジェスチャーで袋を破って見せると、アイネは生真面目にそれとまったく同じ手つきで袋を破いた。破れた口から一本のブロックをつまみ上げてしばらく見つめ、やがて止まって見えるほどのスローモーションでそれを口に運び、恭しく囓った。
「違わないだろ?」
「……全然、違う」
質問に少し遅れて、口の中のものを呑み下してからアイネはそう言った。
「そうか?」
「……初めて食べる、こんなの」
「そうか。これとたいして違わないと思うけどな」
「どこで手に入れたの?」
「え?」
「これ、どこでどうやって手に入れたの?」
アイネはそう言って訝しそうな目でこちらを見た。その質問に、俺はすぐに答えることができなかった。……と言うより、自分でもその質問に対する答えがわからない。それでも俺は少しだけ考え、頭に思い浮かんだままを口にした。
「最初から持ってた」
「……」
「そうとしか言いようがないな。こっちに来たとき、この袋の中に入ってたんだ。だから最初から持ってたとしか言いようがない」
「……」
「おおかた誰かが入れてくれたんだろ。俺がこっちで腹空かせたらいけないってことで。向こうでは珍しくも何ともない、どこにでもある普通の食べ物なんだよ」
封を開けた銀色の袋をそのままに、アイネは黙って俺の話を聞いていた。だがやがて小さく溜息をつくと、その袋から二本目のブロックを取り出してそれを口に運びながら、言った。
「本当にどこか別の世界から来たんだね、ハイジは」
そんなアイネの言葉に「まあな」と相づちを打ち、俺の方でも紙袋から二本目を取り出して囓った。
……そう、ここはたしかに元いたあそことは別の世界なのだ。俺はそれを、あの袋小路で男を撃ち殺したことで確認したが、アイネはカロメによってそれを実感したようだ。殺人と健康食品で同じことを認識するというのも変な話だが、やはり根本的な常識が違う以上、そういうことも起こってくるのだろう。
そこでふと、アイネの口からごく自然にこぼれたその名前が頭にひっかかった。
「……いま何て呼んだ?」
「え?」
「俺のこと。ハイジって呼んだ?」
「うん。そう呼んだけど」
「……俺、その名前教えたっけ?」
「寝る前に。ハイジって聞こえたけど、違ってた?」
「いや……ハイジで合ってるけど」
……そう言えば眠りに落ちる寸前にそんなやりとりがあったような気がする。一瞬、ここが劇の中であることを思い、コードを名乗ってしまったのは失敗だったかも知れないと感じた。……だがすぐに、俺より先にアイネという名前で舞台に立っている役者がいたことを思い出し、それでよかったのだと考え直した。
会話はそこで途切れ、アイネは食事に戻った。もう手にした黄色い箱を見つめたりせず、ただ作業的にカロメとペットボトルを交互に口に運んだ。俺も帆布袋からミネラルウォーターを取り出して飲んだ。一口目を飲んだところではじめて、自分が激しく渇いて水を求めていたことに気づいた。
壁に空いた窓の外からは何も聞こえなかった。コンクリートの部屋に一頻り二人分の咀嚼の音だけが響いた。
「念のために聞くけど」
短い食事の時間が終わり、沈黙が気になりはじめたところで、アイネが唐突に切り出した。
「ん?」
「ハイジは、携帯持ってる?」
「携帯?」
予想外の単語に思わず聞き返した。真摯な表情を変えずに、「そう、携帯」とアイネは応えた。
「携帯……っていうと、携帯電話のこと?」
「もちろんそうだけど。持ってるの?」
「いや、俺は持って――あ、ちょっと待って。たしか……」
俺はもしやと思ってジーンズのポケットをまさぐった。……そのもしやだった。右の尻ポケットには、あの嵐の夜、銃撃戦のはじまった会場から逃げてきたときそのままに、鮮やかなワインレッドの携帯――キリコさんの携帯が入っていた。けれども……。
「一応、持ってる」
「本当?」
「けど駄目だ。使えない」
「どうして」
「電池が切れてるから」
赤い電話機のマークが描かれたボタンをいくら押し続けても黒い画面に変化は現れなかった。それもそのはずで、あの日の朝、小屋を出る時点でもうこの携帯の電池は空だった。奈落の底でキリコさんから電話がかかってきたこと自体、奇跡のようなものだったのだ。それに、どう考えても基地局があるとは思えないこの廃墟では、たとえ電池が切れていなかったとしても通話などできないだろう。
「……それって何?」
「え?」
「ハイジがさっき言ったそれ。切れてるって」
「電池?」
「そう、それ。その電池って何?」
「……」
そこでまたしても俺は返答に詰まった。質問の意味はわかったが、何をどう答えればいいのかわからなかった。俺がいつまでも答えられないでいるとアイネはおもむろに立ち上がり、「つまり」と言ってこちらを見た。
「つまりハイジがいたとこでは、その電池ってのが切れると、携帯が使えなくなるの?」
「……まあ、そういうことだ」
「なら、それ貸して」
「……」
「使えると思う。こっちではそういうのないから」
そう言って右手を伸ばしてくるアイネに、俺は何も言わず携帯を差し出した。呆然と見守る俺の前でアイネの親指が気忙しく踊った。そしてそのあとに――果たしてかすかな発信音が、電池の切れたその携帯のスピーカから聞こえはじめた。
「……」
ちらりと俺を見たあと、アイネは携帯を顔の横につけた。それとほぼ同時に回線が繋がったらしく、短いやりとりの後にアイネは自分の名前と、無事であることを告げた。
一瞬、受話器から漏れ聞こえる相手の声が大きくなり、そしてまたすぐに小さくなった。話している相手は女のようで、その声にはどこか聞き覚えがあるような気がした。だが、それが誰かまではわからなかった。
「だから――うん。――違うの、そうじゃなくて」
断片的なアイネの応答からは会話の内容を類推することしかできなかったが、どうやらこれから帰ることを伝えているようだった。
「そう……うん、そう。え? ……ううん、メイは――」
すぐに済むかと思ったその電話はなかなか終わらなかった。アイネは真剣な口調で――ときおりそこに怒りのようなものさえ滲ませながら話し続けた。回線の向こう側の相手も、何人かが入れ代わり立ち代わりしながら話し続けているようだった。
「うん、そう。それで――でも! ……うん、わかった」
延々と続くその電話を聞くともなく聞いているうち、混乱していた俺の頭はゆっくりと冷静を取り戻していった。
……そう、ここは劇の中だった。劇の中なら電池の切れた携帯で通話ができても何の不思議もない。むしろ、逆だ。ここが劇の中であればこれが正しいのだ。舞台の上に展開される劇の世界において、電源の入った携帯を実際に鳴らすのはあまり褒められたやり方とは言えないのだから――
弾の入っていない銃で人が撃ち殺せる世界。電池の切れた携帯で通話ができる世界。……何となく、この世界のルールがわかってきた気がする。
つまり、ここは劇の中なのだ。ここは劇の中なのだから、劇の中でしか通用しない常識が当然のようにルールとして通用する。演劇におけるルールがイコールこの世界でのルールなのだ。
そう考えて、少しだけ気が楽になるのを感じた。そういう基準で考えていけば、今後はある程度先を読んで行動ができるかも知れない。少なくともさっきや昨日のように混乱することはないだろう……。半分希望をこめて、俺はそんなことを思った。
「そう……うん。……うん、わかった」
……それにしても長い電話だった。時計がないので正確なところはわからないが三十分か、あるいは小一時間は続いているのではないか。俺が待つのはいいとしても、もういい加減、携帯の電池が
「……」
ばつが悪い気持ちで浮かしかけた腰をおろし、アイネに視線を戻した。
――と、ちょうどそこで電話が終わったようだった。アイネは携帯を頬から離してほんのしばらく見つめたあと、ぱたんと小さな音を立ててそれを二つに畳んだ。
「――ありがとう。助かった」
手にした携帯に視線を落としたまま、独り言のようにアイネはそう呟いた。
「助かった?」
「……携帯のこと。ハイジが持っててくれて助かった。返すね」
そう言うや、こちらの返事を待たずにアイネは携帯を投げてよこした。反射的に手を出し、取り落としそうになるのをどうにか受け止めた。
「あのな、いきなり――」
――投げるなよ。そう言いかけて頭をあげ……複雑な表情でこちらを見つめるアイネの顔が目に入った。
少し苛立ったようなその顔は、アイネ特有の相手を気遣うときの表情だった。気遣われる相手はここに一人しかいない。……だが、いったいどういう意味だろう。
それが気になって……けれども聞くことができないでいるうちに、アイネはふっとその表情を消した。
「今からここを出てアジトに向かうけど」
そこでいったん切り、改まった顔つきでこちらに向き直って、さらに続けた。
「どうしても気をつけなきゃいけないことが三つ。それが何かわかる?」
「わからない」
少しだけ考えたあとに俺はそう返した。アイネはそれが予期された答えだったように頷くと、「説明するから聞いて」と言った。俺は無言で頭を下げた。
「まず一つ目は、太陽に気をつけること。建物の影になっているところを歩いて、なるべくそこから出ないように」
「それは、他の部隊に見つからないように、ってこと?」
「そうじゃない。見つかってもどの道、今は戦闘にならないから」
「なんでならないんだ?」
「太陽が出てるから」
「……」
「気をつけるのは、太陽そのもの。太陽の光に長く当たっていると、目眩がしたり気持ちが悪くなったり、酷いときには死ぬこともある。だからわたしたちは太陽の下では戦わないし、それは他の部隊にしても同じ。とにかく大事なのは、できるだけ太陽の光を避けること。それを忘れないで」
「――わかった」
壁に穿たれた穴の外を眺めて、なるほどと思うところがあった。
つまりこの強い日射しの下では、簡単に熱中症になるということなのだろう。……そのあたりは確かに気をつけた方が良さそうだ。俺は確認の意味をこめて軽く頷き、それからアイネに目を戻した。
「で、次は?」
「二つ目は、水に気をつけること」
「水?」
「水を飲むこと。喉が渇く前に水を口に含む。けど、今は手持ちに余裕がないから、飲み過ぎないように」
「ああ……なるほど」
これもすぐに納得できた。脱水症に気をつけろということだ。俺の帆布袋の中には500ミリリットルのペットボトルが一本と半分残っている。さっき食事をとっているとき、「水はそれだけ?」とアイネが尋ねてきたことを思い出した。そのときは気にも留めなかったが、その質問にはそういう意味があったのだと、今さらのように理解した。
「あともう一つは、ヘビとサソリに気をつけること」
「……最後のはわかりやすいな」
「え?」
「いや、何でもない」
「ヘビってどんなのかわかる?」
「……細長くて、噛まれると危ないやつだな」
「サソリは?」
「小さな虫で、尻尾の先で刺されると危ないやつ」
「うん、そいつらには気をつけて。どっちも本当に危ないから」
「ああ、わかったよ」
アイネの警告はいちいち納得できるものだったので、俺は逆に少し安心した。そのあたりは向こうの世界でも一緒だ、と口に出しかけて……けれどもやはり言うのはやめておいた。
俺はこちらのことは何も知らない、とアイネにはそう思わせておく方がいい。なまじ知ったような顔をすれば、本当に知らないことまで教えてもらえなくなるかも知れない。
「とにかく、その三つには気をつけて」
「わかった。気をつける」
「ここを出て、アジトに着くまでは危険がいっぱいだから、気を抜かないで」
「はいよ」
気安い返事で応えて俺は立ち上がり、帆布袋を肩にかけた。それからアイネに向き直ると、彼女はもう部屋から薄暗い通路に抜ける出口をくぐりかけていた。慌ててそのあとを追いかけようとして――そこでおもむろにアイネがこちらに振り返った。
「……もっともハイジにとって、本当に危ないのはそのあとだろうけど」
「え?」
「気をつけて、アジトに着いたあとも」
「……どういうこと?」
「それは、わたしからは話せない」
「……」
「たぶん、着いたらすぐにわかるから」
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