303 二人の預言者(5)

 リカたちが退去したのは夕闇もかなり濃くなった頃だった。


 男性陣はまだ俺の話を聞きたがったが、リカが促すと結局揃って部屋を出ていった。話しづめで声がかすれ始めていた俺を気遣ってくれたのかも知れない。実際、俺は疲れ切っていたから、「またね」と言い残して出てゆくリカたちを、立ち上がりもせず無言で見送った。


 五人が出ていってしまうと、それを待っていたかのようにアイネが目を覚ました。……あるいは寝たふりをしていただけなのだろうか。そう思ったものの、あえて言葉にはしなかった。


 ほの暗い部屋の隅に身を起こしたきり彼女は何も言わず、ただ黙って虚空を眺めている。そんなすげない態度が、喋ることにみ果てた今の俺にはありがたかった。


「ずいぶん長く喋ってたみたいね」


 それでもしばらく時間が経ったあとに、アイネの方で沈黙を破った。独り言のようなその声に、俺は「ああ」と短い相づちで応えた。


 外は少し風が出てきたようだ。もうすっかり冷たくなったコンクリートの部屋に、アイネは起きたあとも毛布を身体に巻きつけたままでいる。


「感心した。呆れるの通り越して」


「……何が?」


「よくあんな熱心に喋り続けられる、って」


「やっぱり起きてたのか」


「あんな大声で喋ってる隣で眠ってられるわけないでしょ」


「そうか……そうだよな」


 起きていたのになぜ空寝を決めこんでいたのかその聞こうとして、だが俺は聞く前にその理由がわかった。


 ……たぶん、リカがいたからだ。そのことを思ってまた何とも言えない気分になったが、俺が口を差し挟める問題でもない。内心に溜息をついてそれを頭から追い出し、代わりに適当な言葉を探して、口に出した。


「ごめんな」


「……何で謝るの?」


「迷惑かけただろ。ずっと寝たふりさせて」


「ハイジが謝ることなんてない。いきなり押しかけてきて無理にはなしさせたのはあっちなんだし」


「まあ、そうだけど」


 そう答えながら、俺は無理に話をさせられていたのだろうか、と思った。


 確かに最初は戸惑ったが、途中からは割と積極的に、むしろ語り部としての悦びをもって熱心に語っていた。それというのも、聞き手である彼らの真剣さに乗せられたからだ。


 そのあたりをアイネに伝えようと俺は口を開きかけた。だがそれよりも早くアイネの唇が動いた。


「帰りたくないの?」


「え?」


「ハイジは、その元いた場所に帰りたくないの?」


「……」


 思わず返答に詰まった。


 アイネにしてみればおそらく当然の疑問だったに違いない。けれどもそれは、俺にとっては青天の霹靂だった。あっちの世界に戻りたくないか? ……ここに来てこの方、そんなことは一度も考えたことがなかった。


 だがそう思う一方で、普通なら誰でも帰りたがるというのはわかった。……そう、こんな殺伐とした得体の知れない場所に放り出されて、誰でもすぐあちらに帰りたがる。


 俺がここまで一度もそれを思わなかったのは、俺がからだ。自分でもそのくらいのことはわかっている。そして俺がなぜその考えに囚われているかといえば……。


「帰りたくないな」


「……そう」


「と言うか、まだ帰れない」


「どうして?」


「やるべきことがあるから」


「……」


「こっちでやるべきことがある。だから俺は帰れない、まだ」


「それは何?」


「ん?」


「その、こっちでハイジがやるべきことって何?」


「さあ……何だろ」


「わからないの?」


「そうだな。今はまだわからない」


「わたしの方こそわからない。ハイジが何言ってるのか」


「そうか? ……まあ、そうかもな」


 そう言って俺は少しだけ笑った。自分でも辻褄の合わないことを言っていると思ったからだ。


 けれども、その言葉に嘘はなかった。


 俺はまだあちらには帰れない。演じ始めたばかりのこの役を演じきるという仕事が残っている。それがどんな役であるか、未だにはっきりとはわからない。それでもこんな中途半端なまま切りあげてしまっていいものでないことだけは、考えるまでもなくはっきりとわかる。


「……何がおかしいの?」


「さあな」


 アイネの問いに短くそう返し、また息だけで軽く笑った。


 その笑いをどう受け止めたかはわからない。アイネはただつまらなそうに、こちらに目を向けたまま動かなかった。


 そんな彼女がふと扉の方を見た。鉄の扉を叩く重々しい音が聞こえたのは、その直後だった。


「……また俺に客か?」


「今度のは違う」


 そう言ってアイネは立ちあがり、扉に向かった。


 何気ないその行動を、俺は妙に感動的な目で眺めた。……扉がノックされてアイネが出るのはこれが初めてだ。ここまではほとんどわけがわからないまま、毎回のように俺が応対させられていたのだ。


「よお」


 開いた扉の先に見えたのは、片目が潰れた傷だらけの顔だった。たしかエンゾとかいう名前で呼ばれていた気がする。いかつい顔に柔和な笑みを浮かべるエンゾに、アイネは素っ気なく「何?」と返事をした。


「明日、出撃だってよ」


「……どことるの?」


「『国王軍』ってことらしい」


「隊長が言ったの?」


「ああ、そうだ」


「何それ。おかしくない?」


 アイネの声がにわかに険悪なものになるのがわかった。いつもより少しトーンの落ちた、どこか溜息の混じるような声。アイネが本気で気持ちを乱しているときの声だ。


 その理由がエンゾの持ってきた話にあることは明らかだが、事情のわからない俺としては黙って聞いているしかない。


「どうして? 昨日ので補給はできたんでしょ?」


「オレに聞かれたって知らねえよ。隊長に聞けよ」


「だいたい何で『国王軍』なの? あそこが『黒衣』と繋がってるのは知ってるでしょ? この間だって――」


「だからオレは知らねえって言ってんだろ。それに『黒衣』に関しちゃそいつの力をあてこんでんじゃねえのか? その新入りの『魔弾』ってやつをよ」


「ハイジにぜんぶ片づけさせる気? そんなの無理に決まってるじゃない。いつかみたいに十人も来たらどうするのよ」


「だから、オレは知らねえってさっきから何度も言ってんだろが。オレはただ伝令に来ただけだっての。文句があるなら隊長に言え、隊長に」


「わかった。そうする」


「あ? ちょい待て、本当に行くのかよおい!?」


 狼狽するエンゾを押しのけて出て行こうとするアイネに、俺も慌てて立ちあがった。そのままあとを追って部屋を出かけ、だがそこで「来ないで」というアイネの声に阻まれた。


「ハイジは来ないで。話がややこしくなるから」


 振り返りもせずにアイネはそう言い捨て、通路の闇にのまれていった。出足をくじかれた俺は、ただその場に立ち尽くすしかなかった。


 やがてアイネの靴音が聞こえなくなったところで、エンゾと目が合った。


 同じようにその場に立ち尽くしていたエンゾの顔にはやれやれというような微妙な表情が浮かんでいた。そんな彼の片目にも、たぶん似たような顔が映っていたのだろう。


 ――そうして出て行ったきり、アイネはなかなか戻ってこなかった。時計がないので正確にはわからないが、かれこれもう一時間は経ったと思う。けれども、アイネはまだ帰ってこない。


 その間、俺は暗い部屋に一人、手持ちぶさたのまま座っていた。しばらくは外に吹く風の音を聞いていたのだが、その風も止んだ今となっては本当に何もすることがなくなった。


 アイネが出て行った理由――エンゾが持ってきた伝令のことを少しだけ考えた。


 だがその考えの糸もすぐに切れてしまう。アイネがないと言っていた明日の出撃があるらしい。その相手は『国王軍』で、結んでいる『黒衣』が出てくる可能性が高いという。……それだけの情報ではどうにもならない。なぜアイネが慌ただしく出ていったのか、それさえもわからない。


 だがぼんやりと思い返すうちにふと、アイネが抗議に行ったのはひょっとして俺のためではないかという思いが浮かんだ。


 『黒衣』が出てきたらどうするというアイネの問いに、俺の力をあてこんでいるのだろうとエンゾは答えた。これまで『黒衣』をたおせる人間がいなかったという言葉を信じるなら、実際そうなのかも知れない。


 もしそうだとすれば俺は明日の戦闘で極めて重要な……そしておそらく極めて危険な役割を背負わされることになる。


 ――そこまで考えて、それもどうでもいいことだと考えるのを止めた。


 俺のことも少しはあったのかも知れないが、やはりアイネが出て行ったのは別の理由だろう。補給を済ませたばかりなのにあえて危険な相手と戦おうとするDJあいつの考えがわからない……大方そんなところだ。いずれにしても俺にできることといえば、こうして何もせずアイネの帰りを待つことだけだ。


 また風が出てきた。開け放しの窓――壁に穿ち抜かれた穴からは時おり砂混じりの風が吹きこんでくる。


 その音はまだ大きくない……この程度なら何も心配ない。だがこれ以上強くなるなら、砂の侵入を防ぐために何か手段を考えなければならないかも知れない――


「……ん?」


 そんな風の音の中に、蠅の羽音のような唸りをかすかに聞いた。


 規則的に断続する低い唸り……それが蠅の羽音でないことはすぐにわかった。そうして俺は固い床を介して手に伝わってくる振動を感じた。


 毛布をまくりあげる……すると、明滅する薄緑のLEDが周囲をほのかに照らした。


 ――昨日の戦闘で借り受けたままになっていたアイネの携帯が、今まさにどこからかの受信があることを、忙しない震えのうちに訴えていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る