304 二人の預言者(6)

 一瞬、躊躇した。けれども俺はその携帯を取りあげ、ディスプレイを起こして受信のボタンを押した。


「……もしもし」


 携帯を頬にあてて呼びかけた。だが向こうからの返事はない。通じていないのだろうかと、いったん頬から離した。


 いや……やはり通じている。ぼんやりと光を放つディスプレイに『通話中』の表示が出ているのを確認して、それをまた頬に戻した。


「もしもし?」


 もう一度呼びかける。それでも回線の先からは何の応答もない。


 ……どうなっているのかよくわからないまま、俺は仕方なく電話を切ろうとした。


 再び携帯を頬から離し、赤い電話機の描かれたボタンを押しかけ――そこでようやくスピーカから相手の声が漏れてくるのが聞こえた。


「もしもし?」


『その声はハイジだね』


「……」


『あれ、違ったかい?』


「……どなたですか?」


『名乗るほどのもんでもないよ。それに、答えの出てる質問に返事するほど無駄なことはないしね』


 そう言って相手は短く笑った。嘲笑とも、あるいは自嘲ともつかないその笑い声を聞きながら、俺は何も言い返すことができなかった。その通りだったからだ。


 ……そう、相手の言う通りだった。誰かと問う前から――最初にその声を聞いたときから、俺にはもうそれが誰のものであるかわかっていた。


「で、何の用ですかキリコさん」


『おやおや、つれないねえ。まるで用がなけりゃ電話しちゃいけないみたいじゃないか』


「こっちも色々と忙しいんで、あいにく」


『へえ、今の時分なにが忙しいんだい?』


「いや……それは」


『この携帯にハイジが出たとこみると、アイネちゃんは留守か』


「……」


『図星だね。アイネちゃんがいなくて暇持て余してたとこへ電話がきた。けど、不意打ちだった上に相手が相手なんで一応警戒してかかってる。そんなところじゃないかい?』


「……そんなところですよ」


 鮮やかに言い当てられ、俺は早々に兜を脱いだ。


 この手の腹の探り合いでキリコさんに勝てるわけがない。それにさっきの一言にしても勢いで口にしてしまっただけで、別に何かを警戒していたというわけでもないのだ。


 この隊の誰もが信頼するキリコさんから電話がかかってきた……要するにそれだけだ。警戒してかかる必要など、初めからどこにもなかったのである。


「推察通り、アイネならいませんよ? 伝言なら承りますが」


『ああ、いいんだよ。話があるのはハイジにだからさ』


「……俺に? 何の話ですか?」


『そう急かすんじゃないよ。あんたとは一度ちゃんと話しておきたいと思ってたんだ。まともに話したことなかっただろ? さ』


「……」


 弛緩しかけていた神経が一気にまた緊張を取り戻した。いや……さっきまでとは比べものにならないほど大きな、まったくが心に鎌首をもたげるのがわかった。


 キリコさんがおそらく意図的に口にしたその言葉は、紛れもない爆弾だった。この舞台に立つ役者としての俺を木っ端微塵にする火薬の詰まった……。


 気がつけば逃げ場はなかった。文字通り一瞬で追いこまれたことを、俺は理解した。


 正面切って立ち向かう以外、俺に道は残されていなかった。……だとしたら、危険と知りつつもその道を進むしかない。


「どういうことですか? それ」


『ん?』


「そのってのが何のことかよくわからないんですが、俺には」


『……ふうん、そうくるかい。ま、気にしないでおくれ。言葉のあやみたいなもんだよ。言ってみればさ』


 気安い口調でキリコさんはそう言ったが、俺の警戒は増すばかりだった。


 何を暴かれても構わない。だが俺がここに演技をしているという事実だけは……それだけは何があっても暴かれてはならない。


 それが暴かれたときこそ世界の終わりだ。の言葉を借りれば、その時点でこの世界は音を立てて崩れ落ちることになる。


『けど、それってそんな大変なことかい?』


「……何がですか?」


『自分が劇の中にいるってこと喋っちまうのが、そんなに大変なことなのかい?』


「……」


 だが俺の気負いも虚しく、崩壊はキリコさんによって強制的にもたらされた。


 そのキリコさんの言葉に、俺は頭が真っ白になった。……もう俺がどうとり繕っても無駄だった。完全にチェックメイトだ。「決まってるじゃないですか」と、俺は自分でも呆れるほど間の抜けた返事を返していた。


「大変なことに決まってるじゃないですか、そんなの」


『どうしてだい?』


「……」


『どうしてハイジはそれを大変なことだなんて思うんだい?』


 即座に返事を返そうとして……返せなかった。なぜそれが大変なことなのか――わかりきっているはずのそれを、俺はキリコさんに説明できなかった。


 俺が黙っている間、キリコさんも同じように黙っていた。だがやがてしばらくしてスピーカから『いいんだよ』と言う声が聞こえた。


『いいんだよ、そんなのは』


「……」


『自分が劇の中にいるって、ここでそう言っちまったっていいんだよ』


「……いいわけないでしょ」


『いいんだよ。そんなのは言っちまったっていいんだ』


「……」


『演劇なんてそんな堅っ苦しいものじゃないんだ。何をしたっていい、何を言ったっていい。それが演劇のよさってもんじゃないのかい? とりわけあたしたちがずっとってきた演劇に限って言えば、さ』


「……」


 ……確かにそうかも知れない。まだ混乱を引きずりながらも、そのキリコさんの言葉には妙に納得させられるものがあった。


 こと俺たちの演劇――俺とキリコさんが演じてきたヒステリカの即興劇に限って言えば、劇の中で自分が演じていることを口にしたとしても大して問題にはならない。ただそこから先は、そういうものとして物語を進めなければならないというだけのことだ。


 これまでにそういう展開があったかどうかまでは覚えていない。だが、確かにそれは俺たちの演劇にありがちな展開で、それが俺たちの演劇のよさだと言われれば一概には否定できない。


 そこまで考えて、不意に俺はひとつの錯覚に襲われた。


 いま話している彼女がのではなく、のキリコさんであるような錯覚――そうして間もなく、俺はそれが錯覚でも何でもないということに気づいた。


 話の内容を考えればそうなる。……と言うより、そう考えるしかない。この回線の向こうにいるのは間違いなく、俺のよく知るのキリコさんなのだ。


「こっちからも質問していいですか?」


『ん? 何だい?』


「今、キリコさんがいるのはですか?」


『ああ、だよ』


「なら、ってことですか?」


『ああ、ってことだよ』


 その返事を聞いて、俺の中にくすぶっていたものは氷解した。


 それならすべて納得がいく。アイネもDJも、他の誰もがのことを覚えていない中で、キリコさんだけは俺と同じように記憶を持ったままに来たのだ。


 そうとわかれば聞きたいことが山ほどあった。けれども俺が最初の質問を口にする前に、まるでそんな俺の気持ちを見透かすように『けど、その話はここまでだ』というキリコさんの声がかかった。


「え?」


はここまでってことだよ。お互い確認することは確認した。それだけでいいんじゃないかい?』


「……」


『ハイジにはハイジの役があるように、あたしにもあたしの役ってもんがある。それをやってく上でここから先の話はためにならない。たぶんお互いにね』


「……」


『だから、その話はここまでにした方がいい』


「……」


『わかってくれるかい?』


「……わかりました」


 釈然としない思いはあったが、結局、俺はそう返事をした。キリコさんの言うことにも一理ある気がしたからだ。


 この先に踏みこむには一度完全に役から降り、あちらでの俺たちに戻らなければならない。だが俺もキリコさんもこの舞台において、既にそれぞれの役に入っている。


 そのことを考えれば彼女の言う通り、この話はここまでにしておいた方がいいのかも知れない――


『さて、本題に入っていいかい?』


「え?」


『何だ、もう忘れたのかい? ハイジに話があって電話したんだって言っただろ』


「ああ、そんなことも言ってましたね」


『やれやれ、とぼけてもらってちゃ困るよ。大事な話なんだからね』


「で、何の話でしたか?」


『そこから逃げるんだよ』


「え?」


『そこから逃げるんだ。できるだけ早く』


 キリコさんの声が真剣なものに変わった。何かを急き立てるような切迫した声になった、と言い替えてもいい。


 だが俺にはその意味が理解できなかった。キリコさんが何を言おうとしているのか、俺にはそれがまるでわからない。


「……ここから逃げる?」


『そう、そこから逃げるんだ』


「どうして逃げないといけないんですか?」


『そこがもうすぐ壊れるからだよ』


「壊れる? どうやって?」


『自然な状態に戻るんだ。砂漠の真ん中に見捨てられた廃墟の、本来あるべき姿に』


「……」


『まず人が入ってこなくなる。それから水も食糧も、今までどこからか流れこんできてた大事なもんがぜんぶ途絶えちまう。それがどういうことか、ハイジにはわかるね?』


「……わかります」


 愕然として答えた。それほどキリコさんの話は衝撃的だった。


 もし彼女の言うようなことが本当になれば、確かにここは壊れる。……と言うより、ここはもう終わりだ。どうすることもできず、ただ干涸らびるのを待つだけだ。


「つまり、ここのシステムが壊れるってことですか?」


『話が早いね。そういうことさ。これまで機能してたそこのシステムが壊れる。今日、明日にってわけじゃない。けど近いうちに間違いなく』


「じゃあ、逃げろっていうのは……」


『ハイジだけじゃない。そこにいる全員だ』


「……」


『みんなしてそこから逃げろ、ってそう言ってるんだよ』


「何でそれを俺に……」


『他じゃ理解してくれないからさ』


「え?」


『あたしのこの話を理解してくれるのは、あんたたちの中でハイジだけだからさ』


 遠回しなその言葉を、けれども俺ははっきりと理解できた。


 この廃墟に住まう人間の中で、たぶん俺だけがその不自然に気づいている。広大な砂漠の真ん中にいるはずのない人々、あるはずのない戦場。どこから入ってくるとも知れない食糧、ラベルのないペットボトルに詰められた水……。


 それが不自然であることに気づいているのは、キリコさんの言う通り俺だけだ。だからキリコさんの話を理解できるのも、やはり俺だけなのだ。


「けど、逃げるって言ってもどこへ……」


『外へ、さ』


「……」


『あんたたちを取り巻いてる荒野の外へ。言ってる意味がわかるかい?』


「……わかります」


『そうさハイジにはわかる。けど、あんたたちの中でそれがわかるのはハイジだけだ。だからあたしはあんたに話してる。ハイジにしかできないんだよこの話は』


「わかります……いえ、わかりました」


 それもはっきりと理解できる。この廃墟をいだく広大な砂漠の果てに、水と緑をたたえる別世界があることを知っているのも、たぶん俺だけだ。


 アイネたちにとってはここが世界のすべてで、砂漠を越えてその外へ逃げることなど思いもよらない。だからこの話を理解できるのも、確かに俺だけなのだ。


『足はあたしが用意する』


「……」


『水も食糧も、そこの全員が逃げ延びられるだけの分はどうにかする』


「……」


『もちろん、すぐには無理だ。けど、そこが決定的に崩壊する前にはどうにかしてみせる』


 立場とは逆に懇願するようなキリコさんの声を聞きながら、それならば何とかなるかも知れないと思った。


 車があり、当面の水と食糧があれば、この砂漠を越えて行くことも不可能ではないかも知れない。運転などどうにでもなる。満天の星の下に方角を間違えることもない。


 ……けれどもその計画には、まだひとつ大きな障害がある。


「キリコさんの話はわかりました」


『そうかい。なら――』


「けど、俺じゃどうにもならない」


『……』


「ここの連中は隊長の言うことでないと聞かない。だからあいつを説得できない限り、俺にはどうすることもできない」


『その隊長が消えるとしたら?』


「え?」


『予言ってことになるのかね。あんたたちの隊長はもうすぐ消える』


「……」


『おそらく明日だ。明日の戦闘の中で撃ち殺されるか、あるいは何か別の理由でいなくなる。いずれにしても、あんたたちの前から隊長は消える』


「……」


『そしてあんたが――ハイジがそこの新しい隊長になるんだ』


「……!」


 とんでもない方向へ進み始めたキリコさんの話に思考を停止していた俺の頭は、その最後の一言で現実に引き戻された。


 ……冗談を言っているのではないようだ。キリコさんはどこまでも真面目に語っている。


 それがわかっても、俺は何も返せなかった。そんな俺に追い打ちをかけるように、『それしかないんだよ』とキリコさんは言った。


『さっきハイジが言った通り、そこの連中は隊長にしか従わない。だからそこが壊れる前に連中を助けたいなら、あんたが隊長になって外へ連れ出すしかない』


「……」


『今のが明日にも消えちまうとなればなおさらだ。ボスがいなくなりゃ野獣の群れに早変わりだ。統率なんてとれっこない。誰かが成り代わって隊長やるしかないんだよ』


「……」


『けどね、これは予言じゃないよ』


「……」


『さっきのと違って、これは予言じゃない。そうあってほしいというあたしの希望だ。あたしは、ハイジにそこの隊長になってほしい。それがそこの連中を救い出すたったひとつの道だから』


「……」


『あたしはそこの連中のことが好きだ。一人残らず身内みたいに思ってる。だからどうにかして助けてやりたい。むざむざ干物にしてたまるもんか。そのためにはハイジ、あんたに隊長になってもらうしかないんだ。残された道はもうそれしかないんだよ』


 縋りつくような声でそれだけ言うと、キリコさんは黙った。そこまで言われても、俺は一言も返せなかった。


 急に風の音が大きくなった気がした。窓外に吹き荒む風の音がやけに耳障りに聞こえ始めた。


『話はそれだけだ。状況が変わったらまた連絡するよ』


「……」


『そのときハイジが動いてくれてることを、あたしは信じてる――』


 電話はそれで切れた。


 頬から離して眺めると、ディスプレイの照明はもう消えていた。どのボタンを押しても、もう電源は入らない。


 しばらく眺めていたあと、俺は諦めてディスプレイを畳んだ。コンクリートの部屋には風の音と、濃く深い闇だけが残った。


 握りしめる手の中に携帯はもう震えない。薄緑のLEDが点滅することもない。それを確認して、俺はそれをシャツの胸ポケットに入れた。


 それ以上はもう何もすることがなかった。俺は膝を抱え、目の前の暗闇に眼を凝らした。そうして何も考えられないまま、ただじっとアイネの帰りを待った。

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