305 二人の預言者(7)
アイネが疲れ切った顔で戻ってきたのは、もう明け方に近い時分だった。
扉を開ける俺の脇を素通りして部屋の隅に移ると力なくその場に座りこみ、そのまま魂を抜かれたようにいつまでも動かない。
DJへの抗議が不首尾に終わったことは尋ねるまでもなかった。せめて
アイネの意向に逆らわず、沈黙を保ったまま俺は数時間前の回想を再開した。思いがけないキリコさんからの電話と、その中でもたらされた幾つもの情報について。
……その衝撃的な情報のおかげで俺は、ここまでほぼ一晩中混乱の中にあった。ようやく立ち直ってまともに頭がはたらくようになったのはアイネが扉を叩くほんの少し前――つまり、つい今さっきだ。
――ひとつめの衝撃。それは、キリコさんが俺と同じくあちらの記憶を持っていたことだ。
こちらに来て
だが、そこにキリコさんという例外が現れた。これで俺は、この劇中世界の枠組みについて根本的な認識の修正を迫られたことになる。
――ふたつめの衝撃。それは、この廃墟に明日がないという事実を知らされたことだ。
どこからか流れこんできていた水と食糧が、遠からず止まる。広大な砂漠の真ん中で不自然な生態系が成立していたこの廃墟において、考えるまでもなくそれは世界の終わりを意味する。
いったいどんな仕組みで水と食糧が供給されていたのか、そしてなぜそれが止められるのか……そのあたりはわからない。だがはっきりとわかるのは不自然が自然に変わった瞬間にこの廃墟は、生けとし生ける者の死に絶えたその本来の姿に戻るということだ。
――みっつめの衝撃。それは、予想だにしなかった重要な任務の遂行を命じられたことだ。
滅びゆくこの廃墟から外の世界へ仲間たちを逃げ延びさせる。そのために彼らを率いて、広大な海のように広がる砂漠を越えてゆく。
――あるいは、それが俺の役なのかも知れない。
取り留めもなく思い悩むはざまに、ふとそんなことを思った。キリコさんから与えられたその任務こそが、この舞台において俺が演じるべき役なのかも知れない。
俺にとっては降って湧いたような話だが、予めそう仕組まれていたのだとしたら、あながち乱暴な運びでもない。むしろここへきて面白い展開になってきたと感じる自分がいないと言えば嘘になる。
竦んでしまいそうなほど難しい役には違いない。けれども、決して不可能な役ではない。
砂漠を走破するための車、数日分の水と食糧、そうしたものが用意されるというのなら、少なくとも物理的には可能なのだ。それに、難しいのはその先ではない、むしろそこまでだ。そこへ持っていくまでが困難を極める、キリコさんの言葉を借りれば『俺にしかできない』役なのだ。
ようやく仲間として認められ始めたばかりの、ここへ来てまだ数日の俺が隊長になる。そんなことできるはずがない……そう言ってしまうのは簡単だ。だがそれが俺に与えられた役ということなら、できるできないは別にして演じるしかないだろう。
ただ正直なところ、俺はまだキリコさんの言葉に確証が持てないでいる。明日、本当にあいつがいなくなるのか。役に飛びこむ覚悟を決めるのはそれを確かめてからでも、きっと遅くはない……。
「――ねえ」
少し掠れ気味の声に、俺の思考は断ち切られた。
部屋の隅に目をやると、さっきと同じままの姿勢でアイネはそこにいた。
まだ黎明と呼ぶのも早い窓の外からは、かすかに白々としたものが舞いこんでいる。けれどもその薄弱な光は窓のあたりに留まり、アイネのいる奥の暗がりまでは届かない。
「ん?」
「食べた? あれから」
「食べてない」
「お腹空いてるでしょ、なら」
「どうだろ……あまり空いてない」
「それでも入れといて。食事抜くといざってときに動けないから」
そう言うとアイネは、例によって無造作に固形食の袋を投げてよこした。その袋が乾いた音を立て俺の手の中に納まったあと、ごろごろという擬音そのままにペットボトルが転がってきた。
言葉に出した通りあまり食欲はなかったが、アイネの言いつけに従うことにした。ごわついた紙袋の口紐を抜き、一本を口に運んでからペットボトルを開封した。
それからアイネも同じように袋を開け、食事を始めた。固形食を
食事を終えるとアイネはまた彫像に戻った。緩慢に白んでゆく窓の外をぼんやりと眺め、瞬きすらしていないように見える。
そんな彼女を認め、俺もさっきまでの思案の中へ帰ろうとして――床に置いたままになっていた冷たいプラスチックの塊に指が触れた。
「アイネ」
「……何?」
「これ、返しとく」
こちらに顔を向けたアイネの手元目がけて、携帯を投げた。アイネは表情を変えずに受け止めると、何も言わずそれを懐にしまいこんだ。
「あと、電話があった」
「え?」
「アイネが出ていった少しあとで、その携帯に電話がかかってきた」
「誰から?」
「キリコさんから」
「……どういうこと?」
「ん?」
「……どうして先生から電話がかかってくるの?」
不審そうな声でアイネはそう言った。そんなことはあり得ないと言わんばかりの言い方に答えは予想できたが、それでも俺は一応その質問を口にした。
「キリコさんからの電話は珍しいのか?」
「珍しいんじゃなくて、ない。部隊の人間でもないのに携帯が通じるなんて、そんなの聞いたこともない」
「……そういうもんなのか」
「だいたい部隊に関係なく携帯に電話がかかったら大変なことになるし」
「どうして?」
「戦闘の最中に何を信じればいいかわからない。偽の情報で罠にかけられたらどうするの」
「……なるほどな」
「それで、何て?」
「ん?」
「その電話で、先生はハイジに何て?」
「……」
一瞬、言葉に詰まった。話の流れからすれば当然の質問だったが、俺の方では準備がまるでなかった。
だが、その迷いもすぐに消えた。……アイネに隠し事はしたくない。それにキリコさんの言っていたことが本当なら、いずれはアイネにも話さなければならないのだ。
「逃げろ、ってさ」
「え?」
「ここはそのうち駄目になるから、そうなる前に逃げろ、って」
「ここ……って、このアジト?」
「違う。ここ全体」
「……」
「このアジトを含めて、アイネたちがずっと生きてきたこの廃墟全体」
俺がそう言うとアイネは押し黙った。部屋の奥の薄暗がりからじっとこちらを見つめながら、再び彫像になったように動かない。
あるいは俺の言うことを疑っているのかも知れない……そう思って、キリコさんが『俺にしか話せない』と言った意味を、言葉ではなく実感として理解できた気がした。
「……どこへ」
「ん?」
「逃げるって、どこへ?」
「ここの外へ」
「ここの外?」
「ここの周りに広がってる砂漠の外」
「どうやって?」
「たぶん車……アイネたちが『鉄騎』と呼んでるあれで。キリコさんが用意してくれるらしい」
「何があるの?」
「え?」
「ここの外。何があるの? そこには」
「何でもある。水も食糧も。……そう、俺があいつらに話してたような場所なんだよ、そこは」
「あいつら?」
「ラビットたちに話してた場所。寝たふりして聞いてたんだろ?」
「でも、それだと聞いてた話と違う」
「どこが?」
「だって、その場所には死なないと行けないんじゃなかったの?」
そのアイネの質問に、俺は今度こそ本当に言葉を失った。見過ごしていた矛盾……見過ごすことのできない矛盾に、初めて気づかされた。
「……そのはずだったんだけどな」
そんな答えを返しながらも、にわかに膨らんだ疑問は頭から消えなかった。
キリコさんの話は、この砂漠の廃墟が俺のよく知る世界の一部であることを前提としていた。それはつまり、俺のいたあそこと今いるこことが地続きであることを意味している。この廃墟のまわりに広がる砂漠を越えて行けば俺のいたあの町にたどり着く――そういうことになる。
……そう、本来ならばそう考えるのが自然だ。
三日前、この廃墟に立つ自分を発見したばかりのとき――いや、それからもしばらくその疑念は俺につきまとった。劇の中の世界なんてありえない、そんなものが存在するはずがない、と。
けれどもその証拠を嫌というほど突きつけられ、いつしか俺はそれを信じるようになっていた。ここは確かに劇の中の世界で、俺は一人の役者としてそこに立っている、と。
その確信が今、音を立てて揺らぎ出した。
この廃墟を取り巻く砂漠の外に俺のいたあの町があるなら、ここは劇の中の世界ではありえない。だがここまで俺が見てきたものが目の錯覚でない限り、ここは確かに劇の中の世界であると考えざるをえない。
堂々巡りを始めようとする俺の耳に、「どうして?」という声がかかった。ほとんど救いを求めるような思いで、俺はアイネに目を戻した。
「どうして先生はそれをハイジに?」
「……ここのやつらを助けたいからだって言ってた。見殺しにできないって」
「そういうことじゃない。どうして隊長じゃなくてハイジに?」
「ああ……そっちか。それは、俺にしか理解できないからって」
「どういうこと?」
「ここの外にそういう世界があるってことを、俺しか知らないから」
「……」
「だから俺以外のやつに話しても意味がないからって、そう言ってた」
「……それで、どうするの?」
「ん?」
「先生の言うことを信じて、ハイジはそこへ行くの?」
「どうだろ。俺が行くって言ったらアイネも来るか?」
自問を繰り返してもまだ答えを出せないでいるその問題に、思いつくまま俺はそう問い返した。
その問いにアイネは驚いた顔をして俺から目をそらし、少しの間考えているようだったが、やがてこちらを見ないまま答えた。
「……行かない」
「そっか。なら、俺だけ行くってのもなあ」
「どうして?」
「いや、相棒だから」
「……」
「相棒見捨てて自分だけ逃げるわけにはいかないだろ」
「……そう」
「ただそうなると、俺がここでやるべきことがまたわからなくなるんだけど――」
「何なの、それ?」
「ん?」
「ハイジの言ってる、それ。それが何か自分でもわからないって言ってたじゃない。先生と話して、それがわかったの? ここでハイジがやるべきことって、いったい何なの?」
「……」
「わたしにはハイジの言ってることが全然わからない。ちゃんと聞かせて、わたしにもわかるように」
そう言ってアイネはまたこちらに目を向けた。ようやく朝日と呼べるまでになった窓からの光が、真摯な表情を浮かべるその顔を眩しく照らした。
当然のように、俺は答えることを躊躇った。その質問に答えるにはどうしても説明しなければならない……説明することのできない話がある。
『演劇なんてそんな堅っ苦しいものじゃないんだ』
ふと、キリコさんの言葉が蘇った。そうしてすぐ、俺はこの舞台がもうそうなってしまったことに気づいた。
さっきの掛け合いの中で、俺とキリコさんの間にはそういう認識ができあがってしまった。それならば、ここから先はそういうものとして物語を進めなければならない……それが即興劇の不文律だ。
そのことを確認したあとも、俺はしばらくその答えを躊躇った。
その答えを口から出した瞬間にもう後戻りはできなくなる、それがわかったからだ。……そしてそれ以上に、さっき自分の中で揺らぎ始めたそれを言葉にすることへの抵抗があった。
――それでも、俺はやがて躊躇うのを止めた。そうして自分にも言い聞かせる思いで、その答えを口にのぼらせた。
「演劇の中なんだよ、ここは」
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