306 二人の預言者(8)

「え?」


「昼間に話してただろ。『演劇』ってやつ。ここは、その『演劇』の中の世界なんだよ」


「……余計わからなくなったんだけど」


「だろうな。こうして話してる俺だって実のところよくわかってないわけだし――」


 それから俺は自分がここへ来るに至った過程を、まとまりのない説明でアイネに語って聞かせた。


 高校の頃、お互い別の場所で演劇をしていたという話から始めて、そこで交わしたいつか一緒の舞台に立とうという約束……そしてヒステリカの話へ。即興劇の本質とその特殊性。流動的な展開に応じて自分の役を模索し、適合させていかなければならないことについて。


 俺の語るヒステリカの話をアイネはどこかつまらなそうな顔で聞いていたが、そのメンバーに話題が移ったところで急に興味を示し始めた。


 DJ、キリコさん――アイネにとって身近な人間の名前が出るたびに、演劇に関係ないことまで詳しく聞きたがった。聞かれるままに俺は、アイネの頭が消化不良を起こさない範囲で彼らのことをあれこれ語って聞かせた。


 もちろん、の話もした。この期に及んであの人のことだけ隠しておく必要はない。それにクララのことでつまらない誤解を残しておくのも嫌だった。隊長にまつわるその話にアイネはさすがに驚いた顔をしたが、すぐ元の表情に戻り、そのあともときどき訝しそうに眉をひそめながら黙ってそれを聞いていた。


 やがて話題は舞台前最後の一週間に移った。常識では説明のつかないことが次々に起こり出したあの七日間について。


 ……そこで俺は初めて話に嘘を混ぜた。その日々の中心に揺れ動いていたもの――擦れ違い、弾き合い、最後に重なり合ったアイネとの関係だけは巧妙に物語から外し、別の要素に組み替えて話を続けた。


 わかりやすい説明ができたとは思わない。それでもアイネは概ねのところで俺の話を理解してくれたようだった。


 ただ日曜日のホールで俺が自分の頭に向け銃を撃ったというくだりだけは理解できないとはっきり口に出して言った。そのことについて、俺はもうそれ以上言葉を重ねなかった。あちらのアイネでもそのあたりは理解してくれないかも知れない……そう思ったからだ。


「――つまり、その『演劇』での役を果たすためにハイジはここへ来たってこと?」


 長い説明に区切りがついたところで、ようやく振り出しに戻ったというようにアイネがそう切り出した。


 いつの間にかもう外はすっかり明るくなっている。まだ肌に残る夜気の名残が消え失せるのも時間の問題だろう。


「まあ、そういうことだ」


「なら、その役を果たしたら元いた場所に帰るってこと?」


「それは……まだわからない。ただ、少なくともその役を果たし終えるまでは帰れない」


「けど、その役が何なのか自分でもわからない」


「そうだ。それがどんな役なのかは、まだ俺にもわからない」


 そう言いながら俺はさっきの電話の中でキリコさんに指し示された任務のことを思い出していた。もし俺がその任務を受け容れるのなら、それは間違いなくこの舞台において俺が果たすべき役になる。


 けれども、その任務の話はまだ今の段階ではアイネに聞かせることができない。DJあいつに代わって俺が隊長になる――それを口にすることがこの隊においてどういう意味を持つのか、入隊して日が浅い俺にもそのくらいのことはわかる……。


「そこでハイジは、わたしと結婚するの?」


「え?」


 何の脈絡もないその問いかけに、思わずうわずった声が出た。


 視線を向けると、アイネはさっきまでと変わらない顔でこちらを見ていた。何も特別なことは言っていないという表情だ。俺の見ている前でその唇がもう一度同じ言葉を繰り返した。


「ハイジはわたしと結婚するの? そこで」


「……そこ?」


「さっきまで話してくれてた、そこ。ここに来る前にハイジがいたっていう場所。ハイジはそこでわたしのこと、ずっと犯したくていたんでしょ?」


「……ああ、まあ」


「結婚しないと犯せないんでしょ? そっちでは」


「……」


「なら、そっちでハイジはわたしと結婚するのかって、そう思ったんだけど」


 唐突過ぎる質問にすぐには応えられなかった。だが、考えてみればその理屈は正しかった。


 アイネのことを犯したい……一昨日あたりの会話で俺は確かにそう言った。そうしてあのラビットたちとの会話で、俺のいた場所では結婚しなければ女を犯すことができないと言った。


 その二つを併せれば、アイネの言っていることは理にかなっている。何の前触れもなくそれを聞いてきたことを考えても、彼女の中ではきっと自然な流れだったのだろう。


 そうしてふと、俺は自分の中にその質問への答えを持っていることに気づいた。――いつか、俺はアイネと結婚する。それは確かなことだと思った。


 もちろん、そんなことはこれまで一度も考えたことはない。けれども俺は生涯あいつを裏切ることはない、それだけは確信を持って言える。そして俺が裏切らない限り、あいつが俺を裏切ることはないだろう。だとすれば、いずれ俺たちはそうなる。


 心の中でそれを確認して、妙に清々しい気持ちでそれを告げた。


「ああ、いずれそうなると思う」


「それなら、ハイジはわたしのことを自分より優先できるの?」


「え?」


「結婚するってことはそういうことだって言ってなかった? 相手のことを自分より優先することだって」


「ああ……確かに言ったな」


「ハイジはわたしと結婚するんだよね? それなら、自分よりわたしのことを優先できるの?」


「できるよ」


「本当に? わたしの身代わりになって死ねる?」


「アイネのためなら、俺はいつでも死ねる」


 奇妙に清々しい気持ちのまま、何のてらいもなく俺はそう返した。


 土曜日の舞台裏――得体の知れない銃撃戦の最中に自分がとった行動を考えれば、その言葉に嘘はないと思った。


 そうして俺はその相手が既に自分にはいたことを知った。リカを前に口走った『そいつのためなら死ねる』という相手が……。


 始まったばかりの恋愛関係にありがちな錯覚と言ってしまえばそれまでだ。けれども今のこの瞬間に俺は、それを永遠に変わることのない思いだと信じている。


「……ばかばかしい話。何の見返りもないのに」


「見返り?」


「死んだら、もうわたしを犯せないじゃない。なのに」


「そういう問題じゃないんだよ」


「どういうこと?」


「俺がアイネのために死ねるってのは、そういうことが問題じゃないんだ」


 そう言って俺は苦笑いを浮かべた。傍目から見ればどうしようもなく恥ずかしい話をしているはずなのに、それを恥じらう気持ちは湧いてこなかった。


 アイネはしばらく困惑したような顔でこちらを見ていたが、やがて諦めたようにそっぽを向いた。そんなアイネを見て俺はまた少し笑ったあと、微妙な感じになった空気を変えようと頭の中に別の話題を探した――


「ん?」


 ――と、そこで扉をノックする音がおもむろに響いた。


 どうにも来客の多い部屋だ、と思いながらアイネに目をやると、こちらを見ないまま不快そうな表情で「出て」と一言だけ呟いた。


 ……その反応で誰が来たかは何となく察しがついた。アイネとは別の理由で興ざめを覚えながら、無言で立ちあがって扉の鍵を開けた。


「おはよ、ハイジくん」


「……ああ、おはよう」


 扉の先にいたのは、やはりリカだった。またラビットたちと一緒かと思ったのだが、今度は一人だ。


 いつも通り馴れ馴れしい笑みを浮かべて、ノブを握ったままの俺ににじり寄ってくる。だが昨日のように部屋の中に入ってこようとはせず、息がかかるまで近づいたところで静かに俺のシャツの袖を掴んだ。


「ちょっと、ハイジくんに用があって来たんだ」


「あ?」


「また色々教えてほしくて。今度は二人きりで」


「はあ? 何だそりゃ――」


 俺がそう言いきるより早く、リカは俺のシャツの袖を握る手に力をこめ、頭をあげた。薄く唇を開いたどこか不安げな顔が、思わせぶりに輝く上目遣いで俺を見あげた。


 そんなリカの表情に、俺は何となく落ち着かないものを覚えた。うまく反応できないでいる俺に顔を更に近づけ、熱っぽい声でリカはなおも続けた。


「ね、来て? お願いだから」


「あのなあ、そう言われても……」


「ねえお願い、どうしても二人で話したいの」


「そろそろ寝ようかと思ってたところだし……それに、相棒アイネが何て言うか――」


「行ってくれば?」


 俺が名前を出したところで、ほとんど間をおかずにアイネが口を挟んだ。苛立ちを隠さない、突き放したような言い方だった。


「お許しが出たよ?」


 と息だけでリカが囁いた。それでも俺が躊躇っていると、「行ってきて」というアイネの声がかかった。


「行ってきて、ハイジ。これ以上聞きたくないから、その女の声」


 俺の知るアイネからは考えられない物言いに、言葉を失った。そんな俺に構わず「じゃ、行こ?」とリカは言い、シャツを掴んでいた手で俺の腕を握りなおすと、そのまま強く引いた。


「――おい、ちょっと待てって」


 夜が明けきってなお通路は薄暗かった。どこからか洩れてくる光のために辺りが見えないほどではないが、石ころの多い靴の底にともすれば足をとられそうになる。


 そんな中を強引に腕を引かれて走り続けられたのでは堪らない。それが理由で、呼びかける自分の声にかすかな怒りが混じり始めているのがわかる。


「どこ連れてく気だよ。さっきから聞いてるだろ」


 何回そう尋ねてもリカは答えない。腕だけは痛いほどの力で握りしめ、だがこちらを振り返りもせず、黙って走り続ける。いっそ振り払ってやろうかと一度は思ったが、何となく気が引けてできなかった。


 二人で話がしたいだけなら空いている部屋は幾らでもある。そう口に出そうとして……結局、それもできなかった。


 それもすべてリカのただならぬ気配を感じてのことだった。扉の先に出迎えたときから、いつもと違う張りつめたような何かがリカにはあった。


 その正体がわからないまま、こうしている今も俺は胸騒ぎに近いものを感じ続けている。それがこれまでリカに対して感じたことのない感情であることも、大人しくひっ立てられる俺の従順ぶりを助けている。


 だが、それもそろそろ限界だった。こちらのことなどお構いなしに腕を引っ張るリカの意外な力に、このままでは肩が脱臼してしまいかねない。ここで急に立ち止まればおそらく本当にそうなる。


 だからそうする代わりに腕を掴む手を引き剥がそうと、置いてけぼりになっていたもう一方の手をその縛められた腕にゆっくりと伸ばした――


「うお!」


 伸ばした手が腕を掴むそれにかかりかけたところで突然、リカは何も言わず走るのを止めた。文句を言う間もなく扉が開き、また腕が引かれる。だが俺はもうそれに抗わなかった。その部屋がリカの目指していた場所だとわかったからだ。


 連れこまれたそこは暗く狭い部屋だった。


 抜けてきた薄暗い通路に比べてもなお暗い。その理由はすぐにわかった――窓がないのだ。狭苦しく天井の低い倉庫のようなそこには明かりとりの小窓すらなく、開け放たれた扉から申し訳程度に浸みてくる薄明かりを除けば、視界を確保してくれるものはどこにもない。


 そんな俺の声を聞きつけたかのように、背後で扉の閉まる音が聞こえた。


 それと同時に、部屋の中は自分の鼻先も見えないほどの完全な暗闇になった。文字通り前後の区別もつかなくなった俺は軽い混乱を覚え、とりあえずリカの名前を呼ぼうとした。


 ――その途端、質量のある塊が腕の間に飛びこんでくるのを感じた。驚きに息さえもつけないでいる俺の身体に両腕をまわし、まるで獲物を離すまいとするように強い力で、暗闇のなか何も言わずリカは俺に抱きついてきた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る