307 二人の預言者(9)
「ちょ……リカ」
どうにかそう呼びかけたあとは、もう何もできなかった。骨がきしむほどの力で抱き締めてくるリカの腕を振りほどくこともできず、かといってその背中に自分の手をまわすこともできない。
何も見えない暗闇にぎこちなく浮いた自分の腕を思い描きながら、リカが何を思ってこんなことをするのか――ここまであえて考えないようにしていたそれを頭にのぼらせようとした――その矢先だった。
「……っ! ……っ!」
びくびくと脈打つ身体を胸の中に感じた。ほどなくして聞こえ始めた嗚咽で、その震えの正体はわかった。
――リカは泣いていた。苦しそうに身体を震わせながら必死に声を殺して、それでも我慢できずしゃくりあげるように泣いていた。
「あ……あたし……ど……どうしたら……い……いいのかな」
「……え?」
「も……もう……ど……どうしたらい……いいのか……わ……わからなくて」
「わからないって……何が」
問い返してもリカは答えない。その代わりに俺の身体にまわした腕にいっそう強く力をこめ、喉の奥から絞り出すような泣き声をもらした。
シャツ越しに熱い吐息がかかるのを首元に感じながら、俺はリカの身体に腕をまわし、落ち着かせるために軽く背中を打った。
「どうしたか言ってみ?」
「お……おきて」
「ん?」
「や……破ってるの……おきて」
「掟?」
「あ……あたし……あたしたち……掟……破ってる。あ……あたし……相棒に……カラスに……お……犯されてる……何度も!」
そう言うとリカは堰を切ったように声をあげて泣き始めた。周囲に聞かれることを恐れてか俺の胸に顔を押し当てるようにして……その指で俺の背中を掻きむしるようにして。
「い……いけないことだって……わ……わかってる! で……でも! あ……あたし……嫌じゃなくて! お……おか……犯されたくて!」
「……」
「な……仲間なのに! い……いけないのに! し……知られたら! た……隊長に知られたら……こ……ころ……殺されるのに!」
「……リカ」
「け……けど! あ……アイネ……アイネは知ってる!」
「……」
「あ……あたしたちが! お……掟破り……だって……し……知ってる!」
「……」
「それ……それで……き……嫌われた! な……仲……良かったのに! でも……アイネは! た……隊長には……い……言ってなくて! だ……だから! あた……あたしどう……どうしたら! い……いいか! わ……わからなくて!」
そのあたりから支離滅裂になり始めたリカの告白は、やがて意味をなさないきれぎれな単語の羅列になった。
それでも俺にはおおよその部分でリカが伝えようとしたことがわかった。入隊の日、DJに教えられたこの部隊の掟。『仲間を犯さない』というそれを破ったとリカは言っているのだ。
リカに対するアイネの態度の理由もよく理解できた。呆れるような話だが、あいつのそういうところはこちらでも変わらないということなのだろう。
それにリカがこれだけ取り乱すことを思えば、その掟破りの意味が決して軽くないものであることはわかる。
苦しそうに泣きじゃくるリカをどうすることもできず、俺はただ黙ってその髪を撫でた。
暗闇に目が慣れてきたのか、壁と扉の隙間から射しこむかすかな明かりで胸に抱いているものの輪郭をおぼろに見ることができた。だが、俺はあえてそれを見ないようにした。
目の前の暗闇を眺めるともなく眺めながら、自分の見ているそれが、あるいはリカが今日まで一人で見続けてきたものなのかも知れないと思った――
「――破ってない」
「え?」
「リカは破ってないよ。掟」
リカの嗚咽が静まり、それが啜り泣きに変わったところで、そう言って俺は切り出した。お互いもう抱き合ってはいない。扉の脇に並んで座り、壁に背もたれている。
「……どうして?」
「『犯す』って言葉の意味を取り違えてるんだよ」
「……どういう風に?」
「『犯す』ってのは、嫌がる相手に無理矢理そうすることを言うんだ」
「……」
「リカは嫌じゃないんだろ? ならそれは『犯された』わけじゃない」
「なら……それは何て言うの?」
「それが『愛する』だよ」
「……」
「そういうのを『愛する』って言うんだ」
――リカの剣幕に押されてか、恥ずかしげもなく俺はそう言った。おかしなところで昼間の話と繋がったと思った。
だがそれで俺には、リカがこんな告白をしてきた理由がわかった。きっと、昼間に俺が語ったあの話が、リカの中にあった何かを決壊させる導火線になったのだ。
……ただ、結果としてそれは良いことだったのだろう。きっとリカはここまでその秘密を誰にも話せず、一人で苦しんでいたに違いないのだから。
「たぶんだけど、隊長もそのあたりわかってるよ」
「え?」
「隊長はもう、リカたちのこと知ってるんじゃないか?」
「……」
薄々感づいていたのだろう、俺の問いかけにリカは沈黙した。
掟破りを目撃したアイネがそれを隊長に報告しないはずはない。そしてそれを告げられたDJの反応もだいたい予想がつく。
アイネがあれほどリカを拒絶するのも、あるいはそのためかも知れない。DJによって黙認されたことで、アイネにとっては逆にそれが金輪際許せないことに変わったのだ。
「それでもリカたちに何のお咎めもないのは、そのへんの意味を隊長がわかってるからだと思う」
「……そうなのかな」
「そうでないと変だろ。何で掟を破ったリカたちがのうのうと生きてるんだよ」
「……うん、そうだね」
何の根拠もない話だった。実際のところDJがそのことを把握しているのかどうか、それさえ想像の域を出ない。
それでも出任せの嘘をつき通しだった今日一日の終わりに、リカを元気づけるための嘘を最後にもうひとつだけつくのなら、それもいいと思った。
あれからどれほどの時間が経ったのだろう……この部屋の中もかなり蒸し暑くなり始めている。そろそろここを出ないと、今度は俺たちの間にあらぬ噂が立ちかねない。
「ハイジくんは優しいね」
「ん?」
「あたし、ハイジくんになら『愛され』てもいいよ?」
「……ばか言うな。こっちから願い下げだ」
「あは、そうだよね。ハイジくんがそうしたいのはアイネだもんね」
「……何でそんなことわかるんだ?」
「見てて何となく。やっぱりそうなの?」
「さあな。それより、もう出よう。あんまり長くここにいると、俺まで掟破ったって誤解される」
「あたしと?」
「他に誰がいるんだよ」
「うん、それならハイジくん先に出て。あたしはもう少しここにいる。……泣いた顔誰にも見られたくないから」
「そうか」
「ごめんね、迷惑かけて」
「……いや、別にいいよ」
「あとね」
「ん?」
「ありがと――」
リカを残して部屋を出ると、通路にこもる熱気が待ち構えていたように俺を襲った。やはり相当長く中で過ごしてしまったようだ……そう思って俺は足を速めた。
他の誰でもない、アイネだけは俺がリカと連れだって出ていったことを知っている。下衆の勘ぐりのようなことをアイネがするとも思えないが、できるだけ早く帰って、話せるだけの事情を話して聞かせないといけない。
だがそう思って先を急ぐ俺の足は、しばらくもしないうちに立ち止まった。通路の先に、今ここで最も会いたくない男の姿が目に入ったからだ。
――それはカラスだった。胸の前に腕を組み、通路の壁に背もたれたカラスは所在なさげに視線を落とし、こちらのことなど気に留めていないように見える。……そうしてそれが見せかけに過ぎないことも、当然のように俺にはわかる。
「……ち」
思わず舌打ちをしていた。リカの悩みを聞くだけなら結構だが、こんな茶番に巻きこまれるのはごめんだ。けれども事ここに至っては引き返すこともできない。内心に深い溜息をついたあと、俺は意を決して、何事もなかったかのように歩行を再開した。
「――ひとつだけ言っておきます」
カラスの前を通り過ぎようとしたとき、予想通りその声は来た。俺は立ち止まり、だがカラスの方は見ない。
そういう展開なら合わせるまでのことだ。こんな黴の生えた場面なら、頭で考えるまでもなくどうすればいいかわかる。
「僕はあなたが嫌いだ。初めて顔を合わせたときから嫌いだった」
「……気が合うな。俺もだよ」
「こうして話しているだけでも虫酸が走る。どこかでこっそりと後ろから一撃お見舞いしたいくらいです。それくらい嫌いなんです」
「俺もだ。ますます気が合う」
「ですが掟を破るわけにはいきません。ハイジさんもご存じでしょう? 掟のことは。せいぜい仲良くやっていくつもりですよ、僕なりに。ハイジさんとも、ハイジさんと仲の良い人たちとも」
「そりゃ結構」
「ですが一点、どうしても聞き届けてもらいたいことがあるんです」
そこまでとは明らかに違う緊迫した声でカラスは言い、言葉を切った。そうして充分に溜めをつくったあと、「僕の相棒のことです」と一息に告げた。
「僕の相棒におかしなことを吹きこむのは止めてもらえませんか?」
「……」
「心配でならないんですよ、こっちとしては。ハイジさんが周りの人をどう
「……」
「けれども背中を預ける相棒とあっては見過ごせません。リカには近づかないでほしいんです。どうかそれについては――」
「……ふっ、ふふ」
そこでついに
それが失笑であることは自分でもよくわかったし、逆上したカラスに撃ち殺されても文句は言えないと思った。それでも、俺は笑いを抑えられなかった。
銃声はなかった。その代わりに高校の頃さえあまり聞いたことのない、怒りに充ちたカラスの声が背中にかかった。
「何がそんなにおかしい」
その声で更に笑いそうになるのを、今度はどうにか
こんな場所で初めて
「だったら首に縄でもつけとけよ」
「……」
「あいつが聞きたいって来てるんだ。追い返すのも悪いだろ?」
そこで俺は初めてカラスを振り返った。二人の視線がぶつかるのと、カラスの方で目を逸らすのとが同時だった。
それを確認して俺は首を戻し、先を歩き始めた。「よろしくお願いします」というカラスの声が、未練がましく背中にかかった。
「さっきも言ったように、僕としてはこれからも仲良くやっていきたいんで」
「ああ、こっちこそよろしくな――」
――部屋に帰り着くと、アイネはもう寝ていた。すっかり高くなった陽射しがつくる濃い影の中に、くるまった毛布を穏やかに上下させていた。
鍵をかけないで寝ているのは俺の帰りを気遣ってのことだろうか。……それとも、そのためにいちいち起こされたくなかったからだろうか。
俺も眠ろうと自分の毛布のところへ行くと、丸まったそれの隣に固形食の袋とペットボトルが置かれていた。俺の分ということなのだろう。あまり気は進まなかったが食べないと動けなくなるというアイネの言葉を思い出し、一人もそもそとわびしい食事をとった。
それも終えてしまうと俺はその場に毛布をかぶり、もう慣れた
だがそこで一度身を起こし、静かな寝息を立てるアイネに向かって言った。
「リカは、掟破ってないから。あいつはただ……」
そこまで言ったところで自分がしていることの無意味さに気づき、また頭から毛布をかぶった。
何を言っているんだろう俺は――と、今日何回心に呟いたか知れないそれを最後にもう一度思って、長かった一日を終えることにした。
『そこから逃げるんだ。できるだけ早く』
目を閉じた頭の奥にふと、キリコさんの言葉が蘇った。この小さな世界の終わりと、DJがいなくなるという予言。その上で俺に与えられた気の遠くなるような任務と……。
けれども、俺はそのすべてを頭から追いやって、ざらついた毛布の内側に深い眠りが訪れるのを待った。
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