070 劇中劇(8)

 ――ケーキを食べ終わって店を出ると、外はもうすっかり夜だった。


 広場からのバスで夕方に着いて、結局、閉店の時間になるまでそこにいた。コーヒーか紅茶がつくケーキビュッフェはかなりで、けれども俺はふたつ、ウルスラはひとつしか食べなかった。美味しくなかったわけではない。むしろ俺としては値段の元をとるためにもあと何個か食べたかったのだが、みっつめを取りに席を立とうとしたときウルスラの顔に浮かんだ微妙な表情を見てそういう店ではないと悟り、俺なりに自重したのだ。


「美味しかったですね」


「ああ」


「何ですか? その気のないお返事。本当は美味しくなかったんですか?」


美味しかった」


「ですよね。また来ましょう、近いうちに」


 そう言ってウルスラは嬉しそうに腕を組んでくる。ほとんどぶら下がるように甘えてしなだれかかってくる彼女に俺はもう抗わず、ありのままの気持ちで小さな溜息を返す。


 どうもこの子の中には人目を気にするという言葉がないようだ。そのせいで俺はさっきの店でも彼女が「あーん」と言って突き出してくるフォークを前に、何度も大口をあけて間の抜けたつらを晒すはめになった。


「ああ、胸がいっぱい。あのお店、雑誌で見たときからずっと行きたいと思っていたんです。お兄さまと一緒に」


「そうか」


「はい。ですから今、とっても幸せです。夢が叶いました」


「よかったな。安い夢で」


「最後の一言は余計です」


「よかったな」


「はい。これもみんなお兄さまのお陰です」


 店にいる間じゅう、ウルスラはずっと話し詰めだった。ちょうど彼女くらいの年頃の女の子がするようなとりとめのない話を、花やいだ笑顔でいつまでも喋り続けた。


 俺はもっぱら聞き手にまわり、自分からはほとんど何も話さなかった。それでもくるくると表情を変えながら嬉しそうに話す彼女を見ているだけで、俺の方としても充分にその時間を楽しむことができた。


 背の低いビルの合間に覗く夜空は、星がまばらに浮かぶいつも通りの夜空だった。あの銀色の異様な空はたれこめる夜の帳に隠れて、もう見えない。


 ところどころ欠けたネオンが明滅する道脇の商店街に、じっとりとたゆたう夏の夜の空気。そんな町並みをウルスラと歩きながら、俺はようやくに戻ってきた――そんな気がした。


「ところで、どこ向かってるんだこれ」


「どこでしょうね」


「もう帰るのか?」


「お兄さまはもう帰りたいんですか?」


「別にどっちでも」


「なら、あたしもどっちでも」


「だから、どこ行くんだよ?」


「さあ? お兄さまと一緒ならどこへでも」


 そんなことを言ってウルスラは抱えこんだ俺の腕に頬をすり寄せてくる。そうしながら上目を使う端整な顔には、どこまでも無防備な親しみの表情が浮かんでいる。


 目鼻立ちの整ったその美しい顔に、けれども俺の胸は少しもときめかない。代わりにかすかな鬱陶しさの混じった、懐いてくる妹に兄が感じると勝手に想像していた感情を、素のままの気持ちの中に感じている自分がいる。


「こうしてるとあたしたち、他の人の目にはどう見えるんでしょうね?」


「仲のいい兄妹だろ。普通に」


「そんな風に思うのはお兄さまだけです」


「ならどう見えるんだよ、他のやつには」


「どう見えるんでしょうね。聞いてみましょうか?」


「やめろって」


「あは、おかしなお兄さま。本当にするわけないじゃないですか、そんなこと」


 悪戯っぽい笑みを浮かべてそう言うウルスラに曖昧な表情で返して、夜のしじまに目を戻した。


 ……はぐらかしてみたところで当然、そのへんは俺にもわかっている。知り合いに目撃されたらまずいことをやっているのは間違いない。DJあたりならともかくアイネやキリコさん、ましてにこんなところを見られでもしたら――


「……」


 そうして、俺は忽然とペーターのことを思い出した。それと同時に、いま自分がやっているが何のためのものであるか、改めてそのことを思った。


 俺がこうしてウルスラと二人で歩いているのは、他ならぬあいつを舞台に立たせるためだ。


 あの歯車だらけの場所でウルスラが口にした言葉を信じるならそうなる。だとすれば彼女がこうして人目をはばからずいちゃついてくることにも何か意味がある……よくわからないがそういうことになるのだろう。


 だがいったいなぜそうなるのか、それが俺にはまるでわからない。俺たちが仲のよい兄妹として振る舞うことであいつの意識が舞台に向かうとはとても思えないし、逆に万一こんなところを目撃されたら事態をますます悪化させるのは目に見えている。


 ……ただ、いくら気になったところで《兄》である俺が《妹》にそれを聞くことはできない。それにここへ来る前、この舞台に立つことを受け容れた時点で、俺はすべてを彼女に任せると約束したのだ。そのことを思い出し、ウルスラに聞こえないように小さくひとつ溜息をついて、俺はその考えを頭から追いやった。


 ――ペーターによく似た影とすれ違ったのはそのときだった。


「――」


 振り向いたとき、そこには誰もいなかった。まだ網膜から消えない残像に、俺は急いで周囲を見まわした。


 だが、やはり誰もいなかった。人足ひとあしの少ない場末のの町に、俺が目にしたはずの人の姿は、どこにもなかった。


「どうかなさったんですか?」


「……いや、何でもない」


 不意に立ち止まった俺に訝しそうな顔で尋ねるウルスラにそんな返事を返して、俺たちはまた歩き始めた。


 飴色の光を放つ薄汚れた灯火に蛾の群れが飛び交っているのが見える。……幻だったのだろうか、とぼんやりそう思った。


 だが、俺があいつの姿を見間違えるはずがない。それに人違いだとしても、擦れ違ったばかりの人影が振り向いた後ろにないというのはおかしい……。


「そんなに綺麗だったんですか?」


「何のことだ?」


「急に振り向いたりなさって。綺麗な人が目についたに決まってます」


「そんなんじゃないよ」


「言いわけは結構です」


「だいたいウルスラより綺麗な女なんて、そういないだろ」


「そ……そんな言葉でごまかそうとしても駄目です」


 そう言ってウルスラは俺の腕を握る手にぎゅっと力をこめた。


 少し仲の良すぎる兄妹の会話と馴れ合いは、さっきまでのものと何も変わらない。もう板についたそんなやりとりに、けれどもさっきまでとは違う気持ちを抱えこんだ自分がいた。


 当初の気恥ずかしさも、《兄》としての愛すべきうとましさも、もう俺の中にはなかった。たったいま擦れ違ったはずのあいつのこと……忘れていたものを目の前に突きつけられたように、そればかりがしきりに浮かんでくる心をどうすることもできない。


 ――この町のどこかにあいつがいる。


 そのことを考えるだけで脚に力が入らなくなるような、逆に全力で走り出したくなるような、そんな交錯した思いに駆られる。


 あの広大な屋敷の奥に、あいつは今も虚ろな目で闇を見つめているのだろうか。あるいは冷酷な氷の刃で、再び俺の心をえぐろうと待ち受けているのだろうか。


「お夕食はどうします?」


「どうしよう」


「お腹はうちまでもちますか?」


「まだそんなにすいてない。ケーキが残ってるし」


「ならお買い物していかないと。何か食べたいものありますか?」


「何でもいいよ。ウルスラの作るものなら」


「もう、そういうお返事はいけないって言ったじゃありませんか」


 言いながら腕をつねってくる彼女にいてて、と返す。……そんなことをしている間も、俺はずっとペーターのことを考えていた。


 屋敷の奥、瀟洒な寝台の上に見た別人のような彼女……降りしきる雨の中、鉄格子よりも冷徹な笑顔で俺を拒絶した彼女。代わる代わる浮かんでは消えるあいつの姿に、俺の胸はまたいつかのように軋んだ音をたて始めた。


 そうして俺は、あの廃城でのペーター――無防備な親愛さを隠そうとしない今朝方の彼女のことを思い出した。


 あの城で俺の前に姿を現したどの彼女よりも……いや、出会ってからこれまで俺が見てきた彼女の中で、一番素直で一番無邪気な、こちらが感情を抑えられなくなるほどに愛らしい顔がそこにあった。


 脳裏に浮かぶそんな彼女の面影に、折からの胸の軋みはいやがうえにも強く激しいものになった。


 夜の町を歩く自分が自分でなくなってゆくのがわかった……昼下がりの広場で感じたものとはまったく別の、だが同じくらいはっきりした乖離の感覚に、どうにか立ち直ろうと俺は躍起になってウルスラにかける言葉を探した――その矢先だった。


「――」


 そこで、俺はまたペーターを見た。


 道の先に小路を横切る彼女の姿を、今度こそはっきりと目にした。


 一瞬でビルの陰に消えたその姿は、けれども見間違いようもない。さっき俺の脇を通り過ぎていったのも、そしていま道の先をぎったのもペーター本人に違いない。そんな思いに俺は足を止め、彼女の通り過ぎた暗闇をぼんやりと眺めた。


 ……だがそうして立ち止まったまま、俺は一歩も動くことができない。ビル陰に消えたその姿を追いかけることができない。


 すぐに追いかけなければならないことはわかっていた。その背中を見失わないように、この瞬間にも駆け出して追いかけなければならない、それはわかっている。けれども軋むことをやめない心に俺の足は竦んでしまい、どうしてもその一歩を踏み出すことができない――


「――兄さま」


「え?」


「もう、お兄さまってば! 隣に可愛い妹がいることをお忘れですか?」


 思わず声のした方に目をやった。これ見よがしに不満げな表情を浮かべるウルスラの顔がそこにあった。


「……ああ、ごめん」


 言ってしまってから、それが文字通りの失言であったことに気づいた。けれどもそんなことは最初からわかっていると言わんばかりに頬を膨らませ、わざとらしく溜息をついてウルスラはなおも続けた。


「今度はどんな人だったんですか」


「え?」


「また綺麗な人に見とれていたんですよね?」


「……違うって」


「さっきはあんなお愛想くださいまして。まったくひどいお兄さまですこと!」


「だからそんなんじゃ――」


「そんなにあの方が気になるんですか?」


 反射的にウルスラを見た。その顔に、もう演技じみた不満の表情は浮かんでいなかった。


 真摯にじっと見つめてくる双眸を、何も言えずただ見つめ返した。その顔にほんのかすかな、よく見なければそれとわからないほど淡い微笑を浮かべて、「あの方のところへ行きたいんですね?」とウルスラは言った。


「あたしにはお見通しです、お兄さまのことはぜんぶ」


「……」


「いいですよ。このへんで許してあげます。今日はもう充分おつきあいいただきましたし」


「……けど」


「いいんです、今日はこのへんで。あたしの方の用事は


 真面目な表情にうっすらした微笑をたたえたまま、言い聞かせるような調子でウルスラは言った。そこで不意に、彼女がその台詞をもって言外に伝えようとしていることに気づいた。


 彼女の用事はぜんぶ済んだ――それはつまり、もう幕をおろしてもいいという意味なのだとわかった。


「そうか」


 短く一言そう返す俺に、ウルスラは小さく頷いて見せた。


 ……あまり誉められた芝居ではなかったのかも知れない。最初から最後まで俺の足は地についていなかったし、完璧な《妹》を演じきったウルスラには合わせる顔がない。


 それでも、今日を限りのこの舞台を彼女と演じることができて良かったと思った。湧きあがってくるままの率直な気持ちで「ありがとう」と言いかけ、だがそれよりもウルスラの口が動く方が早かった。


「ただし、いつものをなさってからです」


「え?」


「お別れに、ちゃんといつものをなさってからです」


「いつもの?」


 思わずそう聞き返す俺を前に、ウルスラはずわずかに顎をあげるようにして顔をこちらに向け、そのまま目を閉じた。


 うすく開かれた唇をしばらく眺めて――そこでようやく彼女が言った『いつもの』の意味する行為がわかった。同時に心臓が大きくひとつ跳ねあがるのを感じた。


 ウルスラはもう動かない、艶やかな長い睫毛は伏せられたまま、その瞳が俺を見ることはない。


「……」


「さ、早くなさってください」


 いつまでも反応できないでいる俺に、息と唇の動きだけでウルスラはそう言った。


 目を閉じてキスを待つその端整な顔に見入った。……まさか幕際にきてこんな展開になるとは思ってもみなかった。《兄》が《妹》にキスするというのは一般的なことなのだろうかと考え始め、慌ててその考えを頭から追い出す。そんなことを考えている時間はない。二人でつくってきたこの即興劇を首尾よく締めるため、俺がここで躊躇することは断じて許されない。


 ごくりと喉が鳴る音がやけに耳障りに響いた。大きくひとつ息を吸いこみ、そこで俺は覚悟を決めた。鼻がぶつからないように頭を少し傾け、ほんの一瞬触れるだけのつもりでゆっくりと唇を近づけた。


 その唇が触れるか触れないかの瞬間、うすく瞼を開けた俺の眼前で、ウルスラは唐突にその両目をいっぱいに開いた。


「……っ!」


「本気になさったんですか?」


「え……」


「あは、本気になさったんですね。お兄さまってば」


 間近に迫るウルスラの唇はかすかな声でそう囁いたあと、ほんの一瞬、小鳥がついばむように俺の唇に触れた。


 思わずのけぞって頭をひく。そんな俺を前にウルスラは真摯な表情のまま背筋をのばし、真っ直ぐにこちらを見据えた。


「どうもありがとうございました。今日は本当に楽しかったです」


 そう言ってウルスラは深々と一礼し、頭をあげた。


 こちらを見るその顔には、何か大きな仕事をやり終えたような穏やかでやわらかい笑みが浮かんでいた。その清々しい笑顔に俺は直前のやりとりを忘れ、返事をすることさえ忘れてしばらくただ呆然と見入った。


◇ ◇ ◇


 ウルスラをタクシーに乗せ、そのテールランプがビルの陰に消えるのを見送ってしまうと、うらぶれた場末の町に俺は一人取り残された。


 夜気が重くたれこめる風のない通りに、じっとりと肌に貼りつく夏の夜の暑さを今さらのように感じた。だがその暑さも、感じたそばから何か他人のもののように遠く、現実感のない感覚に移ろってゆくのを覚える。ウルスラという対象を失ったことで、世界がまた急速に空虚な、俺という存在を拒絶するものに成り代わってゆくのがわかる。


 それでも、俺がやるべきことは決まっていた。最後にペーターを見失った小路に引き返し、そこから彼女の消えた方へ小走りに向かった。


 そうしてしばらくもしないうちに、それがちょうど彼女の家へと続く道であることに気づいた。まだだいぶ距離があるが、この道で合っている。だとすればこの道を行くことで、さっき目にした彼女に追いつけるかも知れない。そう思って俺は足を速めた。


 夜中にさしかかろうとする町外れの通りに人影はなく、車道を走る車の数も少なかった。澱んだ闇と静寂のたゆたう道に、忙しない俺の靴音と荒い息の音だけが響いた。服の下に不快な汗が流れ始めるまでに時間はかからなかったが、それでも俺は構わずに薄暗い街灯の照らすその道を走り続けた。


 走りながら今日あった出来事と、ペーターのことを考えた。


 あの歯車だらけの場所でウルスラの提案に乗って共に踏んだ舞台。結局、その舞台をもって彼女の意図したものが何であったか、それがどうペーターに結びついていたのか、最後までわからなかった。


 だがその一方で、あいつが屋敷を出て俺の前に姿を見せたのは確かな変化に違いない。別れ際のウルスラとのやりとりを考えれば、それこそが彼女の意図していた結果のひとつであるようにも思える。


 けれどもその考えが正しければ、あそこでペーターが姿を見せたのは偶然ではない。何らかの思惑があって偶然を装い、わざと俺たちの前に――俺の前に現れたということになる。どういった思惑によるものであるかまではわからない。このさき追いついたとしてあいつがどう出るか……どんな言葉と態度を俺に向けてくるか、そこまではわからない。


 そこで俺は走るのをやめた。街灯がつくるぼんやりした円い光の中に立ち止まり、昨日のことを思った。生暖かい雨の感覚は、まだ肌に生々しく残っていた。固く閉ざされた門の向こうに見た彼女の姿も、あどけない笑顔で告げられたこの胸を深くえぐる言葉も――


「……っ!」


 にわかに蘇る痛みに、俺は堪らずシャツの胸元を掴んだ。息苦しい思いは一瞬で膨れあがり、そのままの姿勢でしばらく動けなかった。


 ……昨日、あいつが門のところまで出てきてくれたことで俺はかすかな希望を持った。そのかすかな希望のために、あのペーターの反応は効果的に俺の胸を切り裂いた。


 それがあいつの復讐なのだという考えは今も捨てきれない。たとえそうでなくとも彼女が俺を拒絶し、どこまでも冷たくあしらうだろうことに疑いはない。


 ……だとすれば、こんな希望は捨てなければいけない。こんな大きな希望を抱えたままあいつの前に立てば、昨日とは比べものにならないほど手酷い傷をこの胸に負うことになる。何ひとつ予想がつかない中にあって、それだけははっきりしている。けれども――


「……ああくそ!」


 そんな悪態を吐き捨てて、俺はまた走り出した。


 あいつが外に出てきていたのだとしたら、それはやはり確かな進展だ。少なくともあの屋敷の奥にこもられ、固く門を閉ざされてしまうことを考えれば。だからこそ、この機会を逃してはならない。彼女が屋敷に帰り着く前に、何としてもその背中に追いつかなければならない。


 そう思い、息せき切って駆けこんだ曲がり角の先に、俺はまた足を止めた。荒い息をそのままに立ち尽くし、信じられない思いで目の前の人影を見つめた。


 ――そこに彼女はいた。

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