229 すべてが終わったあとに(3)
「……やられた」
いつになく平坦なキリコさんの呟きが、がらんどうの車庫に虚しく木霊した。
息せき切って駆け込んだとき、車庫には一台の車も残されてはいなかった。
……やっぱりな、というのがそれを目にした俺の率直な感想だった。ろくに対策も立てずにこんなところへジープを残していったのだから、盗みたければ盗めと言っているようなものだ。
もちろん、キリコさんは鍵を抜いていったのだろうが、それが何にもならないことはヘアピンを鍵に見立てて運転してみせた俺自身が証明している。……いや、敵方に同じような芸当ができるやつがいるとは限らないが、おそらく方法はいくらでもある。ともあれこの事態は自業自得――と言うより、むしろ予定調和とでも言うべきかも知れない。
誰が乗り去ったかなど俺の知るところではない。けれどもジープが消えたことで、ある意味物語の整合がとれたように感じた。
これで退路は断たれた。こうしている今も準備が進められているであろう核実験とは専ら関係なく、俺たちはこの研究所と運命を共にするより他になくなった。客観的にみれば最悪の状況であることに疑いはない。だがその一方で、物語としては実にわかりやすくなった。終始方向性が定まらなかった即興劇のラストにしては悪くない。なるほど、これはこういう筋の舞台だったのか――
と、奇妙な感慨に耽る俺を残してキリコさんは壁際へ駆け寄り、閉ざされたギロチンシャッターの隣にある操作パネルに慌ただしく何やら打ち込んだ。ここへ来るとき潜り抜けてきた、地上へと続くトンネルの出入口にあたるそのシャッターが反応しないとみるや、ほとんどむきになったように耳障りな音さえ立てて更に打ち込む仕草を見せ、仕舞いには固く握りしめた両の拳を二度、三度と操作パネルに打ちつけた。
「……閉じ込められた」
「え……マジっすか?」
「……完全に死んでる。物理的に回線を切ったか、強力な磁場でもかけられたか」
「そうきましたか」
……どうやら事態は俺の認識していたものに輪をかけて深刻な方向へと流れたようだ。ジープを奪われただけならまだしも、地上への出口まで塞がれたとなると洒落にならない。それはつまり、ジープを乗り去った誰かが明確な意図をもって我々をここに閉じ込めたということを意味する。その意図とはもちろん、件の核実験で我々をこの研究所もろとも葬り去ろうという意図だ。
だがそうなってくると、この先の俺たちの行動についても軌道修正が必要になってくる。いや、正確には我々が採るべき新たなオプションが発生したというべきだろうか。当初の予定通りあくまで核実験とやらの阻止を目指す――その線が消えたわけではない。だがそのラストミッションに取って代わり得る緊急クエストとして、ここからの脱出が急浮上した格好になる。
もっとも、いざ乗り込んだはいいが何をどうすればいいかわからず右往左往していたさっきまでの顛末を思えば、本命のラストミッションの完遂は現実的に不可能とみていいだろう。であれば、我々がここに留まっている必要はなく、とっとと逃げ出すことが唯一の賢明な選択肢となる。
……ただここまでの
そのあたり、我が
「……何で、早く言わなかった」
「え?」
「盗まれるってわかってたら、何でもっと早くに言わなかった!」
悲鳴にも似たその叫びは、がらんどうの車庫に一頻り反響して消えた。
キリコさんはこちらを見ない。小刻みに全身を震わせながら、空虚そのものとなった赤い暗闇を凝視している。その様子から事態の深刻さはいやがうえにも伺い知れた。……だが正直なところ、俺の方ではそんなキリコさんの反応に小さな戸惑いを覚えずにはいられなかった。
「何でって……わざわざ言うこともないかな、と思って」
「ああ!?」
「そんなこと、キリコさんが気づいてないわけがない、って」
「……何だって?」
「いや、少し考えればわかるじゃないですか。ここにジープ残していったら誰かに乗っていかれるかも知れないなんてこと」
「……」
「なのに、平気な顔してここ離れるから、キリコさんはそのへん全然心配してないんだろうなって、俺そう思って――」
俺がそこまで話したところで、キリコさんはその場にへたり込んだ。崩れ落ちるようにといった感じではなく、立っていることに疲れた老人がやむを得ず地べたに座り込むように、ゆっくりと。
「……あんたに心許したあたしがバカだったよ」
「え?」
「……いや、バカはあたしの方か。ハイジの言う通りだよ。少し考えりゃわかることだった。その通りさ」
「……」
「あは、いいのか。いずれにしたってあたしがバカだってことは揺るがないわけだ。ああバカだったバカだった。あたしがバカだった。あはははは……」
そう言ってキリコさんは力無く笑い出した。だがそれも長くは続かず、「はは、は、は」ときれぎれになって、がらんどうの闇の中に消えていった。
そんなキリコさんを眺めながら、俺は彼女にどんな言葉をかければいいのかわからなかった。
どうやらキリコさんはジープが消え、ここから逃げ出す手段を失ったことに絶望しているようだ。それは理解できた。だがそれはとりもなおさずキリコさんがここで果たすべき仕事を果たし終えた後、生き残る望みを捨てていなかったことを意味する。
そんな彼女の胸の内を知り、若干呆れる自分がいた。ジープが盗まれる可能性に気づかなかったことについてはまあいい。我々が置かれたこれはある意味で極限状況に他ならないのだし、その極限状況の中でキリコさんが正常な判断を失っていたということであればそれも納得できる。
だが、昨日マリオ博士を看取ったあと、あれだけ格好いい啖呵を切っておきながら、逃げ道を断たれたくらいで取り乱すというのはどうだろう。キリコさんらしくないと言って、これほどキリコさんらしくないことはない。いったい我が
そんな疑問にとらわれる俺を後目に、キリコさんはいよいよ自分の世界に入り込んでしまっている。
「……ざまあないね。ああまったく、ざまあない」
「……」
「これであたしらもまとめてアボンだ。思い返してみりゃクソみたいな人生だったね。こんなしみったれた穴蔵と道連れなんざ」
「……」
「けど考えてみりゃ当然の報いか。それだけのことをやってきたんだ。人の道外れてそれを何とも思わない人外どもとさんざん悪どいことやってきた結末がこれだ。ざまあないったらないね。ああ、ざまあないったらない……」
キリコさんはもう笑わない。残り滓のようなぎこちない笑みを口元に浮かべたまま、虚ろな目で床のあたりを眺めている。
虚ろな目――と言うより、死んだ魚のような目と言った方がいい。ひねりも何もない、そんな陳腐な形容がしっくりくるような表情を見つめながら俺は、逆にどこまでも冷静になってゆく自分を感じていた。
――キリコさんに呆れる気持ちが消えたわけではない。少し考えれば子供でもわかることを見落とし、まんまと敵の思惑にはまって絶望に打ちひしがれているのだから
だがそんな彼女を責めても仕方がない。つまり、キリコさんはそこまで追い詰められていたということだ。……そう、この劇の序盤から中盤にかけてはあれだけ奇抜で、常人の発想からかけ離れた筋書きを幾つも生み出してきた彼女が――
「……」
逆に姿の見えない黒幕……その思い描いた筋書きに、我々はまんまと嵌まってしまったということになる。
予想に過ぎないが、その黒幕の誰かも最初から我々がこんなにうまく嵌るとは考えていなかったのではないだろうか。二重三重に張り巡らせた罠の、はじめのひとつにかかってしまった――そう考えるべきなのかも知れない。
……黒幕の誰かにしてみれば拍子抜けもいいところだろう。劇も終盤にきてこの体たらくでは、同じ舞台に立つ者としてその誰かに申し訳ない気持ちさえ湧きおこってくる。
「……」
いずれにしてもキリコさんが描いていた構想は崩れた。この地下研究所のどこかで今まさに行われようとしている核実験とやら――それをどうにかして阻止できたとしても、我々にはもう生き延びる
ならば俺は――俺たちはここからどうするべきなのだろう。その事実を受け容れた上で核実験とやらを止める……それしかないのだろうか。
しかし、全てを計算ずくで我々の足を奪って逃げた誰かが、そう易々とそれを許してくれるとは思えない。当然、核実験まわりにも周到に罠を張り巡らせていることだろう。その罠を
「……ずいぶんとまた平気な顔してるじゃないか」
「え?」
「なんでそんな平気な顔してられるのかって聞いてんだよ」
こちらを見ず、思い詰めたような表情で床に視線を落としたまま、誰に尋ねるともなくキリコさんは呟いた。
その質問に、俺は何どう答えればいいかわからなかった。正直、キリコさんの意図を測りかねた。逆に聞きたいのはこっちだ。こうなることは最初からわかっていたのに、何でキリコさんはそんな切羽詰まった顔をしているのか、と。
「話聞いてたかい? 閉じ込められたんだよ! それに出られたとしたって車がないんだよ車が! あたしたちはもうどこへもいけないんだよ!」
「そのへんはまあわかってますけど……」
「わかってる? 何がわかってるってんだい!? もうどこへも行けないんだよ? 核実験阻止できようができまいがあたしたちは二人揃ってここで死ぬんだ!」
「つか、最初からそんな話だったと思うんですけど」
「ああ!?」
「昨日、キリコさん言ってたじゃないですか。核実験止められる可能性はゼロで、死にに行くからつき合えみたいなこと」
「……」
「それ聞いて、核実験止められようが止められまいが、キリコさんは生き残るつもりはないんだろうな、って」
「……」
「俺、てっきりそのつもりで……だからまあ、あとのこととか最初から考えてなくて。むしろなんでキリコさんが今さらそんなことでテンパってんのか、そのあたりがよくわかんなくて……」
鬼気迫るという言葉そのものの形相で詰め寄るキリコさんに、まったくの素で俺はそう返していた。
そんな俺の反応に何を思ってか、信じられないものを見る目で俺を見てキリコさんは絶句した。それからぎこちなく口の端をもたげた明らかに不自然な笑みを浮かべ、唇を震わせ何かに憑かれたように
「……ああ、そっか。あんた、これを演劇だと思ってるんだっけ?」
「え?」
「これが現実じゃなくて演劇だと思ってるからそんな平気な顔していられるわけだ」
「……」
「そういうことか。終われば帰れると思ってるのか」
「いや、そのあたりは――」
正直なところ、そのあたりは俺自身よくわからなくなってきている。いっそここで自分の中にあるその疑問を素直にぶつけてみようと切り出した俺の台詞を、明らかに普通ではないキリコさんの声が遮った。
「死ねば元いた場所に帰れると思ってるんだ! ここへ来る前にいた場所に戻れると思ってるんだ! そうじゃないかい!?」
「……」
「帰れやしないよ!? ここで死んでもあんたはそんなところへは帰れない!」
「……」
「あんたはもうそこへは帰れないんだよ! 死のうが何しようがもう二度とそこへは帰れない! だってあんたはトリニティなんだから! この研究所で行われていた研究のためにあたしたちの手で生み出されたモルモットなんだから!」
いつの間にかキリコさんは全身震えていた。同じように震える声――というよりチューニングが合わないラジオのように時に大きくなり、時に小さくなる不安定な声で、俺の中にある何かを叩き潰すようにキリコさんは言い切った。
その言葉に、俺はどう反応していいかわからなかった。何より、完全に冷静を失い、どういうわけか俺を
そんな俺をどうとったのかキリコさんは無理に笑顔をつくろうとし、だが笑顔になりきらないぎこちなく歪んだ顔で、「そういやあんた、情報を欲しがってたっけね」と言った。
「この際だ。あんたが欲しがってたもの、ぜんぶあげるよ」
嬉しそうな声でそう言って、キリコさんはその話を始めた。
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