069 劇中劇(7)

「……ここ、どこなの?」


 どれほどの時間が経ったのだろう。長い長い静寂の果てに、俺はついにその質問を口にした。


 即興劇の舞台に立つ役者として口に出していい質問でないことはわかっていた。けれども俺が口にできる言葉は、その質問以外になかった。


「どこなんだよ……ここは」


 視線を向けないまま、もう一度その質問をウルスラに投げかけた。


 返事はなかった……役者としての責任を放棄する俺の言葉に失望しているのかも知れない。それでも俺は構わずにその不適切な質問を繰り返す。


 もうこれ以上見て見ぬ振りはできない……いつ崩れるかも知れない舞台に平気な顔で立ち続けることはできない。


「小屋出たときから変だと思ってた。どう考えても普通じゃないだろ、この空」


「……」


「さっき観た映画も……そのあとのことも。何だよこれ……いったい何なんだ」


「……」


「全然に戻ってきた気がしない。……て言うか、本気で頭がおかしくなりそうだ」


「……」


「……答えてよ。どこなんだよここ。俺にはとてもここが現実の世界とは思えない」


「……そうです」


 呟くような一言に、俺は反射的に顔を向けた。だが彼女の方ではこちらを見なかった。背筋をしっかりと伸ばした真摯な表情を誰もいない広場に向けたまま、抑揚のない声で独り言のようにウルスラは続けた。


「お察しのように、現実の世界などではありません。ここは」


「……嘘だったのか」


「嘘?」


「言ったよな、元の世界に戻るって。それは嘘だったのか?」


「いえ、それは嘘ではありません。ここは確かに貴方の元いた場所です」


「なら、どういうことだよ」


「申し上げました通りです」


「……?」


「ここは貴方の元いた場所です。そしてその場所が、そもそも現実の世界などではなかったのです」


 俺の方を見ないまま、淡々とした口調でウルスラは言葉を続けた。真っ直ぐに広場を見るその横顔に、嘘や冗談の色はまったく見られない。


 ……それで俺はいっそうわけがわからなくなった。半分助けを求めるような気持ちで三度みたび、俺はその質問を口にした。


「現実の世界でないなら、ここはどこなんだ?」


「劇場のようなものです」


「……劇場?」


「はい。人為的に創出された『実験的な劇場』です。抽象的な表現になりますが、それが一番近いと思います」


「劇場はだろ」


「いいえ、こちらです。こちらが劇場なのです」


「……それなら、俺の元いた世界はどこへいったんだ?」


「それがここです。さっきも申し上げましたように、ここが貴方の元いた場所です」


「……俺の知ってる世界じゃない、こんなのは」


「そうです。ご覧のようにここは変わりました」


「……」


「この世界は変質を果たしたのです。この数日でもはや取り返しがつかないほどに」


 生真面目な表情を崩さない横顔でウルスラは続けた。そこでもう、俺の中では理解がついていかなくなった。彼女に向けていた頭を戻して、人影のない石畳の広場を眺めた。そんな俺に構わず、ウルスラはなおもその話を続けた。


「統御の破綻という言葉で言い換えることもできます。この『実験的な劇場』は、ある種のシステムによって統御され、それによってここをあたしたちが認識していたあの世界たらしめていました。その統御が破綻したことで、このような変質がもたらされたのです。結論を先に申し上げれば、この変質に歯止めをかけることはもう誰にもできません」


「……どうして、そんなことになったんだ?」


「要因は、分裂が発生したためです」


「……分裂?」


「はい。統御の破綻の直接的な要因となったのは、『実験的な劇場』において発生したです。それは本来、発生するはずがなかったものなのですが」


「何なんだよいったい。その可能性の分裂ってのは」


「即興劇にたとえれば、一人の役者さんの役がある場面で幾つにも増えてしまったようなものです」


「……」


「即興劇の場面場面において、役者さんには次に進みうる役が無限に存在すると思います。そうではありませんか?」


「そうだ」


「その無限の役の中で役者さんはひとつの役を選んで進む。そうすることで無限の可能性をひめた物語の筋はひとつに定まる。そうではありませんか?」


「その通りだ」


「そのたとえに当てはめれば、ある場面で一人の役者さんが一度に複数の役を選んでしまった、ということになります」


「……できるわけないだろ、そんなこと」


「そうです。それは本来、起きるはずのないことでした」


「と言うか、どう考えても無理だ。だいたい一人の役者が幾つもの役を選んで、その先の芝居はいったいどうなるんだよ」


「それぞれの役について進行するのです」


「……」


「その役者さんが選んだ役の数だけのお芝居が並行して進んでゆく。起きるはずのなかった可能性の分裂により、そのような事態がもたらされたのです。そのために、統御は急速に崩壊へ向かいました。もともと安定した統御ではなかったのですが、対象がいきなり複数に増えてしまったのですから、どのみち破綻は避けられないものでした」


「……ウルスラが何を言っているのか、俺にはさっぱりわからない」


「……つたない説明で申し訳ありません。ですが、詳しいことはあたしにもわからないのです」


「……」


「いま申し上げているこれも、あたし自身が理解したことではありません。姉さんの分析――姉から聞いた説明をほとんどそのまま繰り返しているだけです」


「……」


「……姉にとっても、今回の事態を完全に理解することはできないようでした。ただ先述しましたように可能性の分裂がすべての原因であること、それからこの破綻が避けられないものであり、その進行はもう誰にも止められないこと。それについては確実性が高いと、姉はそう言っていました」


「……何で起きたんだ?」


「え?」


「起きるはずのなかったその可能性の分裂ってのが、何で起きたんだ?」


「それは……あたしの口からは申し上げることができません」


「どうして……」


「……」


「なら、その可能性の分裂ってのが起きたのはいつ?」


「先週のはじめです」


「そのあたりなんだ」


「……」


「そのあたりに何か、その可能性の分裂ってやつの切っ掛けになるようなことがあったんだ」


「……いいえ、もっとあとです」


「あと?」


「切っ掛けと思われる出来事が発生したのは、可能性の分裂よりずっとあとです」


「……」


「ほぼ一週間後に起きたその出来事が、時間を遡って可能性の分裂を生じさせたのだということです。あたしにもよくわかりません。ただ、姉の分析ではそういうことのようです」


「その出来事ってのは?」


「……それは申し上げられません」


「どうして?」


「……」


「……まあ、言えないならいいよ」


「……なるべくしてなったことです」


「……」


「もともと不安定な統御であったことは先ほど申し上げました通りです。何が切っ掛けでそうなってもおかしくありませんでした。ですから、その切っ掛けが何かは些細な問題にすぎません。それが何かわかったところで、もうどうすることもできないのです」


「……そうか」


「いずれにしましても、可能性の分裂を要因として統御は破綻をきたしました」


「ああ」


「そうしてご覧のように、ここはもうあたしたちの知る世界ではなくなりました。この変質に歯止めをかけることは、もうできません。この先ここには、あたしたちが見ているこの空の色が何でもなく思えるような、もっと深刻な異状が次々に現れるようになります」


「……」


「そして遠くない未来、統御は完全に崩壊し、この世界のあらゆるものがそれと運命を共にすることになります。こうしてここに存在するあたしたちも」


「……」


「それが、あの警告の理由です。ここに居続けるということは、そういうことなのです」


「……そうか」


「これですべてです」


「……」


「あたしからお伝えできることは、これですべてです。……申し訳ありません。これ以上、あたしからは何もお伝えすることができません」


 長い説明の終わりに、ウルスラはそう言ってはじめてこちらを見た。言葉通り、その顔には申し訳なさをいっぱいにたたえた憂いの表情が浮かんでいた。……そんな顔をしなくてもいい。咄嗟にそう思い――だがそれを言葉にする代わりに俺は、最後にひとつだけ聞いておかなければならない質問を口に出した。


「隊長の言いつけ?」


「え?」


「これ以上話してくれないのは、やっぱり隊長の言いつけ?」


「……いいえ、違います。あたしが知っているのがこれだけということです」


 そう言ってウルスラはますます申し訳なさそうに目を逸らした。それから説明の間ずっとそうしていたように、真っ直ぐ背を伸ばして誰もいない広場を見つめた。西日を受ける端整な横顔はもうこちらを見ない。「そうか、ありがとう」という俺の声にも、彼女からの返事は返ってこない。


「本当にありがとう。話してくれて」


 それでも、俺はもう一度その言葉を繰り返した。


 内容はほとんど理解できなかったし、かろうじて理解できた部分についてはとうてい信じられない。だがその荒唐無稽な話をウルスラが精一杯の誠意をこめて話してくれたこと、それだけはわかった。だいたい俺にそんな話をする義務など、彼女にはないのだ。


 彼女が……俺たちがここに来たのはこんな所でわけのわからない話をするためではない。そう、俺たちがここに来たのは――


「それに、もう破ってますから」


「え?」


「もうとっくに破ってます。あの人の言いつけなんて」


「……」


 隊長のことを言っているのだと理解するまでに、少しだけ時間がかかった。目を向ければウルスラはさっきの表情のまま気まずそうにうつむき、コンクリートの地面に視線を落としていた。何かに耐えるようなその姿の裏にあるのは、不出来に終わった俺への説明だけではない気がした。


 ……そういえばこの前も彼女は隊長に背いて例の荷物を持ってきてくれたと言っていた。さっきの話をしたことが同じように隊長の意思に反するものだとしたら、俺は厚意に甘えて彼女に隊長を裏切るような真似をさせてしまったのかも知れない。


「……どうして」


「え?」


「どうしてそこまでしてくれるの?」


「……」


「さっきの話をしてくれたことだって、隊長の――お兄さんの言いつけを破ってるんだよね。どうしてそこまでしてくれるのか、俺にはわからない」


「……何度も申し上げました」


「え?」


「あたしは、貴方の味方です」


「……」


「そのためなら何もいといません。いついかなるときもあたしは貴方の……お兄さまの味方です」


 そう言ってウルスラは頭をあげ、こちらを見た。


 真摯に輝くふたつの瞳がじっと俺を見据えた。何かを訴えるようなその眼差しに、俺は自分がいたことを改めて知った。そう……俺は落ちていた。彼女の兄は隊長ではない、俺だ。その配役をもって臨んだ舞台から、俺は完全に落ちていた。彼女と二人でつくると約束した今日限りの――たった一度きりのこの舞台から。


 気がつけば陽はもう地平に沈みかけていた。相変わらず現実感のない空に、太陽はそれでも夕暮れらしい茜色を広げようとしている。


 ……消えかけていた役者としての矜持が燃え立つのを感じた。こんなかたちで今日という日を終えることはできない。ウルスラの気持ちに応えなければならない。今日は――いまこうして立つここは、俺と彼女が二人で踏む最初で最後の舞台なのだ。


「……ごめん、落ちてたな」


「え?」


「ここからはちゃんとやる」


 少し驚いたような顔をするウルスラを前に、俺は大きく息を吸った。そしてその息を吐き出すと同時に、決意をこめてその台詞を口にした。


「他に行きたいところはある?」


「……」


「他に行きたいところだよ。今日は一日つき合うって約束したからな」


 彼女の反応を待たずにふたつの台詞を言いきった。


 ウルスラの顔にぱっと花が咲いたような笑みが浮かんだのは、その直後だった。その笑顔のまま何かを言いかけ――だが思い直したようにその笑みを穏やかなものに変えた。


 そして右手の親指に人差指をつがえ、真っ直ぐこちらに差し出してくる。


 そんな彼女に俺は、思わずこみあげてきた喜びの笑いを躍起になって押し殺した。


 ほんの少しだけ見つめ合ったあと、俺たちはせえので、お互いの額を弾いた――


「駅前にずっと行きたいと思っていたケーキのお店があるんです。おつきあい下さいますか?」


「もちろん」


 そうして俺たちはベンチを立ち、広場をあとにした。暮れなずむ人気のない町を歩きながら、どちらからともなく手をつないだ。


 朝に小屋を出たときに感じたような気恥ずかしさは、もうなかった。自分の手の中にある小さな柔らかい手が、ただ愛しかった。


 今日という日が終わるまで、まだ時間は充分にあった。その間、ここまでしてきたように彼女の兄の役を演じるのではなく、本当は自分が彼女の兄でないという事実を忘れよう――そう思った。

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