068 劇中劇(6)

「――あ、こんなに暑い。さすがに暑いですね、外は」


「……ああ」


 映画館を出る頃には、もう太陽が西の空へ傾きかけていた。朝に見たものと変わらない、インディゴブルーに銀を混ぜ合わせたような現実感のない空だ。そんな空の下にあって、午後を去ろうとする町の暑さはウルスラの言う通り本物だった。冷房を抜け出て間もない肌に、早くも汗の玉が滲んでくるのを覚えた。


「もう少し中にいればよかった。それとも戻りますか? 少し待てば暑さもやわらぐと思いますし」


「……いや、いい」


「そうだ、海で着る水着を見るの忘れてました。まだ先と思っていたのに、もう来週じゃないですか。ね、お兄さま。中に戻りませんか?」


「……」


「そうですね。また今度にします」


「……」


「約束ですよ。また今度、ちゃんと一緒に選んでください」


「……ああ」


 あのシーンのあと映画がどうなったのか、よく覚えていない。


 一応、観る分には観ていたのだが、内容はまったく頭に入ってこなかった。どういう物語があってどういう結末を迎えたのか、まるでわからない。ただ、今となっては別にそれを知りたいとも思わない。


 映画館を出てからここまで、ウルスラは映画の話をしていない。意図的に避けているのか、それとも単に口にのぼらせないだけなのか、そのへんまではわからない。正直、あの映画について聞きたいことは山ほどあるのだが、俺の方からその話題を切り出すだけの気力はなかった。


 まだ頭は混乱から抜けきっていない……あのシーンの衝撃は俺の心臓を鷲づかみにしたままだ。


「ねえ、お兄さま」


「ん?」


「ちょっと休んでいきませんか?」


 ウルスラからそんな声がかかったのは公園の広場だった。図書館に隣接するコンクリート敷きの広場、昼下がりの熱にうだるそこに人の影は少ない。


 ウルスラに促されるまま俺は石造りのベンチに座った。だが彼女の方は隣のベンチに座ろうとせず、代わりに「ここで待っていてください」と言った。


「少し用事を思い出しました」


「……用事? 水着のこと?」


「水着はまた今度にするって言ったじゃありませんか」


「なら何の用事だよ。どこへ行くんだ?」


「もう、お兄さまはデリカシーがなさすぎです」


 そう言って怒ったように口を尖らせると、ウルスラはそのまま元来た方に駆け去っていった。


 何秒か遅れて彼女の残していった言葉の意味はわかったが、何の感動もなく「ああそうか」と思っただけだ。ただそれとは別に、俺を一人にしてくれたことはありがたかった。やはりどう頑張っても頭はぐちゃぐちゃで、差し障りのない話に相づちをうつだけでも精一杯だったのだ。


 その証拠にベンチに座りこんでしまうと、俺はもう立ちあがることができなかった。うなだれた頭を持ちあげることはもちろん、指一本動かすのも面倒でならない。……肉体の方はともかく、精神的にはかなり参っているようだ。考えるまでもなく、今しがた観終わったばかりのあの得体の知れない映画のせいで……。


 ――もう何が起こっても驚かないつもりでいた。


 ウルスラの提案で唐突に始まった即興劇、小屋を出て見上げた暗い銀流しの空……そのひとつひとつに混乱を覚えながらも、俺はどうにかその場所に立っていられた。たとえこの先何が起ころうとも、ちゃんと両足で立っていられると思った。……だがそんな思いはもろくも打ち砕かれ、俺はこうしてベンチに座ったきり再び立ちあがることができないでいる……。


 あの映画はいったい何だったのだろう……映画館を出て初めてまともにそのことが頭にのぼった。


 改めて思えばあの映画は最初から最後まですべてが異常だった。オープニングロールもないままに始まった脈絡のない映像。字幕も吹き替えもない外国語の台詞。単調に繰り返される銃撃戦。人が死ぬたびに巻き起こる客席からの笑い声。


 ――そして何よりもDJのこと。


 あいつのことがなければあの映画は俺の中で意味を持たなかった。自分には理解できない作品として素通りすることもできたし、実際、途中まではそんな思いで斜め見していたのだ。


 だが映像の中に見知った人間の姿を認めたことで、俺はもうそれを無視することができなくなった。気がつけば完全に引きこまれ――感情移入できたところであの場面に対峙させられたのだ。


「……っ!」


 そのときのことを思い出して、全身の毛が逆立つのを覚えた。そう、あれは単に映像の中の出来事ではなかった。その映像の中に思いがけず邂逅かいこうした親しい友人に感情移入してその場面に臨むことで、俺はあの拷問と残酷な結末を追体験させられたのだ。


 ……それにしてもなぜDJが出演していたのだろう。惨劇の場面から逃れるように、俺の疑問はまたそこに戻る。


 あいつとのつき合いはもう結構になるが、映画俳優――というより役者をやっているという話は聞いたことがない。そんなDJがいくら低予算の自費制作映画とはいえ、デパート地下のシネマコンプレックスで上映されるような映画に出演しているというのはどう考えてもおかしい。あれはいったい何だったのか――と言うより、あれは本当に俺の知るDJという男だったのか……。


 ――ウルスラはなかなか戻ってこなかった。


 彼女を待ちながら結論の出ない不毛な思索を続けて、それでもゆっくりとだが気持ちが上向いてくるのを感じた。


 結局そうだ……考えても仕方ないことなのだ。舞台一週間前から何度となく遭遇してきた俺の手に負えない出来事。その手の出来事が今日ここにまたひとつ積み重ねられた……それだけのことなのだ。


 ――そう思い、頭をあげられるまでに回復してもウルスラは戻ってこなかった。


 トイレに行ったにしては長すぎる。そこまで考えて……あるいはさっきのあれは演技で、俺を一人にするために気を利かせてくれたのかも知れないと思い当たった。映画館を出てからというものずっと気のない生返事ばかり返していたのだから、その可能性は充分にある。


 逆に考えれば彼女がそうせずにはいられないほど、俺がこの劇からいたということだ。


 だとすれば溜息が出る……独壇場であるはずのここで演劇経験がないという女子高生に気を遣われて、いったい俺がヒステリカで即興劇にかけてきた時間は何だったのだろう……。


 ――それからまたしばらく待ち続けてもウルスラは戻ってこなかった。


 ふと、彼女はもう戻ってこないのではないかという思いが頭をかすめた。ふがいない俺の演技に愛想を尽かしたのだとしたら、ありえない話ではない。確かにそうだ、それほどまでにさっきの俺の演技は酷かった……そう思い、小さく自嘲の笑いをこぼして、俺は空を見上げた。


 奇妙な色の空だった。ちょうど過度に露出を抑えて撮像された前衛的な表現写真のようだ。昼と夜との中間――だが明け方の空とも、夕暮れとも違う。


 水銀のうみに溺れ、太陽は死にかけている。そのくせ降り注ぐ熱は、始まったばかりの夏そのものだ。そのふたつのはざまに、俺はかすかな息苦しさを覚えた。何のための息苦しさかわからない……だが俺はそれに逆らわず、空を見上げるのをやめて広場に目を戻した。


 ――広場にはもう誰もいなかった。弱々しい太陽の放射を照り返す白いコンクリートの絨毯があるだけだ。


 今にも消え入ってしまいそうな頼りない陽光。その陽光に炙られる日よけのないベンチに、俺はとめどなく流れ出る汗をどうにもできないでいる。……もう何が起きても大丈夫だ、と改めて思った。現実感のまるでないこの異常な世界に、俺は結局こうして慣らされてしまった――


 ごう――


 風が吹いた。まったく風のなかった広場に突然、一瞬だけの風が立った。


 ――だがそう思ったのも束の間、すぐにそれが風ではなかったことに俺は気づいた。……大気は動いていない。目に映る景色にも皮膚感覚にも、風が吹いたことを示す証拠は何ひとつない。


 そう……風など吹いてはいない。ただ風が吹いたように、俺が何かを取り違えてそう感じただけだ。


 ごう――


 もう一度、その風ではない何かが吹いた。


 その直後、俺は説明のできない奇妙な感覚に襲われた。


 自分を取り巻く世界が急速に遠ざかってゆく感覚。遠かった世界がさらに遠く、自分とはかかわりのないに変化してゆく、そんな息苦しい感覚――


 ごう――


「……っ!」


 次の瞬間、その息苦しさは本物になった。


 周りの空気がうすくなったような、胸の奥が締めつけられるような実際の息苦しさを俺は感じた。肌に感じていた太陽の熱が消え、服の下に流れる汗が一瞬で冷たいものになった。


 ――いけない、と思った。だがそう思ったときには、もう遅かった。


 ごう――


「う……ぁ!」


 そしてまた風が吹いた。いや、それはもうはっきりと風ではなかった。


 周囲の世界が自分目がけ一斉に押し寄せてくるのを感じた。


 遙かに遠のいてしまった非現実的な世界。自分とはかかわりのないものになったその世界が圧倒的な勢いで迫ってくる。俺という存在を拒絶し排斥したまま、ちっぽけな俺を押し潰そうと四方から押し寄せてくる。


「あ……ああ……ぁ……」


 胸の奥に鈍い痛みが生まれた。鳩尾みぞおちの裏のちょうど心臓のあたり――そう思った刹那、その鈍痛は焼けつくような激しい痛みに変わった。


 同時に心臓は早鐘を打ち始め、徐々にその速度はあがってゆく。こんなはずはない、俺の身体にこんな異状が出るはずはない。そう思っても無駄だった。治まる気配をみせない症状に、堪らず俺は胸を押さえてうずくまった。


 ごう――


 ごう――


 全身が冷たくなり、吐き気がきた。


 鏡を見なくても顔が真っ青になっているのがわかる。その青い額から首筋から、身体中を冷え切った汗が流れ落ちてゆくのを感じる。


 気がつけば俺はがたがたと震えていた。自分の身体がどうなってしまったのか……どうなってしまうのかわからない、底の見えない深い淵を覗きこむような恐怖の中に。


 ごう――


 ごう――


 ごう――


 ――それは恐怖だった。非現実的な世界に押し潰され、自分という存在が消えてなくなってしまうことへの恐怖だった。このまま息ができなくなり、心臓がその動きを止めるかも知れないという恐怖だった。


 とらえどころのない観念的な恐怖と、あまりにはっきりした肉体的な恐怖。そのふたつの恐怖の狭間に俺は自分でも信じられないほどがたがたと震え、まともに呼吸をすることさえできない。


 ごう――


 ごう――


 ごう――


 広場には誰もいない、俺の異状に気づいてくれる人間はどこにもいない。そのことを思って、動悸と息の苦しさはさらに耐え難いものになった。


 このままでは死ぬ……誰にも看とられないまま俺はここで死ぬ。化け物のように膨れあがった恐怖と苦痛の中に逃れようのない死を思って――


 だがそこでぼやける視界にふっと黒い影がさすのを感じた。


「大丈夫……大丈夫ですよ、お兄さま」


 自分の顔が柔らかいものに包まれているのを感じた。そうしてすぐ、それがウルスラの胸の中だとわかった。


 地面に落としたままの視界に、膝をつく着物の脚が見えた。コンクリートに跪き、前から覆い被さるようにしてウルスラは俺を抱き留めている。その柔らかい胸の中に、俺はしっかりと抱き締められている……それがわかった。


「大丈夫です。あたしはここにいますから」


「……」


「あたしはいつも……どんなときも、こうやってお兄さまの傍にいますから」


 震えが止まった。心臓の痛みが弱まり、動悸がゆっくりと治まってゆくのを感じた。


 肉体的な恐怖が消えるのと共に、四方から迫っていた非現実の壁はどこにも見えなくなった。……そうして、俺は元に戻った。突如として俺を死の間際まで追い詰めたものは、まるで最初からなかったかのようにどこかへ消えていった。


「大丈夫……大丈夫です」


「……」


「こうしていれば大丈夫です。大丈夫ですよ、お兄さま……」


 異状が消えたあとも、ウルスラはしばらく俺を抱き締めたままでいた。全身に流れていた冷たい汗が乾ききるまで、ずっとそうしていてくれた。


 ……その間、俺は何もできなかった。やがて彼女の身体が離れ、隣のベンチに腰をおろすまで、俺は返事を返すことも――顔をあげることさえできなかった。

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