187 共同作戦の夜(10)

 ――薄明の荒野を行くジープに揺られながら、軍曹の口から作戦が成功裏に終わったことを知らされた。


 ジープには俺と軍曹の二人で、キリコさんの姿はなかった。DJを捕らえたという短い報告のあとはお互いねぎらいの言葉もなく、相変わらず盛大に揺れる窓の向こう側に俺は、ゆっくりと白んでゆく地平線を眺めていた。


 足首の痛みは耐え難かったが、それ以上に全身の疲労が酷かった。……ほぼ一晩中走り続けていたのだから無理もない。筋肉の間に砂を詰めたような感覚が指先にまである。このまま眠ってしまいたいと目を閉じ、けれどもジープの振動にまた目を開かされる。そんなことを繰り返しているうちに、いつしかジープはあの長いトンネルに入っていた。


 車庫でジープを降りたあと、軍曹は丁寧にも俺をキリコさんの研究室の前まで肩を担いで送ってくれた。もっともそうしてくれなければ俺一人でそこまでたどり着くことはとてもできなかっただろう。


 扉の前まで来て俺を肩から降ろすと、軍曹は一言もないまま踵を返し、ナトリウムランプの灯る廊下に靴音を遠のかせていった。せめて何か声をかけようとして――だがと理解し、代わりに大きく息をいた。


 一応ノックをしてドアを開けた。鍵はかかっていなかった。


 部屋の中に入り、暗闇の向こう側にキリコさんの影が見えて――次の瞬間、駆け寄ったその影に抱きすくめられていた。


「よかったよ……本当によかった」


 それだけ言ってキリコさんは俺を抱く腕をゆるめ、その手で俺の両頬を掴んで正面から俺の顔を見つめた。薄闇の中に彼女の瞳が光っているのが見えた。ただそれが涙をたたえているためか、それとも光の加減によるものかまではわからなかった。


「……作戦」


「え?」


「成功したってことです、作戦」


「そんなことどうだっていいよ」


「そりゃないですよ。そのために頑張ったんじゃないですか、俺」


そんなのどうだっていい、って言ってんだよ。ハイジが帰ってきてくれりゃ、あたしはそれでいい」


「……そうですか」


「けど、そうだね。本当に頑張ってくれたね」


「頑張りましたよ、まあ」


「うん、頑張ってくれた。今回のあんたの頑張りは、あたしの一番のキスを受けるだけの値打ちがあるよ」


 そう言って屈託なく笑うと、キリコさんは俺の唇を奪った。


 うまく反応できないでいる俺の唇をこじあけて舌を絡めてくる。俺の首に腕をまわし、後ろ髪をかき乱して頭を引き寄せる。貪るような情熱的なキスに、疲弊しきっていた身体の奥に情欲の火が点るのを感じた。


 それを確認したようにキリコさんは唇を離すと、俺の手を引いて寝台へと向かった。もつれあうようにして倒れ込み、それからまた彼女はキスを求めてきた。


 上から覆い被さり、俺の頭を両手で挟んで蜘蛛が獲物にしゃぶりつくように。抵抗できないままそれを受け容れる俺の中で情欲の火はどんどん大きくなっていった。


「……キスだけじゃ足りないね」


「え?」


「今回の働きにキスだけじゃ足りない。ハイジは本当に頑張ってくれたんだ」


 そう言ってキリコさんは間近にじっと俺の目を見つめた。その言葉が何を言おうとしているのか、考えるまでもなくわかった。


 膨れあがった情欲は俺を押し流そうとしていた。こんなにも疲れ切っているのに……いや、死にそうなほど疲れ切っているからこそ、俺はキリコさんが欲しかった。


「……いいです」


「え?」


「今は、キスだけでいいです」


 けれども俺は、頭で考えるより先にそう返事をしていた。


 カーテン越しの薄明かりの中にキリコさんの顔が不思議そうな表情をつくるのが見えた。その表情の意味はよくわかった。彼女が不思議がるのは当然だった――俺自身、なぜそんな言葉を返したのか自分でもわからないのだから。


「あたしは、魅力ないかい?」


「まさか」


「欲しかったんじゃないのかい? あたしを」


「……欲しいです。今も欲しくてたまらない」


「だったらどうして」


「わからない」


「……」


「わからないけど、今はいいんです」


 どうにかそれだけ返すと、目の前でキリコさんは少し寂しそうな顔をした。


 そんな彼女に、おそらく俺もそっくりの表情を浮かべたのだと思う。一瞬、キリコさんは驚いたような表情をつくり、だがその顔はすぐ穏やかなものに変わった。


 次いで、キリコさんは小さく鼻で笑った。疲れてるんだね、と言った。一晩中走りまわってたんだ。あたしと何かするような力なんて残ってるわけないね。


「身体洗うかい?」


「洗った方がいいですか?」


「あんたに聞いてるんだよ。身体洗いたいかい、って」


「今日は、いいです」


「だったら、もう寝るかい?」


「はい。もう寝たいです」


「そんならあたしも一緒に寝かせておくれ。色々あって疲れちまったよ、まったく」


 そう言って大きく伸びをしたあと、キリコさんは俺の胸に顔を押しつけてきた。それから腕を俺の背中にまわして、せめてこうやって寝かせておくれ、と口ごもった。いいですよ、と俺は答えた。それ以外、俺に返せる答えはなかった。


 隣の部屋で明滅する計器の音が聞こえた。


 ひとたび膨れあがってしまった情欲は消えず、そればかりか腕の中にある身体のために火は勢いを増すばかりだった。それがキリコさんにわからないわけがない。だからこれは彼女の意地悪だった。自分からの誘いを袖にされたことへの……あるいはもっと他愛のない子供じみた。


 俺の腕の中、居心地が悪そうに向きを変えるその身体は柔らかく、そして小さかった。吐息が首のあたりにかかり、時々衝きあげるようにその身体に溺れてしまいたくなるのを、理由わけもわからないまま俺はじっとこらえた。


 今日は色々なことがあった……本当に色々なことが。頭の中はぐちゃぐちゃで、身体はぼろぼろだった。だが、舞台はこれで終わりではない。明日になればまた何が待っているのかわかったものではない……。


 そんなことを思いながら目を閉じると、暗闇のなか刀を手に追いかけてくる少女の姿が映った。その映像に思わず心の中で吹き出したあと――背筋にぞっと寒気が走り、早くも寝息を立て始めた小さな身体を抱きしめる腕に、俺は少しだけ力をこめた。

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