188 消えるべき者、立つべき者(1)
「――イジ、ハイジ」
……誰かの声が聞こえる。俺の名を呼ぶ声のようだ。分厚い壁の向こう側で喋っているのか、くぐもった感じの声が何度も繰り返しその名前を呼ぶ。
その姿は見えない。ぼんやりした意識に声の主がどこにいるのかわからない。そればかりかベタ塗りの視界に映る像は何もなく、自分が今どこを見ているのかさえはっきりしない。
「ハイジ……ハイジ、起きとくれ」
急にボリュームを増したその声がキリコさんのものだとわかり、肩のあたりを揺さぶられていることに気づいた。自分が眠りから覚めようとしているのだとわかって、ようやく自分の置かれた状況が理解できた。
……だが、正直起きたくない。まだ寝足りないことは全身のだるさをみるまでもなく明らかだし、第一、瞼が重すぎて持ち上げようとしても持ち上げることができないのだ。
「ひとつだけお願いしたいんだよ。それが終わったらまた眠ってくれて構わないからさ」
と、俺の状況を見越したかのように、キリコさんからそんな声がかかった。
……そう言われればどうあれ起きないわけにはいかない。鼻から大きく息を吸い込み、歯を食いしばるようにして目を開いた。そうしてまだぼうっと霞んで見える視界に、例の前時代的なカーキ色の携帯電話機がぬっと突き出されるのを俺は目にした。
「アイネちゃんにかけとくれ」
「……え?」
「またアイネちゃんに電話かけてほしいんだよ。この前やってくれたようにさ」
そう言いながらキリコさんは電話機を俺に押しつけてきた。アイネに電話をかけろと言っているらしいことはわかったが、起き抜けの頭にまだ考えがついて来ない。
そんな俺をどう思ってかキリコさんは縋りつくような目で俺を見たあと、顔の前に手を合わせて「お願いだからさ」と小さな声で言った。
「ねえ、お願いだよハイジ。こないだので番号は思い出したんだろ?」
「え……ああ。まあ……」
「だったらすぐに電話かけとくれ。あんまり時間に余裕があるわけでもないんだよ、実言うとさ。この通り」
そう言ってキリコさんはまた手を合わせ、懇願するように頭を下げた。俺は仕方なく電話機を手に取り、パソコンのキーボードほどもあるナンバーボタンに指をかざした。
……けれどもすぐには打てなかった。起きたばかりで頭がよく働かないうえに、アイネの番号からしてこの前は奇跡的に思い出せたというだけの話なのだ。
だがそんな言い訳が通用する雰囲気ではなさそうだ。俺は大きく溜息をつき、ほとんどまぐれに期待する思いでアイネの携帯番号とおぼしき数字を打ちこんでいった。
「――はい」
だから数回の呼出音の後、受話器から
……結局、一言も話さないまま俺は蚊帳の外に追い出され、まるで自分が電話をかけたかのようにキリコさんが話し始める。それはまったく一昨日の焼き直しを見る思いだった。
「相棒はまだ寝てるかい?」
あのときと同じ釈然としない思いで眺める俺を残して、キリコさんは既にアイネとの会話に没頭していた。受話器に向かい語りかけられるその声は、穏やかな中に緊張を孕んだ真剣そのものの声で、その目はもうこちらを一顧だにしない。
俺の方では折からの眠気もいいようにあしらわれたことも忘れて、その声に聞き入るしかなかった。
「ハイジだよ、ハイジ。近くにいるんだろ? いるんだったら代わってくれないかい。まだ寝てるならすまないけど起こしとくれ。どうしても話しておかなけりゃならないことがあるんだよ、その子に」
それだけ言い終えるとキリコさんは口を閉ざし、しばらく沈黙した。その沈黙が続く間、回線の向こうでアイネが何をしているのか何となく想像できた。
ややあって再びキリコさんが喋り始めたとき、通話の相手はもう一人の俺に代わっていた。もちろん、実際に見て確かめたわけではないが、キリコさんが口にする二人称の変化がそのあたりの事実を明らかにしていた。
「で、どうなったんだい? あたしの予言は
前置きもそこそこにキリコさんがそんな言葉を口にするのを呆れる思いで眺めた。思いつきの予言に自作自演でつじつまを合わせようと命懸けの奮闘を繰り広げた昨夜のいきさつを思えば、呆れるを通り越して感動さえ覚える。
「へえ」という呟きが聞こえたのはその時だった。その声を口にしたのは当然キリコさんで、一瞬驚きの表情を浮かべたあと、すぐ真剣な顔に戻り受話器を睨みつけるようにして、言った。
「そいつはおめでとう……と言いたいとこだけどさ。ああ、あと自分であんなこと言っておいて今さらなんだが、ハイジがその隊に入ってものの数日じゃないか。それがまたどうしてそんな話になったのか、都合が悪くなけりゃ詳しいところを聞かせちゃくれないかい?」
少し早口にそうまくし立てるキリコさんの声からは、軽い興奮のようなものが感じられた。傍で聞いている身としては最初のうち話の流れが掴めなかったが、やがてその話の内容とキリコさんの興奮の理由がみえてきた。
前回の電話でキリコさんが告げたDJ失脚の予言、そのあとに予言ではなく希望として語ったもうひとつの未来図――もう一人の俺がかの部隊の隊長になるという構図が、どうやら期せずして現実のものとなったようだ。
「へえ、アイネちゃんがねえ……もちろんあたしとしちゃハイジにどうしてもそこの隊長になってもらいたかったんだが、正直、そううまくいくとは思ってなかったよ。……やっぱりそういう筋書きなのかねえ。筋書きだよ……そうなるように
自分が役者として舞台に立っていると思っている――もう一人の俺がそう信じているという前提でキリコさんは話を進め、相手の方でもその枠組みにすっかり絡め取られてしまったものとみえる。
俺が口を割ったばかりにそうなったことを思えば一抹の責任を感じないでもないが、それにしてもこの件に関してはキリコさんがあざとすぎる気がする。端で聞いている俺としては、何も知らずあそこで必死に演技しているあいつに同情を覚えずにはいられない。
「ま、いずれにしてもこれで条件が揃ったってことだね。……そう、条件だよ。ハイジがそこの連中を引き連れて民族大移動を成し遂げる条件。けど、最低限の条件が揃っただけだってことはわかってるね? ……そうだね、あたしが言うまでもないね。もうあんたがそこの隊長なんだ。あたしにできることがあるとすれば協力だけさ。だからまあ、できる限りの協力はさせてもらうよ……そう、あたしにできる限りの協力をね」
噛んで含めるように一語一語ゆっくりと語りかけるキリコさんの顔には、期待と不安が入り交じったような複雑な表情が浮かんでいた。
あくまで超越した立ち位置から、まるで舞台のすべてを
こうしている間にもキリコさんの頭が猛スピードで回転していることがわかる。……この通話をもって物語を先へ進ませるために。
――そんなキリコさんの意図がはっきりと見えたのは、クルマについての話が始まったときだった。
「……クルマだよ。ジープって言った方がわかりがいいかねえ。そいつを取りに行ってほしいんだ。……そう、一刻も早く。誰かが見つけちまわないうちに。誰かが乗って行っちまわないうちに」
キリコさんがいっそう張り詰めた顔でそう切り出すのを聞き、なるほどこれが俺を叩き起こしてまで電話をかけたかった理由なのだと直感した。
かの部隊の隊長に就任したもう一人の俺に電話でクルマのありかを告げる――確かにそれは当面を考える上でどうしても必要なことのように思える。
仲間たちを連れ、果てしない砂漠を越えて行くのにクルマなしでというわけにはいかない。そして問題のクルマは太陽の下いつまでも隠しおおせる場所に隠してあるわけではない、ということのようだ。
「場所はC-17の、上っ
そう言ってキリコさんはにやりと笑い、初めてちらりと俺を見た。それからまた壁の向こうに視線を戻して、ほとんど無表情に近い真剣な面持ちで話を続けた。
「そいつを手に入れたら、次に何すりゃいいかわかるかい? ……その通りさ。臨時の指導教官ってとこだね。ただ、夜間教習限定ってことでお願いできるかい? ……それもあるんだが、今はまだあまり派手な動きをしてほしくないんだ。あんたたちがそういうことしてるってのを感づかれると都合が悪いんだよ。……色んな奴に、だよ。まあ、こっちはこっちで色々あるんだ。察しておくれ」
だが、キリコさんの本当の思惑が明らかになったのは教習の話が出てからだった。最初はいったい何の話をしているのかと思ったがすぐになるほどと思い――それからまたしても感動がこみ上げてくるのを覚えた。
考えてみれば……いや、考えるまでもなくそれは今後の行程にとって不可欠な作業に違いなかった。
例の隊には二十人からの人間がいるのだし、大型バスに乗ってみんなで一緒に出て行くわけにもいかない。だとすればめいめい自分で運転していかなければならないわけで、自動車教習こそが待ったなしの急務であることは自明の理だ。
「電話? ……ああ、電話ねえ。できればかけてほしくないんだ、そっちからは。こっちからはかけといて勝手な言いぐさだろうけどさ。……ああ、でもわかったよ。
キリコさんにしてみればわかりきったことだったのかも知れない。だがもう一人の俺が部隊の主導権を握ったと知るや、最初のミッションとして隊のメンバーの自動車教習を教習車つきで提起するのをみれば、そのあまりに具体的かつ的確な内容にほとほと感心せざるを得ない。
そしてもう一人、回線の向こう側でおそらく携帯電話を握っている彼が、その行動提起をあっさり受け容れたばかりか、会話の流れからしてキリコさんと同じように
彼の立つ舞台に俺が同じ立場で立っていたとして、そこまで気がつくほど深く入りこんだ演技ができたか……仮定の話だけに何とも言えないが、それはかなり難しいことのように思える。
「え? 呆れたね、あたしの番号覚えてないのかい? まったく愛の深さが知れるねえ。アイネちゃんの番号はしっかり覚えてたくせしてさ。……覚えてたんだよ、今こうして話していられるのもそのおかげさ。そういうわけだから、あたしの番号もせいぜい思い出しておくれ。……あたしからは教えてやれないんだよ。申し訳ないけどそれがこの舞台のルールだと思っておくれ。……そう、ルールだよ。あんたが弾なし銃で人を撃ち殺せるのと同じ」
まさに痒い所まで手が届く具体的な方針と手段を与えながら、キリコさんの口から出る言葉はあくまで舞台という前提を崩さなかった。
昨夜の息詰まる銃撃戦も今日のこれも、この先もう一人の俺が仲間たちを引き連れて砂漠を越えなければならないことも――キリコさんが彼に語る話はすべて舞台の中の出来事で、しかもそれは断片的に漏れ聞くだけでもめまいがするほど壮大な舞台であるように思える。
今、もう一人の俺が回線の向こう側でその話をどんな思いで聞いているのか考え、不意に胸を掻きむしられるような羨望を覚えた。そう……それは紛れもなく羨望だった。その羨望がどこから来るものであるか、そのあたりは考えるまでもなかった。
それからしばらくして通話にきりがついた。長かった電話の終わりに、キリコさんは付け加えるように天気の話をした。
「……ああ、雨だよ。明日か、遅くとも明後日には雨が降る。砂漠にも雨が降るんだよ、知ってたかい? ……よく知ってるじゃないか、教養のある男は好きだよ。ま、そういうわけでキリコ博士の天気予報を新隊長さんに役立ててほしいのさ」
「……わからないかい? さっきは天気予報と言ったけどね、これはまたこないだと同じ予言と考えてもらっていい。砂漠にも雨は降るよ、だが滅多に降るもんじゃない。そこの連中が雨を見るのは初めてだ。これは保証する。初めて雨を見る人間にとってのそれが天変地異に他ならないことはわかるだろ? その天変地異が、あんたの言うとおりに起こるんだ」
「……そういう仕込みは嫌いかい? ただはっきり言って方法を選んでいられるような状況じゃないんだ。あと一週間足らずで移動を始めないといけない。そのためにあんたに必要なものが何か、そいつをよく考えておくれ。そして考えついたら、あたしの天気予報をうまく使ってほしいんだよ。何度も言うようだけど、あたしにできることは何でもする。だけど今、あたしにできることは――あたしがハイジにしてやれることは
それから二言、三言のやりとりがあってキリコさんは電話を切り、しばらく電話機を眺めたあと、それをテーブルの上に置いた。
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