189 消えるべき者、立つべき者(2)

「……目は覚めたかい」


 物憂げに髪を掻き上げ大きくひとつ溜息をき、テーブルに視線を落としたままキリコさんはそう言った。


「え?」


「もう目は覚めたか、って聞いてんだよ。さっきはだいぶ眠そうだったじゃないか」


「覚めましたよ、もう」


「そうかい。なら顔洗っといで。朝ごはんにしようじゃないか。長いことしゃべくってたらお腹減っちまったよ」


 そう言ってキリコさんは立ち上がり、どこかわざとらしい感じのする欠伸をしながら部屋を出て行った。


 少し遅れて俺も席を立ち、彼女の言いつけ通り顔を洗うために流しへ向かった。相変わらず薄暗い洗面所に、ちょろちょろと勢いのない水がブリキの流しに落ちる音を聞きながら、ゆっくりと時間をかけて顔を洗った。


 部屋に戻るとテーブルの上には朝食の準備が調っていた。ドライフルーツが山盛りの木椀とビスケットはいつもどおりだが、いつかの朝と同じようにランチョンミートの輪切りが並んでいる分、いつもより少しな食事と言えた。


 キリコさんは既に席につき、湯気の立つコーヒーカップを傾けていた。俺は向かいの椅子を引いてそこに座り、いただきますもないままビスケットに手を伸ばした。


「というか、今度は自分でかけてくれませんか?」


 しばらくの沈黙のあと、不意に思い出した不平を俺はそのまま口に出した。


 緊急の用件があったことはよくわかったし、そのために連絡を急いでいたということが今は理解できる。けれども人に電話をかけさせておいて、かかったとみるや有無を言わさずひったくるのは正直、どうかと思う。


 そんな俺の不平にキリコさんはちらりとこちらに目を向けただけで、何も返事を返さなかった。


「アイネの電話番号教えますから。今度はキリコさんがかけて下さいよマジで」


 できるだけ批難めいた調子にならないように気をつけて、俺はもう一度同じ言葉を口にした。


 時間が経っていたこともありもうそれほど気分が悪いわけでもなかったし、だいぶどうでもいい話ではあった。それでもあえて繰り返したのは、そっちの方が合理的だと思ったというだけのことだ。


 その言葉にキリコさんは応えず、乾いた音を立ててビスケットを囓っていた。だがやがてこちらを向き、その顔にどこか申し訳なさそうな表情を浮かべて、言った。


「それができりゃ苦労しないよ」


「……どういう意味ですか?」


「言葉通りの意味さ。あたしがあの子たちに電話かけられるんなら苦労しない。あたしじゃ『回線』が繋がらないんだよ。だからハイジに頼るしかないんだ」


 それだけ言ってキリコさんはコーヒーカップを手に取り、少し口をつけてまたテーブルに置いた。言われたことの意味がいまいちわからなかった俺は、それについてしばらく考え――だがやっぱりわからないまま、頭の中にある疑問を口に出した。


「繋がってたじゃないですか」


「ん?」


「ちゃんと話してたじゃないですか、俺ともアイネとも」


「それはあんたが『回線』を繋げてくれたからさ」


「……よくわからない。その『回線』を繋げるってのは何ですか?」


「決まってるだろ。電話かけて、相手が出ることだよ」


「それはわかりますけど……何でキリコさんだと駄目なんですか?」


博士ドクター


「……もとい。何で博士ドクターだと『回線』が繋がらないんですか?」


 その質問にキリコさんは黙ってこちらを見た。そのまましばらく値踏みするように俺の顔を見つめていたあと、小さく息を吐いて「申し訳ないね」と言った。


 その返事で、『回線』に関する内容が俺に開示することが適切ではない情報にあたるのだとわかった。だからもうそれ以上は聞かなかった。……だいたい最初からそれについてどうしても聞きたかったというわけでもないのだ。


「ただ、ハイジの頑張りでずいぶん助かってる、とだけ言っとくよ。今朝の件も含めて」


「そうですか?」


「ああ。昨日はあんな感じでだいぶグダグダだったけど、蓋あけてみりゃ予想以上にうまくいってるようだ。それもこれもぜんぶあんたのお陰だよ。本当に感謝してる、ありがとう」


 そんならしくもない言葉を、真顔でまっすぐにこちらを見てキリコさんは言った。俺はうまく返事ができずに口ごもりながら思わず目をそらし、照れ隠しの気持ちもこめて「つか、今度は何やらせる気ですか」と言った。


「ん?」


「さっき言ってた予言のことです。今度は雨まで降らせようってんですか?」


「ああ、それなら心配いらないよ。そいつに関してあたしらは何もする必要がない」


「どういうことですか?」


「文字通りの予言だってことさ。まあ予言というより、って言った方がわかりが早いかね」


「天気予報……砂漠なのに、ですか?」


「やれやれ学がないねえ。砂漠だから、さ。砂漠に降る雨がどんなんだか知ってるかい?」


「あんまり」


「バケツをひっくり返したなんてもんじゃない、ようなもんさ。何もなかった場所にいきなり川ができたりするんだ。砂漠でためには、どうしたって天気予報が必要なのさ」


「……なるほど」


「あとまあ、そればっかりじゃないよ。地下水の水位の関係なんかもあって、周辺の気候を観察することはこの研究所の生命線と言っていいんだ。それで、ここ数日の湿度やら何やらのデータを解析してみると、明日、明後日に『試験場』で雨が降る確率は80%って結果が出てね。まあ100%じゃないから賭けには違いないんだが、昨夜のに較べりゃよっぽど分のいい賭けに違いないさ」


 ビスケットを囓りながらこともなげにそう言うキリコさんを、俺はまたしても感心して眺めた。


 データを解析してと彼女は言ったが、孤立無援に等しいこの研究所でそれをする人間がいるとすれば、それはキリコさん本人しかいない。昨夜の作戦にまつわるドタバタの中でそんなことをしている暇があったとも思えないのに、この人は本当にすごいと思った。


 けれどもキリコさんは何を思ってか、俺の気持ちを裏返してみせるように「あんたはすごいよ」と呟いた。


「え?」


「いや、正直あんたはすごい。一晩であの部隊を手なずけちまうなんてね。正直、驚いたよ」


「……それ、俺じゃないすから」


「いや、あんたさ。本当ほんとは天気予報の件もあんたが隊長にのしあがるために使ってもらおうと思って用意してたもんなのさ。あの男を失脚させるのはこっちでどうにかするにしても、その後釜にあんたが納まるのは一筋縄じゃいかないって、そう思ってたからねえ」


「……」


 そこまで聞いて、ようやく俺にもその天気予報の持つ意味がわかった。


 砂漠には滅多に降らない雨――しかも電話の内容を思い出せばあの廃墟の住人が過去に一度も見たことがないという雨。その雨が降ることを正確に言い当てれば、それは紛れもなく本物の予言に他ならない。たとえ数日前に現れたばかりの男でも、その予言を有効に使えば彼らを掌握することができるかも知れない。そして何より――


「何にせよ隊長になったら終わり、ってんじゃないんだ。ぽっとの新隊長に権威なんかあるわけがない。ましてやあそこの連中まとめて新天地へ引き連れてこうってんだから並大抵のことじゃないよ。百年に一人の宗教家か、なんかでなけりゃとてもできることじゃない」


「まあ、そうでしょうね」


 それはまったくその通りだと思った。あの廃墟に生きる彼らがどんな考えを持ち、どんな思いであの殺伐とした生活に明け暮れているのかわからない。けれどもその生活を捨て、危険な砂漠を越えて見も知らぬ場所へ旅立つには、相当の覚悟と理由が必要になってくる。


 水がなくなるとか食糧の供給が止まるとか、そんなことを言ってもはじまらない。要はを信じさせるだけの何かを彼が持っていなければならないのだ。つまり――


「カリスマが必要なんだよ。連中の世界観を根底からひっくり返しちまうような圧倒的カリスマが、ね。そのために天変地異を言い当てるってのは、単純だが一番手っ取り早い手段なんだよ。まあどうせなら日蝕や月蝕の方が劇的なんだろうけどさ。そのへんはそう都合よく起こってはくれないみたいでね」


「どこかで聞いたような話ですね」


「ん? ああ、歴史を紐解けば、って話だよ。原始的な共同体では情報が統治の手段になりうるってことさ。どこぞの島国の古代の女王にしてみたところで、お隣の先進国からそういった情報をリークしてもらってたからこそ女王たりえたんだろうしね。昔の偉い人はみんなやってたことさ。それなのにあの子ときたら――」


 そう言ってキリコさんは大きく溜息をつき、いかにも参ったというように眉をしかめた。だがその顔にどこか満足そうな表情が浮かんでいるのを見て――それがついさっき、もう一人の俺との通話が終わりかける頃に彼女が見せた表情であることに気づいた。


 その表情のままキリコさんはコーヒーを少し口に含み、それから今度ははっきりと口元に笑みを浮かべて、言った。


「卑怯だって言うんだよ」


「卑怯?」


「そんなのは卑怯だって言うんだ。あたしが流した情報を、まるで自分の言葉のように使って隊をまとめるのはフェアじゃない、ってね」


「……」


「あんたならどうだい?」


「え?」


「ハイジもやっぱりそういうのは卑怯だと思うかい? 舞台裏からまわってきたカンペ読み上げて偽りの予言者になることが、さ」


「……」


 そう言われて俺は考えこんだ。同じ立場になってみないとわからない……そう返そうとして、だがキリコさんが求めている答えはそんなものではないのだと思い直した。


 それからまたしばらく考えて……あるいは俺も同じことを言ったかも知れない、と思った。


 たとえそれが部隊をまとめあげるのに有効な手段だとしても――いや、それがわかるからこそ、与えられた役を真剣に演じているその手段に頼ることに抵抗を感じるはずで――


「っ……っ……」


 そこでふと我に返り、向かいで俯くようにして肩を震わせているキリコさんの姿を見た。どうしたのだろう、と思うのと盛大な笑い声が起こるのがほぼ同時だった。


「あはは、あはははは……」


 そうして俺の目の前でキリコさんはのけぞって笑い出した。相変わらず何がツボに入ったのかわからないその哄笑に、今度は俺の方が溜息をつく番だった。


 やがて指先で涙を拭いながらキリコさんは笑い止み、いつもどおりごめんごめんと口先ばかりの謝罪を口にした。


「けど、あんたならやるかも知れないね」


「……何の話ですか?」


「その役を見事に演じきってみせる、ってことだよ。天気予報なんて小細工使わなくたってさ。本当にやってくれるかも知れない。あんたはすごいよ。いや、本当ほんとにあんたはすごい」


「……だから、それ俺じゃないすから」

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