190 消えるべき者、立つべき者(3)

 それだけ言って、俺はもう一度溜息をついた。……確かに彼はすごいのだろうが、それは俺のことではない。なまじが誉められているだけに微妙な気持ちは募るし、もっと言えばわけもない嫉妬さえ感じてしまう。


 第一、すごいすごいとキリコさんは言うが、俺に言わせれば彼女の方が余程すごいのだ。お返しにそのことを口に出そうとして――だがやはりそれは口に出さずにおくことにした。


「つか、クルマのストックなんてあったんですね」


「ん?」


「クルマです。いつから隠しておいたんですか?」


「ああ、その話か。隠したのは昨日の夜だよ」


「昨日の夜?」


「そう、昨日の夜さ。もともとあの場所にクルマなんざ置いてありゃしない。あの子たちに見つかっちまったら事だからね。本当は乗り入れるのも御法度なんだが、昨夜の非常事態で連中が何台もで乗りつけていたんでその中の一台を拝借したんだよ」


「彼らに頼んで貸してもらったってことですか?」


「まさか。どさくさに紛れてちょろまかしたんだよ」


「え……」


「ハイジをあれだけ危険なめに遭わせといて、あたしが何もしないってわけにはいかないだろ。あたしはあたしで身体張らせてもらったのさ。まあ、あんたがしてくれたことに較べりゃ楽な仕事だったに違いないけどね」


 そう言ってキリコさんは自嘲気味に笑った。けれども俺の方ではとても笑い返すことなどできなかった。


 昨夜、キリコさんは実質的に衛兵隊ガーディアンの保護監視下にあった。その状況で彼らの目をかいくぐり、一台のクルマを盗み出すことがどれほどのことであるか――はっきり言って想像もつかない。


 ……やはり、キリコさんこそ本当にすごいと思った。今度はそのことを口に出そうとして、だがそれよりも彼女の口が開く方が早かった。


「それはそうと、足の具合はどうだい?」


「え?」


「足の具合だよ。昨晩の名誉の負傷のさ」


 そう言われて――そこで初めて俺は足の痛みが消えていることに気づいた。思わず椅子の裏に手を入れて足首を掴んでみる……やはり痛くない。


 昨夜、眠りにつくまでまるで内側から火箸でえぐられているようだった左足首の痛みが、どういうわけだろう、今朝は嘘のように消えてしまっている。


「……もう痛くないです」


「そうかい。なら大丈夫だね」


「俺、足怪我したって言いましたっけ?」


「なに言ってんだい。引いてんだから見りゃわかるに決まってるだろ」


「というか、キリコさんが治してくれたんですか?」


「ド・ク・ター」


博士ドクターが治してくれたんですか?」


 俺がそう言うとキリコさんはやれやれというように両手を横に掲げるジェスチャーをし、それからおどけた表情に眉をひそめて「見くびられたもんだね」と呟いた。


「道ならぬ研究に日々いそしんでいるとは言え、あたしは医者だよ? 捻挫くらい治せなくてどうするのさ」


「それにしたって捻挫が一晩で治るもんですか?」


「治ってもらわなけりゃ困るんだよ、捻挫くらい一晩で。それともなにかい? 昨日のあのまんまでベストなパフォーマンスをこなしてくれるってのかい? あたしのハイジは」


「いや……治してもらったことはありがたいんですけど」


「今日も色々と動いてもらわなけりゃならないんだよ。あんたが頼りなんだ」


「……」


「昨日の件であたしはもうあんたに賭けると決めた。楯になんかなってくれなくていい、どこまでも一緒に行ってほしい。死ぬも生きるも一緒だよ。賽子サイコロ投げちまった博打が丁半はっきりつくまで、さ」


 一息にそれだけ言うとキリコさんは俺の返事を待たずに席を立った。そうして手早くテーブルの上の食器をまとめ、それを携えて部屋を出て行った。


 取り残された俺は彼女が残していった言葉の意味を考え、大きくひとつ溜息をいた。


 あの成り行きまかせの蛮勇がもたらした物語の筋がこれなのだとしたら、どうあれ素直に受け容れるしかない。……何より、ともすれば忘れてしまいがちな《兵隊》の役を考えた場合、俺はただひたすらに《博士》の手足となって働くより他にないのだ。


「――それで、今日は何をすればいいんですか?」


 だからキリコさんが部屋に戻ってきたとき、俺はあえてぶっきらぼうにそう尋ねた。その質問にキリコさんは応えず、椅子を引いて元いた俺の前の向かいに座った。それからおもむろに壁の時計を見て、「そろそろだよ」と言った。


「そろそろ迎えが来る頃だ」


「迎え?」


「そう、またぞろあの女が迎えに来るってことになってるんだよ」


「……ということは、また訓練ですか?」


「え? ああいや、そういうわけじゃない。とっ捕まえたやつの取り調べに協力してほしいんだとさ」


「捕まえたやつ……というとDJですか?」


「そいつの取り調べをするからご足労願いたいって、まあそういうことでね」


「どうして俺たちが?」


「連中じゃ言葉が通じないだろ」


「あ――」


「研究所でを喋れるのはあたしらだけだ。だから連中はあたしらの手を借りないことにはあの男に尋問ひとつできないのさ」


 そこまで話を聞いて、今さらながら廃墟の中の彼らが口にしていた言葉がであったという事実に気づいた。思い返してみればそれは確かにこの俺たちの言葉だった。この研究所の人間たちが話すあの言語でも、まして自分には聞き取れないどこかの言葉でもなく……。


 だがよく考えれば――いや、考えるまでもなく、それはひどく不自然で奇妙なことのように思える。なぜなら俺たちが口にするこの言葉は、間違っても英語のような公用語たり得る言語ではないからだ。


「何でですか?」


「ん?」


「何で彼らは、この言葉を使ってるんですか?」


「さあね、あたしの知ったこっちゃないよ。そのあたりは雲隠れしちまったどこぞの主任研究員に聞いとくれ」


「ああ……そういうことですか」


「あいつがまだここにいるとき、同じ質問を何人ものやつがしてたっけねえ。結局、あいつはまともに答えてなんざくれなんだ。ぜんぶあいつの頭ん中さ。大事なことな何もかも常人には計り知れないあの男の頭ん中」


 そう言ってキリコさんは鼻から大きく息を吐いた。ぼんやりした表情で頭の裏に掌を組み、少しだけ背をのけぞらせるようにして、続けた。


「ただ、それがあたしたちにとって有利にはたらいてるのは事実だ」


「え?」


「あの子たちがで喋ってるってことがあたしたちにとって有利にはたらいてる、ってことだよ。まあそれは何も今に始まったことじゃないけどさ」


「……そうですね」


「あたしがあの場所に食いこめたのも半分はそいつのおかげさ。なにせこの研究所で流暢にこの言葉を話せるのはあたしだけだったからね。……もっともそのせいでやっかみというか、あいつとの間に下世話な関係を噂されたりもしたわけだけども――」


 ――と、そこでドアがノックされた。キリコさんは立ち上がらず、頭の裏に手を組んだまま茫漠と壁を眺めていた。


 もう一度、ドアがノックされた。そこに至ってキリコさんはやはり席を立つことなく、頭さえ向けずによくとおる声で⦅用なら入っといで⦆と静かに言った。


⦅――失礼します。約定の時間になりましたのでお迎えにあがりました⦆


⦅あれ、もうそんな時間だったかい?⦆


⦅はい、ただ今の時刻が1030であります、博士ドクター


⦅参ったね、まだぜんぜん仕度できてないよ。少しだけ廊下で待っててくれるかい? そんなに時間はとらせないからさ⦆


⦅了解致しました、博士ドクター


「……というわけだ」


 ドアが閉まる音と同時にキリコさんはそう言って立ち上がった。慌ててそれに倣う俺に黒いベルト――脇の下あたりに銃を吊すためのホルスターを寝台から拾い上げ、投げてよこす。


 それからおもむろに白衣を脱ぎ、ブラウスのボタンを外し始めようとする彼女から目を逸らして、俺は受け取ったホルスターを胴に着けた。そうして昨日さんざん世話になった弾なしで撃てる銃を、かすかな衣擦れの音が聞こえる薄暗い部屋の中に探した。


◇ ◇ ◇


 先を行くエツミ軍曹の背中を眺めながら歩き続ける間、三人の間には一言もなかった。昨日の別れ際の様子で予想はついていたが、軍曹はまるで昨夜のことなどなかったかのように俺を歯牙にもかけず、部屋を出てからここまで挨拶はおろか視線のひとつさえくれない。


 ……まあそういうものだと思いはしても、寂しい気持ちがまったくないと言えば嘘になる。あの息詰まる作戦をどうにか完遂できたのは間違いなく彼女のおかげで、たった一晩でも共に戦った『同志』としての意識がまだ胸の奥にくすぶっている。


 隣を歩くキリコさんからも言葉はない。ナトリウムランプとおぼしき橙の灯に照らされるその横顔には緊張――というよりどこかような硬い表情が浮かんでいる。


 ――その表情の理由は何となくわかる気がした。昨夜の作戦に先立ってマリオ博士との間に交わされた駆け引き。おそらくキリコさんにとっては苦々しい結果に終わったその化かし合いの精算会が、この長い廊下の先で彼女を待っているのだ。


⦅――失礼します⦆


 マリオ博士の部屋に着き、軍曹がノックのあとにその扉を開いたとき、キリコさんの表情は一層険しく、蒼白に近いものになっていた。


  そこに至って、俺はようやくそんな彼女の表情に尋常ではないものを感じた。


 いくら出し抜かれた相手の前に立つにしても――いや、そういう場面であればこそキリコさんがこんな顔をするはずはない。ことさら余裕を持って構え、いつにも増して彼女らしい冷笑的な態度で臨むのがセオリーであることを、俺は知っている。それがまるで何かに怯えるように顔をこわばらせ、うなじに汗まで滲ませているのは、どう考えても普通とは思えない。


 だがそのことについて俺が口を開く前に、エツミ軍曹についてキリコさんは扉をくぐった。それで俺も仕方なく彼女のあとを追い、これで都合三度目となるマリオ博士の部屋に入った。


⦅――やあ、キリコ。待っていたよ⦆

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