328 巡礼者のキャラバン(9)

「――なあ、ここからC-17まで行くのにどれくらいかかる?」


 部屋に戻るや、後ろ手にドアを閉めながら俺ははやる気持ちでそう告げた。


 ビルの中はもう相当に薄暗かった。まどからのほの明かりも既に消えかけ、構内を満たす闇は刻一刻とその濃さを増してきている。


 俺が隊長として彼らの前に立つその時は近づいている。だがその前に、俺には片付けておかなければならない仕事がある。


「C-17だよ。今からここを出て――ああ、片道だけでいいんだけど、真っ暗になる前に着くことってできる?」


 床に転がっていたペットボトルを拾い上げ、少しだけ口に含んだ。渇いた身体に生温かい水が浸み込んでゆくのを心地よく感じながら、俺は返事が返ってくるのを待った。


 だが、アイネからの返事はなかった。


「アイネ?」


 薄闇の部屋に呼びかけた。けれどもやはり返事はない。


 ――と、すぐにつつもりで中の様子を改めもしなかった俺は、そこではじめて、今しがた部屋に入ったとき扉に鍵がかけられていなかったことに気づいた。


「……」


 ……いや、正確には自分がアイネに義務付けられていたノックという合図なしにこの部屋へしてしまったことに気づいた。


 この廃ビルに部隊を同じくする彼らは、仲間であって仲間ではない。つまらない諍いを避けるためにも最低限の自衛は必要で、部屋の施錠と入室時のノックは不文律となっている――そんな彼女の説明を今さらのように思い出して、俺は自分が犯してしまった失策を思った。


 こういった決まり事に関するアイネの考え方は、ほとんど潔癖に近いものがある。俺がそれを破ったときにどういう反応を示すか……経験上、そのあたりも十分過ぎるほどよくわかっている。


 ……俺は軽率にも虎の尾を踏んでしまったのかも知れない。タイムリミットが迫るこの状況で相手に無駄な弁明に時間を費やさなければならないかと思うとさすがにげんなりするものがあったが、ともあれ、まずは一言アイネに謝らなければならない。


 そう思って周囲を見回した。だが、そこにアイネの姿はなかった。


「……アイネ? いないのか?」


 再度の呼びかけにも返事は返ってこない。


 ……どこかへ出かけているのだろうか。そう思ってもう一度薄闇の部屋を見回す俺の目に、壁際の太い柱がつくる濃い陰に身を隠すように、膝を抱えて蹲るアイネの姿が映った。


「いたのか……つか、いるなら返事くらいしろよ」


 溜息をつきながら歩み寄った。けれども、アイネは俯いたまま頭を上げない。俺の言葉に返事を返してくることもない。


 そこに至って、俺はようやくアイネの様子がいつもとは違うことに気づいた。


「……どうした?」


 問いかけに返事はなかった。すぐそばまで近寄り、精一杯の気遣いをこめて訊ねてみても、アイネは顔をあげることすらしない。


 俺は仕方なくアイネの隣に座った。それからしばらくのを置いて、アイネの方を見ないまま独り言のように語りかけた。


「なんかあったのか?」


「……なんでもない」


 ようやく返ってきた返事は明らかに彼女が機嫌を損ねているときのそれだった。この文脈におけるアイネの「なんでもない」が、逆に「何か言いたいことがある」という意味だということは、改めて確認するまでもない。


 内心に鼻白むものを感じながら俺は、ここは慎重なハンドリングが求められる場面だと思った。キリコさんに呼ばれて部屋を出るとき、着いてくるなとすげなくあしらったのが今も尾を引いているのか、あるいは何か別に理由があってのことか……。


 ただいずれにしても、ここでアイネにその理由を問い質すのは得策ではない。


 件のに記されたところによれば、こういうときはアイネの方からそれを切り出すのを待つのがセオリーである。けれども今この状況において、悠長にアイネの出方を窺っている時間的余裕はない。


 そうなるとここでの対処方針はおのずと定まってくる。感情を排し、最も優先度の高い議題について必要なことだけを事務的に伝える――それがこのシーンにおける最適解だ。


 そんな結論をもって、俺はもう一度アイネにその質問を投げかけた。


「――なあ、ここからC-17まで行くのにどれくらいかかる?」


「……」


「C-17だよ。アイネならわかるだろ?」


「……わかるけど」


「完全に日が暮れるまでに着ける?」


「……」


「片道だけでいいんだ。向こうに着くまででいい。今からここを出て、真っ暗になる前にC-17に着けるかどうか教えてほしい」


「……多分、ぎりぎり」


「だったら、案内してくれ」


「……」


「頼む。の前にどうしてもやっておきたいことがあるんだ」


 そう言って俺はアイネに向き直った。じっとこちらを見つめる物言いたげな視線を受け止め、アイネの反応を待った。


 ややあって、アイネは小さく息を吐くと無言で立ち上がった。


 そのまま何も言わず部屋を出て行ってしまうアイネの背中を見送ったあと、俺は溜息をついて立ち上がり、急速に遠ざかってゆく足音を追って駆け出した。


◇ ◇ ◇


「はぁっ……はぁっ……はぁっ……はぁっ……」


 その場所にたどり着いたときには、誇張でも何でもなく俺は息も絶え絶えだった。


 黄昏の残光はまだ西の空にうっすらと線を引いており、夜の帳は完全には降りきっていない。その点でアイネの言葉に嘘はなかったわけだが、あの部屋を出てからここまで、ゆうに三十分近くも全力疾走させられるはめになるとは思わなかった。


 ただ、俺と同じように激しく息を切らして地面に座りこんでしまっているアイネの姿を見れば文句を言う気にもなれない。日が暮れるまでにどうしてもここに着きたいという俺の希望に、アイネは全力で応えてくれたのだ。


「……ありがとな」


 荒い息の中でどうにかそれだけ絞り出した。


 アイネからの返事はなかった。後ろに腕をついて地面に力なく両脚を投げ出し、俯き加減に肩を大きく上下させている。


 そんなアイネを残して、俺は早速仕事にかかることにした。


 ――上側が半分壊れたビルの裏、瓦礫に見せかけるためのカバーを被せて隠してある。そんなキーワードを思いながら、俺は周囲を見回した。


「……あれか」


 問題のビルはすぐに見つかった。他のエリアに比べて損壊が激しくほとんど原型を留めないビルが並ぶ中にあって、上側の半分だけがきれいに欠け落ちているそのビルは確かによく目立った。


 疲労のため、がくがくと震える脚を叱咤してそのビルの裏へまわった。そうして俺は車一台がどうにか通り抜けられるくらいの路地の裏に、キリコさんが残していったであろうそのジープを早々はやばやと見つけることができた。


「……つか、雑すぎでしょ」


 もう十分に暗くなったビルとビルとの狭間に俺がそのジープを難なく発見できたのは、カムフラージュのためのカバーが半分以上はだけてモスグリーンの車体が剥き出しになっていたからだ。


 あるいは日中の砂嵐でそうなってしまったのかも知れない。だが、それにしても雑すぎる。車泥棒に盗めと言っているようなものだ。何かにつけ大雑把なのはキリコさんの美徳のひとつではあるけれども、こういったところでそれを見せつけられるとさすがに力が抜けてしまう。


 ただ、現にジープは盗まれておらず、逆に時間的に厳しいこの状況で俺は一瞬でそのジープを発見できた。結果論からすればあの人の雑な仕事に何の問題もなかったのだろう……そんなことを思いながらカバーを外し、ステップに足をかけて運転席に乗り込んだ。


 だがそこで、俺は大きな問題に直面することになる。


「……キーどこよ」


 鍵が無かった。運転席の扉に鍵がかかっていなかったことから、当然それはイグニッションキーの穴に挿さっているものと思ったのだが、鍵穴にそれらしいものは挿さっておらず、コンソール付近にも鍵のようなものは見当たらない。


 運転席に目を凝らしてみる……無い。助手席にも無い。ダッシュボードを開けた中にも無い。ドアのポケットを逐一手でまさぐってみてもやはり鍵などどこにも無い。


「勘弁してくれよキリコさん……」


 思わず恨み言が口を衝いて出た。


 さっきの打ち合わせで鍵がどこにあるか確認しなかったのは俺の方なのだから、キリコさんばかりを責めるのは間違っている――頭の中の冷静な部分でそう考える一方で、例によって大雑把な彼女の仕事のために自分が窮地に追い込まれたという思いが苛立ちに拍車をかけた。


 このままでは俺の指示通りに集まった彼らを長い時間待たせてしまうことになる。……いや、帰り道も走ればそこそこの時刻には着けるのかも知れないが、疲労のためにまだがくがくと震えている脚をみればまともに走れるとは思えないし、何より走りたくない。


 それに、このままではジープが奪われてしまう。


 ドアには鍵がかかっておらず、誰でも自由に乗り込める状態にある。車を盗んだことのない俺が大きなことは言えないが、バイクの鍵穴にハサミを突っ込んでエンジンをかける古典的な技法は知識として知っている。ジープは明らかに旧式で、盗難防止のイモビライザーがついているようには見えない。


 そうした情報を総合すれば、があるやつならエンジンをかけてこのジープを乗り去ることができると考えていい。逆に、次に俺がまたここに来たとき、このジープがまだここに残っている保証はどこにもない――その事実を思って、俺の中にじわじわと焦燥がこみ上げてくるのがわかった。


 せっかくキリコさんが調達してくれたジープをむざむざと奪われるわけにはいかない。だが目につかないところに隠そうにも、鍵がなくてはクルマを動かすことができない。


 とにかく鍵だ。鍵が見つからないことには話にならない。


 月明かりの届かない路地裏は既に濃厚な闇の中にあった。激しい焦りに身を焼きながら、俺はほとんど手探りで鍵を探し続けた。


 けれども、鍵は見つからなかった。


「……ちっ」


 乾ききった夜の闇に、力のない舌打ちが虚しく響いた。そうして俺は、自分の心が早くも折れかけているのを感じた。


 たとえばキリコさんが鍵を持ち帰っており、それをあの場で俺に渡し忘れていたのだとしたら――あの人の性格を考えるとありえない話ではないのだが、もしそうだとすれば、こうして俺が必死になって鍵を探している時間はまったくの無駄ということになる。


 いずれにしても、いつまでもこうしているわけにはいかない。鍵が見つからないのであれば、どこかで見切りをつけて彼らのもとへ帰らなければならない。


 ……何の収穫もなく、とぼとぼと元来た道を引き返す自分たちの姿を思い浮かべ、胸が苦しくなってくるのを感じた。それでも最後にもう一度ダッシュボードを確認したところで、もう潮時だと思った。


 大きくひとつ溜息をついたあと、俺はジープを降りようとした。


 そこへ、小さな声がかかった。


「――どうしたの?」

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