275 約束(5)

「――放してって言ってるでしょ! もういい加減にして!」


「ああ、悪かったな。放してやるよ」


 小屋の階段をのぼりきり、部屋に入ったところで俺は掴んでいたアイネの手首を放した。


 そのままそこで待ち構える。予想通り、アイネは俺を押し退けるようにして部屋を出て行こうとする。だが俺はそれを許さず、立つ位置を半歩ずらして行く手を遮る。


「いい加減にしてよ本当に。なに考えてるのよ」


「やましいことなんか考えてない」


「そんなこと聞いてない。わたしは帰りたいの」


「そっちこそどういうつもりだよ」


「は? 帰るつもりだってさっきから言ってるでしょ」


「そんなこと聞いてるんじゃない! 何でだよ! いま帰ってどうするんだよ!」


 思わず大きな声が出た。アイネはそれで足を止めた。けれどもすぐ、俺は自分の失敗に気づいた。暗がりのなか俺を見つめる瞳――アイネのそれが冷たく凍てついたものに変わるのがわかって。


 ――ホールをあとにした俺たちは殴りつけるような雨の中、ひたすら夜の町を駆けた。最初はただ闇雲にホールから遠ざかるために走っていたが、そのうちに足は自然とこの小屋に向いていた。


 だが道も半ばを過ぎ、あともう少しでここに着くというところで突然アイネが「帰る」と言い出した。最初、俺は彼女が何を言っているのかわからなかった。実際に帰ろうとしたことでその意味はわかったが、わかったあともなぜ彼女がそんなことを言うのかわからず、わからないまま強引に腕を引いてここまで連れてきた。


 その間ずっと「放して」と訴え続けるアイネの声を無視して。壊れるほどきつくその手首を握りしめたまま。


「何でだよ。理由を聞かせてくれ」


「理由なんてない。帰りたいから帰りたいの」


「あのなあ、こっちは真面目に――」


「お願い。もう本当に帰るから。帰らせて」


 冷め切ったアイネの声が俺の台詞を遮った。乾いてひび割れた感じのする、ぞっとするほど冷たい声だった。


 濡れそぼった髪の先から水滴がしたたっているのが見えた。嵐の中を走ってきたアイネは――そして俺もまた全身ずぶ濡れだった。


「……帰るなら、せめて身体拭いてけよ」


「すぐ帰りたいの」


「風邪引くだろ」


「引いてもいい」


「いいわけない。明日の舞台どうするんだよ」


「できると思う?」


「なに言ってるんだ。できるに決まってるだろ」


「決まってる? でたらめ言わないでよ! できるわけないじゃない! あんなことがあった場所でどうして明日舞台なんてできるのよ!」


 冷たく乾いた声をそのままにアイネは叫んだ。


 とっさに言い返そうとして――何も言い返せなかった。……その通りだった。明日あそこで舞台などできるはずがない。


 そう……明日、あのホールで舞台などできるはずはない。今ごろあのホールはパトカーに包囲され、穴だらけの死体の周りにチョークで線が引かれていることだろう。明日になればテレビ局も来る。野次馬が一斉に押し寄せてくる。その中にあって舞台など、どう考えてもできるはずがない。


 ――はじめれば良かったのかも知れない。二人で舞台に立ち、互いの額を指で弾き合おうとしたあのとき、銃声を気にせずそのまま演技をはじめれば良かったのかも知れない。


 アイネが言ったように、あれは一度きりのチャンスだった。星が一列に並んだその特別な一瞬を俺は――俺たちはみすみす逃してしまった。そうしてすべてが台無しになった。はじまろうとしていた演技も……元に戻りかけていた俺たち二人も。


「理解できた? もう舞台なんてできないの。だからわたしは風邪引いてもいいの。わかったらそこ通してよ」


「駄目だ。帰るなって」


「駄目? 何が駄目なのよ?」


「殺されかけたんだぞ。俺たち」


「そんなの関係ないじゃない。ここにいたら安全だっていう保証でもあるの?」


 そんな保証はない。むしろ、もし万一あの襲撃が俺に関係するものだったとしたら、アイネはすぐにでも帰した方がいい。だがそれはできない。ここでアイネを帰すことはできない。その理由は――


「……ここで帰したら、おまえも向こうへ行っちまうだろうが」


 腹の底から絞り出すようにして言った。ここで帰したらアイネはいなくなる。隊長の言っていた『もうひとつの世界』へ行ってしまう。それは直感に過ぎなかった。けれども俺にとって、それが何より恐ろしかった。


「はあ? 何それ?」


 だがそんな俺にアイネは露骨な嘲りの口調でそう言った。はっきりそれとわかる軽蔑の笑みが顔に浮かんでいる。その表情に俺は心臓を掴まれたような気がして、たまらず視線を外した。


「何を言い出すのかと思えば。ばかじゃないの? わたしがそんなとこ行くわけないじゃない」


「……行くんだよ」


「行かないって言ってるでしょ? いいからもう帰してよ!」


「帰らないでくれ……頼むから」


「帰るなって、もうこんな時間じゃない。それって今夜はずっとここにいろってこと?」


「……ああ、そういうことだ」


「ねえハイジ。自分でなに言ってるかわかってる?」


「わかってる」


「強引にこんなとこ連れこんで? 今夜はずっと一緒にいて欲しい? 本当にわかってる? 自分で言ってること本当にわかってる?」


「わかってる」


「わかってない! おかしいよ! 今のハイジはおかしい! ……あ、それともそういうこと?」


「……」


「そんなこと言うなんてハイジ、ひょっとしてわたしに惚れちゃった?」


「ああ、そうだよ」


 自然に口を衝いて出た一言だった。その言葉にアイネは絶句した。言ってすぐ、それが取り返しのつかない一言だったことに気づいた。けれども後悔はなかった。


「……と言うか、たぶんずっと前から惚れてた。規則があったから考えないようにしてたけど」


「……」


「でも、そのことは今は関係ない。そういうつもりで帰るなって言ったんじゃない」


「……」


「理由はさっき言った通りだ。それだけは信じてくれ」


「……応えられない」


「え?」


「わたしはハイジの気持ちに応えられない」


 そう言って、アイネは諦めたように部屋の奥へ戻り、床にじかに座って壁に背もたれた。……不思議とショックはなかった。予想できた答えだったからかも知れない。それよりもアイネが部屋に戻ってくれたことで、俺は安心を覚えた。


「……もういいんだ」


「え?」


「それはもういい。俺の方ではもう諦めがついてるから」


「……」


 本当だろうか? 言いながら俺はそう思った。本当に諦めたのだろうか? ……諦めることができたのだろうか?


 アイネは何も言わない。部屋のすみの暗がりに膝を抱えて座っている。ちょうど今朝の夢の中に見た彼女に似ていた。あのときリカがくれたお守りを思い出し……これでいいのだと思った。


「……アイネの気持ちが別のやつに向いてるのも知ってる」


「……」


「アイネの言う通り、俺、ここのとこおかしかった。それ知ってから、おかしくなった。……でも、もういいんだ。そのことはもういい」


「……」


「さっきだって、言うつもりで言ったんじゃないんだ。本当は言うつもりなかった。そういう約束だったもんな。アイネは覚えてないって言ったけど、ヒステリカに入ってすぐのときの約束」


「……」


「ああ……でも駄目だな。言っても言わなくても駄目だったんだ。結局、こうなった時点で破ってるんだもんな。……ごめんなアイネ。約束破っちまって」


「そんな約束してない」


 暗がりから怒ったような声が聞こえた。その声に俺は苦笑した。これではまるで朝の夢の焼き直しだ。ただ俺には、リカのようにアイネを抱き締める資格はない。


「俺は覚えてるよ」


「……」


「俺は覚えてる。だから、ごめん」


「……やっぱり帰る、わたし」


「……! 待って!」


 反射的に駆け寄ろうとした。そんな俺の前でアイネはびくっ、と身体を震わせ、こちらを見上げた。


「――」


 呆然と立ち尽くした。目に映っているものが信じられなかった。


 アイネが、泣いていた。


「え?」


 そう言って俺を見上げたまま、アイネは不思議そうな表情をつくった。


「どうしたの?」


 たぶんそう言おうとして、だがそれは「し」で止まった。すんと鼻をすする音がして、もう一度「え?」とアイネは言った。自分の頬に手をやり――そこに流れるものを慌てて拭い――けれども大粒の涙があとからあとからその頬をこぼれ落ちていった。


「……っ! ……っ!」


 そうしてアイネは泣きはじめた。両手で顔を覆い、肩を震わせてアイネは泣き続けた。


 呆然と立ち尽くしたまま、俺はまだ自分が見ているものが信じられなかった。


 アイネが泣いた。


 泣かないはずのアイネが、目の前で泣いていた。


 悔しそうに声を押し殺して何かをこらえるように、アイネが泣いていた……。


「……わかった。帰れよ」


 どれだけの時間が経ったのだろう。アイネの嗚咽がおさまったあと、喪心の中で俺はそう言った。アイネがなぜ泣いたのかわからなかった。……その理由を、俺は聞きたくなかった。


「でも、お願いだからこれでいなくなったりしないで。明日はちゃんと来てくれ。頼むから」


 俺は何を言っているのだろう? 口にしながら、俺は心の中で自分を嘲笑した。明日どこへ来いと言っているのだろう? あの舞台へ? 裏方も観客も来ない、あの壊れてしまった舞台へ?


「……っ」


 アイネは最後にもう一度目のまわりを拭い、勢いよく立ち上がった。だがそのまま動かず、いつまでもそこに立っている。


 ……どうしたのだろう? そう思い、声をかけようと口を開きかけたところで、アイネは糸が切れたようにまたその場に座りこんでしまった。


「どうした?」


 思わず声をかけた。けれども返事はない。さっきと同じように膝を抱え、アイネはそこから動こうとしない。仕方なく俺もその場に腰をおろし、壁に背もたれて床に座った。


 しばらくの沈黙があった。雨粒が窓を打つ音が今さらのように大きく聞こえた。生乾きの服からは湿った嫌な臭いが立ち上っていた。せめて電気だけでもつけよう、そう思って立ち上がろうとした。


「……ばかじゃないの」


 沈黙を破るアイネの言葉に、俺は立ち上がるのを止めた。独り言のように小さな一言だった。どう返していいかわからなかった。俺の返事を待たずにアイネは続けた。


「……いい加減なことばかり。何が惚れた、よ。いい加減なこと言わないでよ。……何も見てないくせに。わたしのことなんて何も見てないくせに」


「……」


「……どうしてそんなふうに思えるのよ。今までわたしのなに見てきたのよ。本当にばかじゃないの。わたしがリカの彼となんて……あんな男となんてどうにかなるわけないじゃない」


「……」


「……簡単に信じないでよ。あんな見え透いた芝居。自分でも笑っちゃうくらい下手なのに、あんなのに簡単に騙されて。ばかじゃないの本当に。茶番もいいところなのに」


「……どうしてそんな芝居」


「約束、したからじゃない」


「でも、アイネはそんな約束した覚えないって――」


 不意にアイネが頭をあげこちらを見た。そして寂しそうに微笑んだ。その顔を、俺は見たことがあった。ヒステリカに入りたてのころ、あの約束を交わしたあの場所で……。


「あ――」


 そのとき。俺は思いだした。アイネと交わした約束を……忘れていたすべてのことを思い出した。



『ばかばかしい規則だけど、俺は守ることにしたよ』


『……うん』


『言ってることはわかるしな。守らないといけない』


『……うん』


『特に俺たちは同期だからな……。いつか二人だけになる可能性もあるし……絶対に守らないと。いいか、俺たちは何があっても恋人にはならない……。たとえお互い好きになっても……絶対にそういう関係にはならない』


『……うん』


『でも……』


『……ん?』


『でも、あんたいい女だから……それに俺ばかだから、きっといつか、俺あんたに惚れるだろうな』


『……』


『でもさ……駄目だから。そうなったら駄目だから。だから……そうなったら突き放してくれ。俺がそうなったら、ちゃんと厳しく突き放してくれ。それだけ……頼む。約束してくれアイネ……お願いだ』


『うん……わかった』



「……思い出した?」


「……」


 その質問に、俺は答えられなかった。……答えられるはずがなかった。今日までずっと、あの日の約束を取り違えていた。それは俺に――俺たちに課せられた約束ではなかった。あの日、俺が無理に結ばせたその約束は、ただ一人、アイネに課せられたものだった……。


「ハイジ酔ってたからね。でも、言いたいことはわかったから。約束は約束。ハイジが忘れちゃっても」


「……」


 アイネの声が震えている。今はじめて、その理由がはっきりとわかった。約束を守っていたのはアイネだけだった。苦しい思いに耐えていたのはただ一人、アイネだけだった……。


「これでも頑張ったんだから。下手は下手なりに。でも、駄目だよね……。結局、駄目だったんだから、言い訳にならないよね……」


「……」


「ううん、頑張ってもなかった。結局、ちゃんと突き放せてなかった。リハのとき手、握ったり……。さっきだって帰れって言われたのに、帰れなくて……。それに……それに……」


「……アイネ」


「それに今だって。これじゃ……これじゃもう言葉に出してるのと一緒だよね……。はっきり言葉にしなくても……言ってるのと同じだよね。それに……そうだよね。さっきハイジが言ってた通り、こんなふうになってる時点でもう……」


「……アイネ」


「ご、ごめんねハイジ……。や、約束……。ま、守れなかった……」


 そう言ってまた泣き出そうとするアイネを迷わず抱き締めた。俺の腕の中でアイネは一瞬身をすくませ、泣き出すのを止めた。アイネは膝を抱え座ったまま、俺は立ち膝でそれを抱いたままのぎこちない抱擁だった。


 やがてアイネが頭をおこして、俺を見た。息がかかるほど間近に、暗い光を宿す二人の視線が絡み合った。


 俺が顔を近づけるとアイネは一度だけ後ろへのけぞるようにした。そこで真剣な目で俺を見て、そしてゆっくりと瞼をとじた。


「……ねえ」


 触れるか触れないかのところで、アイネの唇が動いた。


「それしたら、もう戻れないよ」


「……」


「もう今までのわたしたちには――」


 唇がかすかに触れた。一度触れ、二度触れた。そうして俺はアイネの唇をついばむようにして、「好きだ」と言った。


 肩に手を当て、真向かいからアイネの顔を見つめた。その目から一滴、二滴と頬を伝い落ちてゆくものがあった。


 そしてアイネは堰を切ったように泣き出した。


 もう手で顔を覆うことも、声を押し殺すこともしなかった。ぎこちなくまわされた俺の腕の中で、生まれたての子供のようにアイネは泣いた。


 震える背中を抱き、耳元でその声を聞きながら、俺はただ黙って彼女が泣き止むのを待った……。

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