274 約束(4)

「――!」


 そのとき。俺はを聞いた。吹きすさぶ風の音に混じってかすかに、だがはっきりとが俺の耳に届いた。


「……?」


 俺の額に向け伸ばした腕をそのままに、アイネは怪訝そうな表情をつくった。


 一瞬、俺は判断に迷った。このまま演技に入るべきではないか、今このときしかできない演技をみすみす流していいのか――だが次の瞬間、その迷いは否応なく断ち切られた。


 ぱぱぁん、ぱぱぱぁん――


「え?」


 はじめて気づいたようにアイネが壁を見た。俺はもう迷うことなく、突き出されたままのその手を掴み、駆け出した。


「えっ……ちょっと!」


 ロビーに出るのは危険だった。銃声は明らかにそちらから聞こえてくる。だがロビーに出る以外、ここから外に抜ける方法はない。


 ぱぱぱっ、ぱぱぱぱぁん――


「ちょ……何なのよ! 放して、痛いってば!」


 やり過ごすしかない。そう決断して舞台の奥へまわった。


 このホールの舞台裏には楽屋がない。雑多な器材が置かれた猫の額ほどの空間と、奈落への出入口があるだけだ。……隠れるとすれば奈落だが、逆にそこに入ってしまえば完全に逃げ道がなくなる。


 そう思い辺りを見まわして、器材の陰にちょうど舞台から死角になっている、人一人ようやく身を隠せるくらいの場所を見つけた。


 ぱぁん、ぱぱぱぁん、ぱぱぱぁん――


「何よ! 何なのよこれ!」


「喋るな! 静かにしろ!」


 その器材の陰にアイネを押しこみ、自分はその前に蓋をするように身を屈めた。そこはちょうど小道具を置くことになっていた場所で、傍らにはさっきアイネが来る前に準備した小物が、使われないままに整然と並んでいた。


 サスの落ちる舞台からはぼんやりとした光が漏れていた。さっきまで自分が立っていたその舞台が、今は遥か遠い場所のように感じられた。


「……何がどうなってるの」


 かすかなアイネの囁きを背中に聞いた。それには応えず、俺は壁向こうの銃声に耳を凝らした。


 ぱぱぱぱっ、ぱぱぱぱっ――


 音はやはりロビーの方で響いている。銃声の合間に聞こえる甲高い靴音からすると建物の中で撃ち合っているようだ。


 ……そうなると彼らがホールに入って来るのは時間の問題だろう。そのときこの舞台裏までもが戦場になる可能性は――


「……教えて」


 さっきよりも低く落ち着いた声でまたアイネが囁いた。銃声への意識を途切らせないまま、今度はその声に耳を傾けた。


「ねえ教えて……何なのこれ」


「……俺にもわからない」


「ごまかさないで」


「ごまかしてなんかいない」


「ならどうしてよ。どうしてそんなに……こうなることがわかってたみたいに……」


 小さな声で自問するようにアイネは呟いた。……彼女の質問に対する答えはすぐに見つかった。だがその答えは今この場で説明するには長すぎ、複雑にこみ入りすぎていた。


「前にもあったんだよ。こういうことが」


 だから俺は短くそれだけ返した。充分な回答ではなかったはずだが、アイネはそれで口をつぐんだ。彼女の身体がわずかに身じろぎするのを背骨の裏側に感じた。そこから震えが伝わってこないことがせめてもの救いだった。


 そう……アイネの言う通り、俺は慣れている。ここ数日の間に俺はすっかりこの手の事態に慣らされてしまった。だがこの状況にあってそのことは逆に大きな意味を持つ。今ここで俺がパニックに陥らないでいられるのは間違いなくその慣れのお陰だ。


 ぱぱぱぁん、ぱぱぱぱぁん、ぱぱぁん――


 ――彼らはここまでは踏みこんで来ない。祈るような気持ちで俺はそう思った。


 これはの抗争か何かで、俺たちはここにいただけだ。彼らが何のために撃ち合っているのかわからないが、その員数いんずうに俺たちは入っていない。だから、彼らの頭に俺たちのことはない。この舞台裏まで彼らが踏みこんでくることはありえない――


 ぱぱぱぱっ、ぱぱぱぱっ、ぱぱっ――


 ――大丈夫、うまくやり過ごせる。もう一度、祈るような気持ちで俺はそう思った。


 さっき確認した通り、俺はこの手の事態には慣れている。木曜のあのときも、そして昨日も俺はあの状況からうまく逃げ延びた。同じことが今日できないはずはない。冷静に立ち回ればここからもうまく逃げ延びることができる……。


 ぱんっ、ぱぱぱん、ぱぱぱ、ぱぱぱ――


 けれども――そうだ、状況は違う。そう思って俺は、不安と恐怖がにわかに胸の奥に湧きおこるのを感じた。


 今のこの状況は昨日とも木曜とも違う。……逃げ道がない。木曜のあのときも昨日も俺のまわりには無数の逃げ道があった。だが今ここには逃げ道がない。この完全な袋小路に息を潜めて嵐が去るのをただじっと待つしかない……。


 ぱぱぱぱぱっ、ぱぱぱぱぱっ――


 状況の違いはもうひとつある。昨日、俺の手には武器があった。あの場を切り抜けられたのはクララからもらったあの銃があったからだ。……やはり捨てなければ良かった。今、俺の手の中にあの銃がありさえすれば――


「――」


 そこで不意に、ひょっとして彼らの標的は俺なのではないかという思いが頭をぎった。


 昨日、俺はあの二人を撃った。クララからもらったあの銃で彼らの仲間を、少なくとも一人撃ち殺した。それを誰かに見られていたとしたら? いや、それよりも二人のうちどちらかが生き残っていて、復讐のために仲間たちを動かしたとしたら……。


 ぱぱぱぱっ、ぱぱっ、ぱぱぱっ――


 けれどもその疑念はすぐ立ち消えた。……そんなはずはない。たかが俺一人のためにこんな襲撃をかけるなんてありえない。第一、このホールが突き止められるくらいなら俺はもっと早く捕捉されていたはずだ――


 そのとき――きぃ、と扉が開く音に続いて、幾つもの靴音がホームに響いた。


「……っ!」


 背中に触れるアイネの身体が硬くこわばるのがわかった。


 ホールに侵入した彼らは慌ただしい靴音を響かせながらこちらへ近づいてくる。心臓の鼓動が急速に早まり、逆に心は一瞬で凍りついた。彼らはすぐにでも舞台にあがってくるだろう。そうすればここに踏み入ってくるのも時間の問題だ。


 奈落とこの場所とを迷ったとき考えたことを確認した。俺の背後、アイネが隠れている場所はうまく陰になっている。そこで息を潜めていれば見つからずに済む可能性は高い。だがここにいる俺は間違いなく発見される。そして俺が見つかればいずれアイネも――


 靴音は近づいてくる。一刻の猶予もなかった。近づいてくる靴音に俺はひとつの決意を固めた。傍らに置かれた小道具の銃――愛用の俺の銃デザートイーグルを手に取った。……こいつを手に命懸けの演技をすることになるとは思わなかった。一瞬、そんな場違いな感慨を抱いて、だがすぐ気持ちを切り替え、アイネを見た。


「銃声が消えるまでここを動くな」


「……え?」


「いいから。絶対に動くなよ」


 言い残して飛び出そうとした。――だが、俺はそうすることができなかった。強い力がしっかりと俺の腕を捕らえていた。思わず、俺は背後を見た。


 闇の中に、燃えるような眼差しがあった。心の奥底までも見透かすような真剣な目で、アイネはじっと俺を見つめていた。その目に、俺は射すくめられた。立ち上がりかけた姿勢のままぎこちなく硬直した。


「放せよ」


 どうにかそれだけ言った。けれどもアイネは手を放さない。その手と真剣な目で俺の自由を奪い、この場に留めようとする。……アイネの気持ちがわかった。彼女が何を思って俺の腕を掴んでいるのか、その理由が理解できた。


 ――こいつと一緒に死ぬことができるなら。


 不意にそう思い、だがそれが俺の心を立ち直らせた。そうしてはいけない。絶対にそうさせてはならない。そう思って俺は目を逸らし、冷徹な決意をもって腕を掴む手を振り払おうとした――


「……!」


 そのとき。まったく予期しなかった横槍がもたらされた。俺のジーンズのポケットの中に振動と、かすかな音が起こるのを感じたのだ。


 俺は――俺たちは緊迫した状況を忘れ、お互いに動きを止めた。そうして俺は狐につままれたような気持ちのままポケットに手を入れ、携帯を取り出した。


『――奈落へ降りるんだよ』


 通話ボタンを押すや、何の前置きもなしに声はそう言った。キリコさんの声だった。充分に抑えられた、だがまるで今この場にいるかのような切迫した声だった。


「キリコさんですか?」


『そんなこと言ってる場合じゃないことくらいわかってるだろ。いいからすぐに奈落へ降りるんだよ。アイネちゃんも連れて早く!』


 舞台へ続く階段をのぼる靴音が聞こえた。キリコさんの言う通り、悠長に喋っている場合ではなかった。アイネを見た。聞こえていたのだろう、真剣な目をそのままに小さく頷いて見せた。


 腕を掴んでいた力が弱まるのがわかった。その腕で俺は逆にアイネの手首を掴み、静かにできるだけ早足に、奈落への入口をくぐった。


『真ん中あたり……の反対側だ。そこに……が開いてる。聞こえ……かい?』


「どうにか……」


 奈落は漆黒の闇だった。その闇の中を携帯の明かりを頼りに進んだ。電波のためか、奈落へ降りるとキリコさんの声はうまく聞き取れなくなった。息を詰めるようにして喋っているこちらの声も届いているかわからない。


『……こから……に……れる。……したら……るんだ。……を祈っ――』


「もしもし、キリコさん」


 呼びかけに返事はなかった……通話が途絶えたのだ。だがそれは電波のためではなかった。それまで辺りをほのかに照らしていた明かりが消え、漆黒の闇に戻ったのがその証拠だった。


「……切れた」


「うん」


「くそ……これじゃ……」


 頭上では忙しない靴音が響いている。そして――遂にそこへ銃声が加わった。俺たちがつくった舞台の上で殺し合いがはじまったのだ。演技でも何でもない、本当の殺し合いが……。


 これで文字通り俺たちには逃げ道がなくなった。この暗闇の中で息を詰め、嵐が過ぎ去るのを待つしかない。激しい脱力があった。あのまま踏み切っていれば、少なくともアイネだけは生き延びることができたかも知れないのだ……。


「……ねえ」


「……ん?」


いてない? あそこ」


「どこが?」


「あの柱の右の扉」


 そう言うとアイネは俺の答えを待たずに歩き出した。手首を握ったままの俺の腕を引くようにして。近づくにつれ闇の中にそれは見えてきた。黒い壁の中に開け放たれた扉があった。


「こんなところに――」


 扉があっただろうか? 途中まで出かかった疑問の言葉を呑みこんだ。そして互いに無言のままアイネとその扉をくぐった。自分の鼻先も見えない完全な闇。だがその闇の中を小走りに進みながら、風の音が次第に大きくなってくるのを福音のように聞いた。


 突き当たりの扉を開けたとき、それまでとは比べものにならない激しい風の音が鼓膜を震わせた。同時に殴りつけるようなを全身に感じた。そこは暗闇だった。だがもうさっきまでのように完全な闇ではなかった。剥き出しの配管とコンクリートの壁――ホールの外の路地に俺たちは立っていた。


 そこではじめてアイネを見た。激しい風に煽られるその顔に笑みはなかった。荒々しい風の音の向こう側にかすかな銃声は続いていた。


「行こう」


 そう言って俺は走り出した――アイネの手首をきつく握りしめたまま。


 走り出してすぐ大きな雨粒が俺の頬を打った。そうして少しも走らないうちに、まるで俺たちを待ちかまえていたように激しく降りはじめた――

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