273 約束(3)

 勢いよく扉を押し開き、舞台に向け一直線にアイネは駆けてきた。


 舞台の前まで来ると荒い息をつきながら「ごめん」と一言だけ言い、前屈みになって一頻り背中を上下させた。全力で走ってきたことが、それでよくわかった。その息が落ち着くまで、俺は黙って彼女を眺めていた。


「……遅れてごめん」


 やがて頭をあげたアイネはそう言い、もう一度頭をさげた。その頭がまたこちらに向けられる前に「いいよ」と一言、俺は返した。


「本当にごめん。説明しにくいんだけど、遅れたのは――」


「それもいい」


「……」


「来てくれたならいいんだ」


 アイネの説明を遮り、怒っているのではないという気持ちをこめて、できるだけ静かに言った。彼女の口から弁解じみた言葉を聞きたくはなかった。それに、舞台に関係ない話ならあとでもできる。本来ならゲネプロはもうはじまっている時間なのだ。


 その気持ちが伝わったのか、アイネは無言で舞台にのぼり、辺りを見回した。おそらく裏方が誰もいないことを確認し、だが彼女は何も言わなかった。何も言わず真剣な表情をこちらに向け、そしてもう一度頭を下げた。


「連れて来られなくて、ごめん」


 一瞬、何のことかわからなかった。だがすぐにカラスのことを言っているのだと気づいた。さっきまでの懸念が杞憂に終わったことを今さらのように理解して、思わず息だけで軽く笑った。怪訝そうな表情をつくるアイネに、「仕方ないだろ」と返した。


「アイネが謝る必要なんてない。元はといえば俺のせいだ」


「……」


「それより時間が押してる。サスの調整がしたいから、立ち役お願いできるか?」


「……うん。わかった」


 それから俺は調光室にのぼり、舞台上のアイネを見ながらサスの微調整を行った。三番サスに立ったときアイネの顔がになるのを確認し、舞台に降りて長竿でサスを小突いた。


 サスの調整が済むと、それと同じように保留になっていた一人ではできない仕込みをひとつひとつ片づけていった。必要なことの他は何も口にせず、俺たちは静かに淡々と作業を続けた。


 一時間ほどかけて作業を終えたあと、俺たちは舞台に戻った。けれどもアイネは下手袖に近い四番サスの中に入るか入らないかのところで立ち止まり、それ以上こちらへ来ようとしなかった。


 サス明かりの向こう側に覗くその表情には、明らかな不安の色が見てとれた。その不安な表情の理由が、何となく俺にはわかった。


「……どうするの?」


「ん?」


「わたしたち二人だけで、これからどうするの?」


「ああ、それはだな――」


 それは昨日の段階で予想されていた質問だった。俺は昨日この場所でアイネを待ちながら考えた舞台の案を語って聞かせた。


 効果は極力簡単なものにしてほとんど変更なしに済ませる。この会場の装置はコンピュータ制御だから、予め設定しておけば効果の変更はボタンひとつでかなう。問題はどこでどのボタンを押すかということだが、キューをわかりやすくして数自体を減らせばそれもどうにかなる……。


 一通り説明を終えてもアイネは応えなかった。相変わらず不安そうな、それでいてどこか責めるような目を俺に向け、その場から動こうとしなかった。けれどもやがてその唇が動いた。囁くように小さな声で、「誰が?」とアイネは言った。


「誰がそのボタンを押すの?」


 それも予想された質問だった。だが俺はその質問に答えず、「一人でなら舞台に立てるか?」と逆に問い返した。


「え?」


「昨日、二人で即興劇なんてできないって言ってたよな。じゃあ一人ならどうだ。一人でならできるか?」


「できない」


 即答だった。その答えを確認して、用意していた答えをアイネに返した。


「ならボタン押す役はアイネに頼む」


「……ハイジは?」


「俺は舞台に立つ」


「……」


「俺が舞台に立つ。俺は一人でもれる。一人で最後まで演じきって見せる。だからアイネはオペをやってくれ」


「……どうして?」


 不安をいっぱいにたたえた表情でアイネはそう言った。質問に続きはなかった。その『どうして』が何についての疑問なのかわからなかった。それでも俺はアイネが求めている答えを言葉にすることができた。


「これがヒステリカ最後の舞台だ」


「……!」


「二人じゃまともな舞台にならないことはわかってる。けど、明日はきっとヒステリカ最後の舞台になる。だからりたい。何が何でも形にしたい」


 それが答えだった。そしてそれは、さっきまでアイネを待ちながら考えていた、自分がなぜこれほどまでに冷静でいられるかという疑問に対する答えでもあった。


 明日がヒステリカ最後の舞台になる。無意識にそれを理解していたから、さっき俺はあれほどまでに冷静でいられた。そしてそれをはっきりと確認したから、今、俺はこれほどまでに冷静でいられる……。


「どの道、考えてきたプロットは役に立たない。できると言っても、付け焼き刃の一人芝居には限界がある。俺たちがこれまで思い描いていたような舞台はできない」


「……」


「でも、きっとこれが最後だから。……俺、昨日言ったよな。借り物みたいに人引っ張ってきて、舞台を無理やりを形にするのは嫌だって。きっと同じ気持ちが根っこにあったんだ。だからアイネがあいつを連れて来られなかったことも、言い方は悪いけどそれで良かったんだと思ってる」


「……」


「これがヒステリカ最後の舞台だから……だから、最後にヒステリカの舞台をしよう。俺たちがこれまでやってきたことの証に、借り物じゃない俺たちの舞台を見せよう。役者は俺がやる。アイネがオペをやってくれれば――」


「待って」


 不意にアイネが沈黙を破った。そして一歩を踏み出し、降り注ぐサス明かりの中に進み出た。


 いつの間にかその表情からは不安の色が消えていた。代わりによく見慣れた顔――凛然としたアイネらしい真剣な顔が、挑むように真っ向から俺を見据えた。


「わたしもる」


「え?」


「わたしも舞台に立つ」


「二人じゃできないんじゃなかったのか?」


「最後の舞台をハイジ一人になんか任せられない」


 そう言ってアイネはわずかに表情を弛めた。だがすぐ元の表情に戻って、「それに」と言った。


「それにヒステリカ最後の舞台に自分が立っていられないのは嫌だから」


 一息で言い切った。アイネの唇が震えているのがわかった。だがそれは何かを恐れたからではない。本当に大事なことを話すとき彼女の唇は震える。「わかった」と俺は返した。


 改めて、俺はアイネを見た。サス明かりを浴びてぎこちなく微笑む年来の仲間の姿を見た。そして今、自分たちの心がまたひとつに通い合うのを感じた。一週間前の今日そうだったように、俺たちの心はまたひとつに通い合った。


「いいけど、足引っ張るなよ?」


「そっちこそ」


 壊れかけたぼろぼろの世界に、俺たちは立っている。そのぼろぼろの世界の真ん中で、俺たちの心はまたひとつになった。この舞台に立って演劇をするという一点において、俺とアイネの心は通い合っている。そのことが、俺の気持ちを激しく奮い立たせた。


「それなら、オペはどうするかな」


「転換なしでいかない?」


「全照で通すってこと?」


「ううん、このまま」


「サスだけか」


「そう、サスだけ。サスと暗がりを行き来することである程度は使し、それに、そういう演出だと思ってもらえるかも知れないから」


「そうだな。その方向でいこう」


 煌々と降り注ぐサスの光の中、胸を張り背筋を真っ直ぐに伸ばしてアイネは立っている。手を伸ばせば届きそうな、けれども決して届かない場所に彼女はいる。そこから燃えるような瞳で俺を――役者としての、そして仲間としての俺を見つめている。


 ……これでいいのだと思った。俺たちは所詮こういう形でしか分かり合えない。それをはっきりと理解した。


 俺たちの間には演劇以外なにもない。だが今はそのことが何より俺の気持ちを奮い立たせてくれる。俺たちはただ演劇のみをもってひとつになっている。そのことが俺の心に大きな誇りと、奥深い部分から突き上げてくるような激しい昂揚をもたらしてくれる。


「はじめようよ」


「何を?」


「ゲネプロ」


「準備がまだだろ」


「まだ何かすることあるの?」


「もうないか。考えてみれば」


「うん。もうぜんぶ済んでる」


「プロットは?」


「いらない。それとも、ハイジはないとできない?」


「まさか。そっちには必要かと思って聞いただけだ」


「なら、もうはじめようよ! わたしは今しかできない! 今このときを逃したらきっともう二度とうまく演技できない!」


 かすかに震える声で内心の高ぶりを隠さずにアイネは言った。その言葉の意味がはっきりとわかった。俺もそうだと思った。今しかない。俺は――俺たちは今このときを逃したら二度とうまく演技できない。


「わかった、はじめよう!」


「うん!」


 そう言うとアイネはこちらに向け、真っ直ぐに右腕を伸ばした。その腕の先には親指に人差し指がつがえられている。その意図を理解し、俺はアイネに歩み寄った。そして同じように人差し指を親指につがえ、腕を伸ばし彼女の額に近づけた。


「覚悟はいいか?」


「そっちこそ!」


 厚い壁を隔てて風の音が聞こえる。静寂に満たされたホールには一人の観客もいない。それでよかった。


 この舞台に観客はいらない。裏方も舞台監督ブタカンもいらない。照明も音響も、狭苦しいこのホールさえもいらない。


 俺たちは演技する。壊れかけた世界を繋ぎ止めるための演技を。二人きり残った仲間の絆としての演技を。劇団ヒステリカ最後の舞台を成功に導くための、今このときしかできない一度限りの演技を。


 合図はいらない。何度も繰り返したタイミングを身体が覚えている。互いの額を弾き合うその瞬間を思って、俺はつがえた指にぐっと力をこめた――


 ぱぁん、ぱぱぁん――

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