272 約束(2)

 朝練の開始時間になってもアイネは現れなかった。当然のように他の三人も。石段の日陰に腰掛けて十五分だけ待ったが誰も来なかったので、俺は仕方なく一人で発声練習をはじめた。


 いつも通りの発声を続けながら、ついに一人きりになってしまった朝練を思った。


 水曜にキリコさんが来なくなり、木曜には隊長が現れなかった。金曜にはペーターが、今朝はアイネが朝練から姿を消した。本番の舞台を明日に控えた土曜日、こうしてただ一人、俺だけが日課の発声練習をしている。


 ――けれどもそんな事実を、俺は思ったより冷静に受け止めていた。少なくともその一人きりの朝練で、いつもと同じように発声練習ができるくらいには。その理由を考えて、すぐに思い当たった。……それは今朝のこの状況が、昨日の朝のそれとほとんど変わっていないからだ。


 そう……思えば昨日の朝の時点で状況はすでに最悪のものになっていた。これでは舞台に立てないとアイネははっきりそう言っていたし、その言葉を否定することが俺にはできなかった。その最悪の状況から事態は一歩も好転していない。だが逆に、それ以上悪い方向に進んだわけでもないのだ。


 違いがあるとすれば、昨日の朝は来ていたアイネが今朝は来ていないということだが、俺はそのことにあまり深刻なものを感じなかった。アイネはキリコさんたちのように消え失せてしまったのではなく、何か事情があって来られないだけだという確信のようなものがあった。……そう思う根拠もないわけではない。キリコさんたちのようにおかしな消え方を、アイネはしていないからだ。


 火曜の夕方、俺に預けてあった携帯に奇妙な電話をかけてきたあと、キリコさんはいなくなった。水曜の練習でわけのわからない演劇論を展開したあと、隊長はいなくなった。木曜のリハで常軌を逸した演技を見せたあと、ペーターはいなくなった。それに見合うだけのおかしな消え方を、昨日のアイネはしていない――


「……!」


 そこで、思わず発声が止まった。


 昨日アイネを最後に見たと、今ここに彼女がいない状況とが、はじめて自分の中でリンクした。それとほぼ同時に、ここにいないアイネが今なにをしているか――昨日、あの扉の向こうに消えた彼女がその先でなにをしていたか――想像して、その瞬間、胸の奥に痛みとも苦しみともつかない真っ黒な衝動のようなものが一気に噴き上がるのを感じた。


「……っ!」


 その衝動は昨日の夜、で感じたものそっくりに俺の心を激しく軋ませた。


 俺は咄嗟にあの夢――今朝に見たリカのやさしい夢を思い出し、胸に残るその夢のかけらに必死になってしがみついた。そのまま息さえも止めて衝動が治まるのを待った。


「……」


 ある程度立ち直ったところで、何事もなかったかのように俺は発声を再開した。


 ……今日これからのことを考えればこんなことでいちいち挫けてはいられない。まだ完全に消えきらず胸の底にくすぶる黒い衝動を感じながら、今朝の夢の中のリカに感謝した。……あの夢のかけらがなければ俺はまた昨日のように吐くか、あるいは叫び声をあげて走り出していたかも知れない。


 リカと一緒に感じたこの思いがある限り、俺は立っていられる。明日の舞台が終わるまでこの思いにすがって、俺はどうにかやっていける。


 今朝、部屋を出る前に思ったその気持ちを確認して……だが同時に、自分がその思いに助けられ、かろうじて精神の安定を保っているに過ぎないのだということを理解した。ちょうど砂の上に建つ高い塔のように、いつ崩れてもおかしくない危うい状態にいるのもまた間違いないのだ、と。


 明日まではってほしい。祈るような気持ちで俺はそう思った。せめてそれまでは。明日の舞台が終わるまでは――


 蝉の声が聞こえた。ようやく元通り立ち直った意識に、周囲を押し包む陽炎のような蝉時雨がゆっくりと染みこんできた。昨日までは一匹も鳴いていなかったのが嘘のようだ。そう考えてふと、昨日のクララの言葉を思い出した。


『明日の朝には多くの蝉が背中を割って羽を生やします。何年も暮らし続けた地下の国に別れを告げて』


 一区切りついたところで俺は発声を止め、しばらく蝉たちの歌声に聞き入った。聞きながらそれが恋の歌――性愛の相手を求めるために歌われる歌であることを思った。そしてそれを、俺はたまらなく贅沢なものに感じた。


 蝉という生き物は何という贅沢な生き物なんだろう――もうもうと立ちこめる蝉時雨の中、素直に俺はそう思った。


 光の届かない土の下に長い年月を過ごし、その土から這い出して翼を手にした短い夏。その最期の時間ただひたすら性愛を求めて歌い続け、潔く死んでいける蝉たちを、俺はこの上なく贅沢な生き物だと感じた。


 ……俺たちはそうはいかない。人間という生き物はそんな純粋にはできていない。しがらみにとらわれて思いを言葉にできず、自分さえ騙してその思いを燃やしてしまおうとし、結局燃やしきることができずに長く長くそのを引きずる。


 そう――俺はこの気持ちを引きずる。たとえ明日の舞台が終わっても、きっといつまでもこの気持ちを引きずる。いつまでもいつまでもこの気持ちを引きずりながら、まだ先の長い年月を死ぬまで生きていかなければいけない……。


 ……蝉とは何て贅沢な生き物なんだろう。何年にも及ぶ命の最期に訪れる短い夏、ほんの一週間足らずのその季節ただひたすら性愛を求めて、それだけを思って声を張り上げ続けて――終わればすぐ死んで土に還ることができる。そんな蝉たちが……今の俺にはたまらなく羨ましかった。


「……捨てなけりゃ良かったな、あの銃」


 思わずそう独り言ちた。そしてあのときクララが言っていたことの意味が、ようやく理解できた。


 彼女がなぜあの銃を俺にくれたのか、今の俺にはその理由がよくわかる。今ここにあの銃があったなら、俺はクララの言うようにその銃口を頭か心臓に向けトリガーを引いていたかも知れない。


 そこまで考えて、俺は苦笑した。……何をばかなことを考えているんだと情けなくなった。


 俺は死なない。そう簡単に逃げるようなことはしない。少なくとも、明日の舞台が終わるそのときまでは――


「捨てて良かったんだ、あんな物騒なもの」


 それだけ呟いて、俺はまた発声を再開した。


 八時をまわったばかりの大学構内は、まだ人影がなかった。誰もいない空っぽの景色にただ蝉たちだけが、相変わらず大声で歓楽の歌を歌い続けていた。


◇ ◇ ◇


 朝練を終えた俺は学食で早めの昼食を済ませ、その足で会場の『あおぞらホール』へ向かった。


 ゲネプロは午後四時からの予定だったが正午には着いた。何も知らずにやって来る裏方に事情を説明するために、時間はいくらあっても足りないと思ったからだ。


 朝あれほど喧しかった蝉の声は、昼が近づくにつれ静まってゆき、会場に着く頃にはほとんど聞こえなくなった。代わりに少し赤みがかった奇妙な色の空の下、風の音がひっきりなしに耳に届くようになった。――じっとりと湿りきった生暖かい風。唐突に強まり、弱まってはまた強まるその風に、何となく胸騒ぎのようなものを感じた。


 会場にはまだ誰もいなかった。予定が四時間も先であることを考えれば当然なのだが、そのことに俺はかすかな安堵を覚えた。こみ入った事情を理解してもらうために、それを説明する人間がことは大きなアドバンテージになる。だから俺は必要があったのだ。


 一人でもできる仕込みは昨日のうちにほとんど済ませてあった。それでも俺は調光室にのぼり照明の具合、特にサスの落ち具合を一通り確認した。二番のサスが少しホリゾント側に寄りすぎていることに気づき、舞台に降りて竿で調整した。そうしてまた調光室に戻り、もう一度はじめから確認をしなおした。


 照明の確認を終えると、裏方を迎えるための準備に取りかかった。受付用の机を並べ、当日券とパンフレットを用意した。懐中電灯に濃紺のフィルムを被せ、舞台裏用のブラックライトに仕立てた。それらはどれも今日裏方がやるべき仕事だったが、自分でやれるところはすべて片づけていった。事情を説明するのにどれだけ時間がかかるかわからない。それに――素直に説明を受け容れてくれる裏方ばかりとは限らないからだ。


 準備を進めながら裏方と、そしてアイネが来るのを待った。午後二時をまわったところでロビーに出ると、正面玄関の扉を隔ててうねるような風の音が聞こえた。……台風が近づいているのかも知れない。そういえばラジオでそんなことを言っていた気がする。漠然とそう思いながら、また誰もいないホールに戻った。


 三時を大きく過ぎ予定の時間が近づいても、会場には誰も来なかった。自分にできる仕事をすべてやり終えてしまったあとは、転換表を眺めながら今日のゲネプロの進め方を考えた。昨日の様子ではアイネを役者に数えることはできないかも知れない。それでも緞帳をあげるということなら、方法はひとつしかない……。


 午後四時になった。ホールには誰一人現れなかった。あるいは台風のためかとも思ったが、そのことで裏方に連絡をとる気にはならなかった。それほど親しくはなくとも、何度か一緒に舞台をつくったことのある彼らの人となりはある程度知っている。台風が来るとわかったら寝袋を抱えて時間より早く来る人たちばかりだ。そんな彼らが一人も現れないということは、連絡はするだけ無駄ということだ。


 ……きっとまた隊長が関わっているのだろう。あるいはあのときの言葉通り、全員まとめて「向こう側の世界」へ連れていってしまったのかも知れない。半ば真面目にそう考えて、だが俺はもうそのことに不思議を感じなかった。隊長に対する怒りさえ、湧いてはこなかった。


 ステージにいても外に吹き荒れる風の音がかすかに漏れ聞こえてくるようになった。薄暗いホールにその音を聞きながら、来ない人たちをただじっと待ち続けた。待ちながら俺は、こんな状況にもかかわらず落ち着いている自分を訝しく思った。舞台前日のゲネプロに俺以外誰も来ていないこの状況で、俺は自分でも奇妙に思うほど落ち着き払っている……。


 アイネも来なかった。裏方たちと同じように、予定の時間になってもアイネは現れなかった。だが俺は彼女が来ないことを、裏方たちのそれとは別の思いで受け止めていた。不確かな確信には違いなかった。けれども朝練で思ったそのままに、アイネは必ず来るという確信があった。


 ――むしろそのとき一緒に来るであろう男を思って、俺の心はまた朝練のときのように冷静を失いかけた。そして俺はまた咄嗟にあの夢を思い出し、胸に残るその夢のかけらにしがみついて衝動をやり過ごした。


 ホールに通じる向かいの扉を見つめながら、そこを開けて入ってくる二人の姿を思い浮かべた。その瞬間に自分が冷静を失わないでいられるように。リカがくれたやさしい夢の記憶を胸に、何度も何度もその光景を思い浮かべた。


 午後五時になってもアイネは来なかった。だが俺は時を追うごとにいっそう冷静になってゆく自分を感じていた。そんな自分をいよいよ訝しく思った。役者はいない、裏方も来ない。こんなことでまともな舞台ができるはずはない。それなのに俺はこんなにも落ち着いている……。


 ――なぜ自分が冷静でいられるのか、そこではじめて、俺はその理由を考えはじめた。


 答えはすぐには出なかった。だがしばらく考えるうち最初は曖昧に、徐々にはっきりと形をとっていった。その理由が言葉にできるまでになったとき、俺の心はそれまでよりもなお――風のない夜の海のように静かになった。


 すべての準備は整った。そう思い頭をあげた。


 ――そこへ、アイネは来た。

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