271 約束(1)
――路地裏の風景を見ている。
ぼんやりとした薄日のにじむ、乾ききったコンクリートの谷底。その風景の中央にアイネとリカがいる。
アイネは膝を抱えて地面に座っている。リカは雨樋の横の段になったところに腰掛け、脚をぶらぶらと揺らしながらアイネを見ている。
「それで、向こうは何て?」
「何も」
「固まっちゃったんだ。目に浮かぶなあ」
「うん」
「それは意味がわかって?」
「たぶん……わからなくて」
「まあそうだよね。そこでちゃんとわかってくれてたら、今こんなややこしいことになんてなってないよね」
そこはあの日リカを見つけた――そして見失った路地裏だった。時刻がいつなのかわからない。朝の早い時間か、あるいはあの時と同じように昼下がりかも知れない。
その曖昧な景色の中に二人は話している。アイネはどこか拗ねたような顔で、それを見つめるリカは優しく穏やかな笑顔で。俺が知らない親友同士としての会話を、二人はしている。
「それで、アイネはどうしたの?」
「……ひっぱたいた」
「あは、あはははは」
「……笑わないでよ」
「うん、ごめん。そんなつもりじゃないの。でも想像しちゃったら、つい。あはははは」
「だから笑わないでったら、もう」
そう言ってまた笑うリカの横で、アイネはむくれたような表情をつくる。だがそれは彼女が俺に見せる不機嫌な顔とは違う。冷静を装った顔に不自然に浮かぶあの表情ではない。
恨みの目でリカを睨むその顔はどこまでも自然で、笑い止んだリカが謝ってもすぐ元には戻らない。
「それで、どうするの?」
「何のこと?」
「決まってるでしょ」
「……どうもしない」
「このままでいいの?」
「このままでいい」
「それは、例の規則ってのがあるから?」
「……ううん。そんなのはどうでもいい」
そう言うとアイネはリカから目をそらして膝を抱え直す。そして背を丸め、膝を抱える手のあたりに唇から下を埋めるようにして、目の前の地面を眺めるともなしに眺める。
「アイネにしては珍しいこと言うじゃない。規則がどうでもいいなんて」
「入るとき聞かされたとかなら別だけど、そうじゃなかったし。劇団とは関係ない場所で、そういうのがあるって聞いただけだから。わたしの場合」
「なら、どうして?」
「……」
「どうして、今のままでいいの?」
「……約束したから」
「約束? 本人と?」
「うん」
「どんな約束?」
リカの問いかけに気持ちが重なるのを感じた。
約束――約束とはいったい何だろう? いったいどんな約束があったというのだろう?
入団したばかりの頃に交わした約束――二人は決してそういう関係にはならないという誓い――そんな約束などなかったと、アイネはあのときはっきりそう断言した。
それなのに彼女は今、違うことを言っている。約束はあったのだと、今もその約束を守り続けているのだと、アイネはそう言っている……。
リカの質問にアイネは答えない。一層背を丸めて膝の間に顔を埋め、リカの方を見ようともしない。そんなアイネを少し困ったような目で見つめて、けれどもリカはそれ以上約束について尋ねようとしない。
「まあ、約束じゃ仕方ないか」
「うん」
「アイネはそういうとこ真面目だもんね。って言うか、頑固」
「うん」
「だから別のにするの?」
「え?」
「約束があって駄目だから、私の彼氏とっちゃうの?」
不意に心が軋みをあげる。ずっと問いたくて問えずにいたこと。俺の足を竦ませ、どこまでも執拗に責め苛むひとつの疑問。咄嗟に俺は両手で耳を塞ごうとし、けれどもその両手がどこにもないことに気づく。
リカの質問にアイネは答えない。下唇を結んだまま、どこか寂しそうな表情でリカを見つめる。そんなアイネをリカはしばらく真摯な目で見つめ返し、だがやがてふっと表情を緩ませる。
「そんな顔しなくていいよ。私は気にしてないから」
「……」
「いつも言ってるでしょ。細かいこと気にしすぎなのアイネは」
「……わかってる」
「わかってるならもっと自分の気持ちに正直になりなよ。ひとつもないんだからさ、しちゃいけない恋なんて」
リカはそう言ってアイネに微笑みかける。その微笑みに、アイネもまたぎこちない笑みを返す。
……再びリカと気持ちが重なるのを感じた。
それはまっさらな思いだった。アイネにかけた言葉も、いま向けている笑顔もリカの本心だった。かけがえのない親友の幸せを心から願う気持ちから来るものだった。それがわかって――心の軋みは止んだ。代わりに温かいものが胸の奥に広がってゆくのを感じた。
リカは優しい笑顔でいつまでもアイネを見ている。ぎこちない笑みでそれに応えていたアイネは、だがやがてリカの視線から逃れるようにまた顔を膝に埋めてしまう。
少女のようなその姿を、俺は素直に『可愛い』と感じた。たぶん、リカと俺は同時にそう感じた。
その気持ちに逆らわず、リカは無邪気に笑いながら、背中から負ぶさるようにしてアイネを抱きすくめる。
「アイネのこと大好き」
「……わたしもリカのことが好き」
「私の幸せをアイネにあげられたらな」
「そしたら今度は、わたしの幸せをリカにあげる」
優しい笑顔でリカはアイネを抱きしめている。その腕の中で、アイネは恥ずかしそうに困ったような変な顔をしている。……その顔をどこかで見たことがあると思った。だがどこで見たか思い出せなかった。
気がつけば俺はリカになっていた。リカになって、腕の中にアイネを抱きしめていた。
そこから先へ進むことはない、どこにもたどり着けない友情としての抱擁。けれどもそれは潔くて、どこまでも清々しくて――これがアイネとの間に俺が望んでいた関係だったのだと、そう信じた。
リカとしてアイネを抱きしめながら、いつまでもそんな二人を見ていた。
そこではじめて、自分が夢を見ていることに気づいた。これが夢の中であることを理解した。……覚めてほしくなかった。いつまでもこの夢の中に留まっていたいと思った。
だがそう思った瞬間、意識は夢の外側に向けて急速に浮上していった――
◇ ◇ ◇
目が覚めてしまったあとも、俺はしばらくそのままでいた。開きかけた瞼を閉じて、起きたときの姿勢で寝台に横たわったまま、もう一度眠りに落ち、夢の世界に戻ることを願った。
だがそれも無駄な努力だった。目覚まし時計の音なしに目覚めてしまった朝は、どんなに頑張っても二度寝はかなわない。それが理解できる程度に頭がはっきりしてきたところで見切りをつけ、寝台から起きあがり、顔を洗うために階下へ向かった。
寝汗を吸ったシャツを洗濯機に放りこみ、上半身裸のまま洗面台で顔を洗った。
顔を洗いながらアイネのことを考えた。……まるで昨日の朝の焼き直しだと思った。昨日の朝も俺はこうして顔を洗いながらあいつのことを考えていた。
……けれども違っていた。今朝こうして顔を洗いながら浮かび来る感情は、昨日の朝に感じていたものとは違っていた。
それは温かい感情だった。胸の奥にほのかな熱源をもってじんわりとうずくような、温かく優しく、何より心地よい感情だった。
それはさっきまでの夢の中でリカがアイネに対して感じていた感情だった。いつの間にかリカになっていた俺がアイネに対して感じた感情でもある。
顔を洗い終え、新しいシャツに袖を通す間もその感情は続いていた。階段をのぼり、再び寝台に寝転がって天井を見あげれば、あの夢の残滓がまだそこかしこに漂っているような気さえした。
寝台に寝転がったまま昨日の会場での出来事、そしてそれに続く幾つかの事件を思い返した。
夜の町をさまよい歩き、またあの戦場に遭遇したこと。二人組の襲撃を受け、クララからもらった銃で逆に倒したこと。そして、カラスの家の前でアイネを見たこと……。
……心は揺れなかった。昨日あれほど激しい衝撃を受けたのが嘘のように、俺は今その情景を静かな心で思い返すことができた。やがて、それがあの夢のおかげであることに俺は気づいた。未だにあとを引くあの夢の余韻が、俺をそうした穏やかな気持ちにさせてくれているのだと、そう理解した。
あの夢の中、リカとアイネはそのことについて話していた。そのことについて話しながら、二人はわかり合っていた。許し合い、互いを思いやっていた。そして俺はいつかリカになり、リカと同じ気持ちでアイネを思っていた。
アイネが幸せならそれでいい。アイネが幸せならそれが自分の幸せでもある。……あのときリカは心底そう思っていた。
こうして思い返してみれば、実にあいつらしい考え方だと思う。リカなら実際にそう思うかも知れない。そしてそれを現実に口に出して言うかも知れない。アイネが幸せならそれでいい、と。たとえその幸せの裏に自分の不幸があったとしても、それはそれでまた別の問題なんだ、と。
それは俺自身の感情でもあった。夢の中でリカになった俺は、リカと同じようにアイネを思った。アイネが幸せならそれでいい……と。
リカとしてアイネを思った気持ちは今も胸の中に残っている。その気持ちが今、俺の心を揺れないように支えてくれている。
――リカがくれたお守りだと思った。
この思いがある限り俺の心は揺れない。明日の舞台が終わるまでこの思いにすがってやっていこう――そう思った。
時計に目を遣ればもう時間だった。俺は寝台から起き上がり、部屋の隅に転がっていた鞄を拾い上げ、部屋を出ようとした。
そこでふと、机の上に置かれた携帯電話が目についた。もう半分忘れかけていた――あの日キリコさんから預かったきりになっている携帯だった。
蓋を開けてみる……ディスプレイは黒いままだった。電源と書かれたボタンを長押ししてみる……何も変わらなかった。もう電池が切れてしまったのだ。そのことを確認して、俺は携帯を机の上に戻した。
「……」
そのまま部屋を出ようとして……なぜかその携帯のことが気になった。少しだけ迷ったあと、俺はその電池の切れた携帯をジーンズのポケットに突っこみ、部屋を出た。
日はもう高くのぼっていた。はっきりとした夏の陽射しを肌に感じた。その夏の陽射しを待ちかねたかのように、今年最初の蝉たちがそこかしこで声を響かせていた。
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