270 茹だるような夜に(5)

 ホールの外は噎せ返るような暑さだった。時計はもう六時をまわっている。一日の間に太陽が残していった熱……重苦しく気怠いその熱の中を、俺たちは会話もなく歩いた。


 不意に、月曜日のことを思い出した。あいつの家を訪ねた帰り道、こうして同じように並んで歩きながら聞かされたあの長い昔話と……そのあとのことが、頬に受けた鈍い痛みとともに蘇った。


「――苛ついたからだ」


「え?」


 アイネがこちらに顔を向けるのがわかった。その顔を、俺は見なかった。


「月曜にあいつんの前で言ったこと」


「……」


「訊かれたのに答えがまだだっただろ。……苛ついたからだ。俺があんなこと言ったのは」


「……」


「あいつがアイネを無理やり家の中に引っ張りこもうとしてるの見て、苛ついて、むかついて、どうしようもない気持ちになった。……だからついあんなこと言っちまった」


「……」


「それだけ。……けど、もう言わないから。約束する。もう二度とあんなこと言わないから」


 これから向かう場所を思い、強い決意をこめて宣言した。もう感情には流されない。あいつに何をされても、何を言われても揺るがない。言葉に出すことで、俺は決意を心に刻んだ。


 だがそこでアイネは立ち止まった。


 振り返って彼女を見た。ぞっとするような冷たい目が道の先を――俺ではない別の場所を見つめていた。


「……やっぱり来ないで」


「え?」


「一人で行くから。ハイジは来ないで」


「何だよそれ……いきなり」


 返事はなかった。アイネは無言のまま俺の脇を擦り抜け、早足に行ってしまおうとする。


「待てって――」


 ばしっ、という音がした。


 無意識に彼女の腕を掴もうとした手は、衝撃とともに払い除けられた。


 それで俺は一歩も動けなくなった。早足に……やがて駆け足にアイネは視界から消えていった。その背中が見えなくなったあとも――月曜のあのときのように――俺はしばらくその場から動けなかった。


◇ ◇ ◇


 ホールには戻らなかった。来た道を途中まで引き返して、そこでホールに向かうものとは別の道を選んだ。


 戻って二人を待つべきだということはわかっていた。だが俺はそうしなかった。……そうすることができなかった。


 壊れそうな心を抱えたまま闇雲に町を歩いた。


 藍色に染まりはじめた空のもと、鈍い熱をもった大気の底には多くの人が泳いでいた。夕映えの装いをまといゆく初夏の町の景色があった。


 ――そのどれもが遠かった。そのすべてが、俺とは関わりのないどこか別の世界にあるようだった。景色も人も……肌にまとわりつく大気の熱さえも。


 アイネの眼差し――別れ際に見せた凍りつくような眼差しが頭の中でまわっていた。


 ……何がいけなかったのだろう。彼女をあんな冷たい表情にさせる、いったい俺はどんな言葉を吐いたというのだろう。答えの出ない疑問に頭はぐるぐるとまわった。熱に浮かされたようにぐるぐる、ぐるぐると頭はまわった。


 今こうしている間にもアイネはあいつの家の扉をノックしているかも知れない。そのことを思うと全身の血が煮え立つのを覚える。大声で叫びながら走り出し、そのままあいつの家に殴りこみたい衝動に駆られる。それは決して弱くない衝動で――けれども俺は歯噛みをしてその衝動に耐える。


 ……約束は破らない。俺はもう二度とアイネとの約束を破らない。


 ぐるぐるとまわる頭の中に、ただそれだけを繰り返した。代わり映えのしない景色がゆっくり流れてゆくのを幻灯のように眺めた。あるいは本当に同じ場所をぐるぐるとまわっていたのかも知れない。俺にはもう、自分がどこを歩いているかわからなかった。どこへ向かい歩いているのか……何のために歩いているのかわからなかった。


 どれほどそうして歩き続けただろう。黄昏にかかりかけた場末の裏通りで、俺は唐突に激しい息苦しさを覚えた。わけがわからないまま屈みこみ額の汗を拭って、すぐにその息苦しさの原因に気づいた。……数日前リカを捜して町をさまよい歩いたときと同じ、これは脱水症状だ。


 頭をあげて周囲を見まわした。冷めきらない熱を孕んだ薄闇が押し寄せる場末の町に、水場などどこにもなかった。その情景にいっそうの息苦しさを覚え、俺はふらふらと幽鬼のように水を求めて歩き出した。


 ぱぁん、ぱぱぱぁん――


 そこで――俺はを聞いた。


 昨日、駅前の広場で聞いたが、あのときと同じように俺の鼓膜を震わせた。今度はしばらくもしないうちにそれが銃声であることを理解した。理解できないはずがない。ここ数日の間に俺は、こうした状況に急速に慣らされてしまったのだ。


 ぱぱぁん、ぱぱぱぁん――


 けれどもそれを理解しながら、俺はとるべき行動をとらなかった。


 正確にはとれなかった。乾ききった身体はしきりに息苦しさを訴え、走って逃げることを許してくれなかった。それでも俺は銃声が聞こえた方角を確かめ、それとは逆の道に足を向けた。ふらつく足取りで一歩一歩どうにか前に進んだ。


 ――道の先に立つ人影に気づいたのはそのときだった。


 人影は二つあった。どちらかと言えばラフな格好をした大男と、小綺麗な身なりの小男。黄昏の薄暗がりにもそれが昨日の二人組であることがわかった。二人がそれぞれの手に黒く重々しいものを握っていることも。


 昨日と同じように二人はまだこちらに気づかない。だがいつかは気づくだろう。昨日と同じように。そう考え――俺は死を思った。彼らの銃弾に貫かれる未来を、他人事のようにぼんやり想像した。


 ぱぱっ、ぱぱぱぱっ――


 不思議と恐怖はなかった。ただ溜息をつきたくなるような諦めだけがあった。逃げることはできない、かといって立ち向かうこともできない。


 不意に俺は笑い出したくなった。早く気づいてくれ、そして俺を撃ち殺してくれ。水ぎれの乾ききった頭の中に、半ば本気でそう二人にそう語りかけた。


「……!」


 その声ならぬ声が届いたのか、あのときと同じように小男の方が俺に気づいた。短い言葉がかかり大男も気づく。そしてあのときと同じように、二人の銃がもたげられるのをスローモーションの映像の中に眺めた。


 ただ諦めだけがあった。できれば一発で仕留めてほしいという願いと、軽機関銃ではそれも叶わないだろうという醒めた客観――


 ……だがそこでふと、諦めとは別の感情が湧き起こるのを感じた。心を埋め尽くしていた諦めの砂に混じって――たった一粒どうしても諦めきれないものがあることを思った。


 そのとき、俺はに気づいた。


 気づくままポケットに手を差し入れた。差し入れて引き出した。引き出しざま両手にそれを構え、腕を真っ直ぐに伸ばして、撃った。


 ばぁん――


「……ッ!」


 小男が銃を取り落とし、うずくまるのが見えた。大男はそれを一瞥し、だがそのままこちらに駆けてきた。駆けながら撃っている。けれども当たらない。そう――そんなに遠くから、まして走りながら撃つ機関銃の弾など当たるはずがない。


 ばぁん、ばぁん、ばぁん――


「ぎあッ!」


 三発目の銃声のあと、大男は前のめりに倒れた。低い声でうめきながら両腕で腹を押さえている。その腕の間から黒い染みがアスファルトに広がってゆくのが見えた。


 血塗ちまみれの手で小男が必死に銃を拾おうとしているのが見えた。その姿に俺はようやく我に返った。


 きびすを返し駆け出した。……何だ、走ろうと思えば走れたのだ。一瞬そんなことを思い、思考はすぐにとぎれた。


 何も考えられないまま走って……走って……気がついたとき俺は、夜のとばりが降りかけた大通りの歩道をよろめくように、一歩また一歩と踏みしめながら歩いていた。


「……はあ……はあ」


 全身疲れきっていた。一歩を踏み出すたびに脚は頼りなくがくがくと震えた。脚ばかりではなく、手も。ちょうど酸欠になったときのように手首から先が痺れ、半分感覚がないような状態だった。


「……はあ……はあ」


 深い溜息をつくような息づかいが聞こえた。誰のものでもない、自分の息づかいだった。だがそれはまるで耳元で他人から吹きかけられる息のように重く生々しく、とても自分のものとは思えなかった。


 脱水による息苦しさはまだ続いていたから、多分それによるものだと思った。……それもそのはずだった。あれから俺は一滴も水を飲んでおらず、逆にこうしている今も汗を流し続けているのだから。


「……はあ……はあ」


 意識さえ定かではなかった。目に映る光景が明らかにいつもとは違っていた。そこはもう見知らぬ場所ではなく、大学にほど近い目抜き通りだった。……にも関わらず、俺はその場所に見覚えがなかった。家並みも街路樹も色褪せたブリキの看板も、俺がよく見知った……けれども見覚えのないものだった。


「……はあ……はあ」


 その景色の中に、俺はいなかった。俺という存在は確かにその景色の中にあって……だが、どこにも存在していなかった。


 自分という存在が世界から乖離しているのだと思った。その証拠に、すれ違う人は誰も俺を見ない。苦しい息を吐きながら覚束ない足取りで歩く、右手に拳銃を握ったままの俺を……。


「……」


 俺は立ち止まり、その拳銃を見つめた。


 S&Wの刻印が入ったリボルバー。隊長の妹からもらった弾丸のいらない銃。この銃で俺は二人の人間を撃った。そのうちの一人は……おそらく撃ち殺した。だがその事実は俺に何の感情も与えなかった。わずかな動揺も恐怖も、ましてや罪悪感も俺にはなかった。


 ……むしろ不思議に思った。軽機関銃を手に俺を撃とうとする相手に落ち着いて銃を向けられたことを。その相手をまるで熟練した兵士のように狙撃できたことを。そして何より――弾の入っていない拳銃で人を撃ったという事実を、自分がまったく疑いもなしに信じきっていることを……。


「……」


 右腕をおろし、俺はまた歩き出した。


 街灯に照らされる黄昏の通りに、人影は決してまばらではなかった。けれども誰一人、俺を気に留めることはなかった。……今ここで往来に向けこの銃を撃ったらどうなるだろう? ふとそんなことを考え、銃をもたげようとして――もうそうするだけの力が右腕にないことを思った。


「……はあ……はあ」


 歩き出すとまたすぐに息が苦しくなった。手の指の痺れもさっきよりひどくなっていた。限界が近いことは何となくわかった。それでも俺は歩くのを止めなかった。


 ……宛てもなく歩いているはずだった。だがやがて俺は、自分がに向かい歩いていることに気づいた。


 を思って、俺はさっき殺されかけたときにも感じなかった恐怖――竦みあがらずにはいられないような激しい恐怖を感じた。けれども俺は立ち止まることなく、に向かいゆっくりと歩き続けた。


 ――そうして俺は、月曜に訪れたマンションが見える場所にたどり着いた。


 乖離した光景の中に、あのときと同じ玄関の前に立つ彼女の背中を眺めた。


 扉が開いた。


 漏れ出す逆光の中に黒い男の影が覗いた。扉を開けたまま中へ戻ってゆく影。


 彼女は小さく振り返りこちらを見て――後ろ手に扉を閉め、その向こう側に消えた。


 ――その間、俺は何もできなかった。息をつくことも、瞬きをすることもできなかった。何を思うことも、何を考えることもできなかった。ただ胸の奥に弱々しく鼓動し続ける心臓の音を……喪心の中に感じていた。


「……っ!」


 不意に――耐え難い衝動が脊髄を走り抜けた。


 彼女が消えていった扉を見つめ、すぐ手の中の銃に目を移した。それからもう一度扉を睨んで、手にした銃のグリップを軋むほどに握りしめた。


 ……けれども俺は目をつぶり、歯を食いしばってその衝動に耐えた。声にならない声でうめき、震える全身をかき抱くようにして、よろめきながらその場をあとにした。


 どぶ川にかかる小さな橋の上で吐いた。


 胃液のほかに何も出なかったが、繰り返し何度も吐いた。苦悶のために出た涙と、吐瀉物にまみれた口の周りを拭って……右手の銃を見つめた。


 しばらく見つめていたあと、俺はその銃をどぶ川に投げ捨てた。


 ――それで、力が尽きた。どうにか橋を渡りきると、どぶ側のほとりのフェンスにもたれかかり、背中をずりながら崩れ落ちた。


 そこは工場だった。背もたれるフェンス越しに飴色の光が漏れ、機械の駆動音が忙しなく響いていた。


「……」


 乖離はそこで解けた。


 茹だるように蒸し暑い夜の町の裏通りに座りこむ自分自身の存在をはっきりと感じた。立ちあがることもできないほど憔悴した身体と、何も考えられないほど打ちのめされた心。その心にすっと、稼働する工場の明かりと音が染み入ってきた。


 思わず涙がこぼれた。世界中でこの工場が一番やさしい……心の底からそう思った。


 そして俺は立ちあがり、また亡霊のように歩き出した。息はまだ苦しかったがどうにか歩けた。どぶ川の橋に立ち、投げ落とした銃のことを考えた。


 夜の帳が降りた家並みを振り仰ぎ、扉の向こうに消えた彼女を思った。


 欄干にもたれ、もう一度どぶ川に捨てた銃のことを考えて――口の中に残る胃液まじりの唾を吐き捨て、舞台に照明を点したままのホールに重い足を向けた。

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